【成り代わり令嬢は全力で婚約破棄したい/191話】


 そういえば、晴れて貴族ではなくなったわたくしって、身分的には庶民なのかしら……?


 一応フォールズでは奴隷という身分は禁止されているはずなので、言い方はアレだけれど一番下の身分となると……庶民、ということだと思う。


 しばらくは話題に事欠かないでしょうけれど、学院生徒にわたくしのことやアリアンヌのこと、クリフ王子のこと……そういう『いろいろなこと』が伝わるのはどれくらいかかるのかしら。


 レイラやライラには、きっとものすごく怒られるわね。お手紙をそっと送っておこう。


 婚約が無効になって、家から除籍されただけだから、追われる立場にはなっていない。レイラさん達に手紙を出そうと、ラズールでゆっくり食事を摂ろうと関係ないはずなのだ。


 これで誰かに命まで狙われるというなら、もうフォールズの貴族なんか大っ嫌いになるわ。


 そんなことを考えながら寮に戻ってきたときには、とっくに学院の始業時間が過ぎていたので……生徒の誰とも出会わなかった。

 誰にも会わないことになんとなく安堵して部屋に戻ってくると、椅子に腰掛けて本を読んでいたレトが立ち上がる。


「おかえり。全て終わったかい?」

「――あら、白々しい。わたくしが心配で、王宮のことは全部聞いていたのではなくて?」


 レトはいつの間にか聞き耳を立てていることがありますもの。


 そう言うと、レトは苦笑いをしてその通りだけど、と素直に認める。


「辛くて泣いているようだったら、迎えに行くつもりだったんだ」

「……泣いてませんわ」


 ほんのちょっとだけ泣いたけどね。


 それを知ってか知らずか、レトはにこやかに『そうだね』と言って、テーブルの上に視線を移した。

「ジャンが学院に行ってくれたからね、リリーの書いた退学届……の受理と、部屋の退去書類の写し……と、鍵。揃えて置いてあるよ。部屋は綺麗にしたから問題ない。あとはここからいなくなるだけだ」


 いなくなるだけ、か。立つ鳥跡を濁さずというやつね。

 わたくしたちが使っていた荷物は、もう全て魔界に送ってある。

 学院で使っていた教科書や私物は、ジャンが全部ロッカーから回収して、ついでにフェーブル先生に退学届も出してきてくれたらしい。


 指示してあったことだとはいえ、ほんとに手際が良いわね。


 って……しみじみする前に……あの目つきの悪い剣士がいないじゃない。


「そういえば、ジャンは今どこに?」

「五階。管理人室の前にいるんじゃないかな。ああ、それとね」


 そう言いながら、わたくしの側に来て……レトはにっこりと微笑んだ。


「――……あの混血の子、オスカーって言ったっけ……目を覚ましたよ」

「……まあ! それはとてもよろしいことですわね!」


 よかった、わたくしの祈り……ではなく、アルベルトの思いが弟に届いたのだわ!


 生命力を削って疲弊したアルベルトと、その力を受けていた弟は、仲良くベッドを隣同士にしてゆっくり身体を休めているらしい。


「内臓も弱っているからまだ食事も水みたいなものしか食べられないそうだけど、きちんと食べて一週間もしっかり療養すれば、アルベルトの介護なしで動けるはずさ」


 その後、身体を少しずつ動かして、筋力を鍛えたりするらしい。要するにリハビリってヤツね。


 それはいいことだ。早く目を開けた彼の顔を見たい。


 あ、それに、魔王様にもきちんとご挨拶しておきたいし……エリクやノヴァさんの手伝いも、ああ、だめだわ……まず最近の魔界状況を把握することも……。

「よし……早くここを出よう。婚約破棄の噂なんて、人の耳に入るのも早いだろう? なにより、イヴァンやマクシミリアンがリリーを追って来たら本当に厄介だ」


 むしろ一番困るから……と心底嫌そうな顔でレトはわたくしの背を押す。


「彼らだってそんな暇じゃありませんわよ」


「どうせ今日はマクシミリアンだってアリアンヌだって学院行かないよ。ごちゃごちゃしたことを放り出して、リリーを引き留めようとするかもしれないじゃないか。そうなったらほんと迷惑だから」


 もう少し感傷に浸りたい気分だったが、当然すぐ出るつもりだったし。

 レイラの手紙はおいおい出せば良いか。勉強しっかりしろとか、お父さんは無事に帰すから、とか。


 二人で部屋を出て、思い出の詰まった部屋の鍵を閉める。

 もう人の生活していた気配さえも消えたこの部屋は、退去後にまた綺麗に掃除されたあと、いつか誰かが使うのだろう。


 わたくしがアリアンヌと敵対したら、魔導の娘という存在も注目されることだろうし……不吉だといってリフォームされるかもしれないわね。まあ、そこはどうするかなんて知ったことではない、けれど……。


 一年に満たない間だったけど、どうもありがとう。居心地がとても良かったですわよ。


 そっと心の中で部屋に礼を言いながらドアノブから手を離し、鍵を握りしめたまま五階に上がり、管理人室へ向かうと(本当にジャンは五階にいてわたくしたちを待っていた)書類と鍵を提出した。


 既にジャンから話を通されているらしく、無愛想な管理人さんからなにも質問されることはなく、滞りなく引き渡しも完了した。

 これでわたくしはもう貴族ではなく、職業も学生ではなく、住む家もなく……という、持つべきものはなにもない、ただのリリーになったのだ。

「それじゃ……あるべき場所に戻るとしようか」


 側に着いていたレトが、管理人室の前であるにも関わらずそう告げる。

 なにか妙にせっかちというか、焦っているというか……。


「ねえ、せっかくめでたいことが重なった日なのですから、今日はパーティしませんこと?」

「そうだね。とても良いと思うけど、まずここを出て帰ってから話そう」


 やはり焦っている。

 彼は魔界に戻るつもりで瞬時に足下に転移陣を展開させたはずだが……。

 発動する前に消失し、紫色の光が僅かに指先からこぼれ落ちるだけ。


「んっ? この魔力に干渉させる感じ……まさか……!」


 一瞬怪訝そうな表情を浮かべたレトは、なにかに思い至ったのだろう。弾かれたように後方を振り返り――……うっ、と呻いた。


「――……間に合ったようで良かったです」


 そこにいたのは、レトが厄介だと言っていた二人……イヴァン会長とマクシミリアンがいたのだった。




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こめんと

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