『――クリフ王子。ここ数日の騒ぎで、わたくし……いえ、ローレンシュタイン伯爵家のメンツを潰して申し訳ないとお感じでしたら、ちょ~っとだけ、お願いがございますのよ』
クリフ王子がおかしくなったあの日、わたくしがにっこり微笑みながら持ちかけたのは『婚約破棄して欲しい』ということだった。
婚約破棄という禁断の四字熟語を提案しているのは今まで何度かあったので、クリフ王子は『またそんなたわけたことを』と言って一蹴しようとしていたのだが……今回は本気のお願いなのですよ、と言ったので、クリフ王子はじろりとわたくしの顔を睨む。
『あなた、そうしないとアリアンヌさんを幸せにできないじゃありませんか』
『だからといって、婚約破棄を持ち出せば彼女が幸せになるとでも言うのか? そことローレンシュタインのメンツは関係ないだろう』
『……アリアンヌさんは、あなたのことを好いています。きっとね。そしてあなたも、アリアンヌさんを愛しているのでしょう? わたくしは、あなたが嫌い。あなたも、わたくしが嫌い。もうおわかり?』
『いい加減にしろ。貴族の婚姻やら破棄が、好きだの嫌いだのという理由で成立すると思っているのか』
『では、わたくし予言しますわ。近い将来、わたくしはくだらないことでフィッツロイ家の標的になる。そして、アリアンヌさんは戦乙女としてフォールズを導く存在になるでしょう。貴族的にも、政治的にも、あなたの気持ち的にも……わたくしとの婚約をなるべくもっともらしい理由で破棄し、アリアンヌさんと婚約なさい』
『はっ。そんなくだらない、子供だましのたわごと……』
『――では現実になったら、破棄してくださるわね?』
わたくしは本気なのよ。そうクリフ王子に告げると、彼は困ったようにわたくしを見て、どうしてだ、と聞いた。
『未来の王妃になるのは、貴族最高の名誉だ。ローレンシュタイン伯もお喜びになる。それに……一応、貴様は王妃になるために学んできたんだろう? それを破棄して、何を望むというんだ』
『……わたくし、将来フォールズの……アリアンヌさんの敵になるのです。本当なのです。誰が止めても、運命は変えられないのですわ。ですから、わたくしが婚約者のまま、もしくは王妃なんかになってしまったら……アリアンヌさんを処刑するかも分かりません。不当な処刑が起きて、王国で貴族と国民を巻き込んだ大反乱が起きても知りませんわよ』
そう言って笑うと、クリフ王子はまた『くだらない』と吐き捨てたが、しばらくの沈黙の後、本当にそうなのか、と聞いた。
『本気で、本当に分かるからそう言っているのか』
『ええ。あなたが嫌いというのも本当です』
そこは聞いていないが、と言いながらも、クリフ王子はそうか、と呟く。
『嫌い、とはっきり言われるのもなかなか……ことだな。一応……僕は貴様との婚約が決まってから、わがままを言われてもずいぶん尽くしたつもり、だったんだが』
見てないから知らないが、本人が過去に言っていたのは確か、すぐに会いに来い、みたいな手紙を何回も何回ももらって、その都度足を運んでいたようなことを聞いた。
それであのサイコパス令嬢が満足したとは思えないのだが、怖いからそれ以上聞かないでおく。
『…………申し訳ございません。記憶を無くす前のわたくしは、きっと満足であったことでしょう。そして、あなたのために頑張っていたでしょうね』
でも、きっと運命は変わらなかった。
そう告げると、クリフ王子はほんの僅かに眼を寂しげに細め、遠くを見た。
『――……まあもしも、本当に貴様の言うことが現実に起こった場合にのみ、真剣に考慮するよ。現実に起こらなくとも、僕らの間は進展がないようだが……』
それは『取引』とか『協力』というものより小規模で……身勝手な『お願い』だっただろう。
――……現実に起きた今、あなたはどんな気持ちで、婚約破棄を宣言されたのかしら。
わたくしがもっと真面目に貴族のことを考えたら、少しくらいは……仲良くすることもできたのだろうか。
「お待ちください!!」
「待ってください!」
やりとりを見守っていたマクシミリアンとアリアンヌの声が同時に被る。
クリフ王子はマクシミリアンに視線を向け、もう決めたことだから覆らないぞと冷酷に告げる。
「ラルフ様がリリーティアに恨みを抱いていたことも知っています。だが、実行して学院に損害を与えてしまったのは、手を出したのはラルフです! 本当にリリーティアが……彼女だけがこれほど重い罪に問われるべきなのですか?!」
「そうです、お姉様はラルフ様にひどい言葉を投げられても、きちんと誠意を持って対応されていました! 何かあったらクリフォードさまにご迷惑がかかるから、必死に耐えておられました!! ラルフ様を怒らせたのは……悪いのは私です。なのに、どうして……お姉様だけなんですか!? 私にも罰を与えてください! どうして婚約破棄までしなくちゃいけないんですか! あんまりです!」
二人とも、わたくしのために必死に弁護しようとしてくれている。
その気持ちはとても嬉しい。
でも、でもね。ほんと、申し訳ないんだけど……。
これはわたくしが望んだことで……これ以上二人が悲痛な訴えを起こして、同調した誰か(特に偉めの御仁)が『そーだぞ。かわいそうだからそこまでしなくていいじゃん』って言わないようにしておこう。
「――……マクシミリアン様、アリアンヌさん。よろしいのです。わたくしはこの罰……婚約破棄を厳粛に受け止めます」
ご迷惑をおかけ致しました、と二人に詫び、能面のような表情になっている父親に、お父様、と呼びかけた。
「このような場で、ローレンシュタイン家の名誉を傷つけてしまい、わたくしには謝罪以外に口にすべきの言葉もございません……どうか、このリリーティアを一族から除名してくださいませ……不出来な娘に、最後のお慈悲をください……」
深々と頭を垂れると、周囲からは再びどよめきが起こった。
やばい、今度こそ『なにもそこまでしなくて良いじゃん』の波動を感じる……!
「お前は……何か勘違いをしていないか」
お父様はそう言って、じっとわたくしを睨み付ける。
「……我がローレンシュタインに、リリーティアという娘は存在していない」
「――……え……」
ぽかんとした表情を浮かべてしまったが、お父様は不愉快極まりないという顔で更に続ける。
「どこの誰とも知らぬ、リリーだかリリーティアだとかのたまう下賎な者よ。お前は貴族でもなければ、わたしはお前の父親でもない。ここはお前の来るべき場所ではない! 今後二度とローレンシュタインの姓を名乗るな! 次にそのようなことがあれば、その首を刎ねてやるぞ!」
そう強い語調で言い放ったお父様……いや、ローレンシュタイン伯爵に、アリアンヌはショックを受けたような顔をして固まってしまい、旧友であるはずの宰相様も苦い顔をする。
そんなところで、驚いていない人もいた。
扇で顔を隠してはいるものの、王妃様の目尻は下がっている。
どうかしら、王妃様。あなたの思う通りに運んで満足かしら。
わたくしも、後味は最悪だけど……望み通りに全てから解き放たれたようですわよ。
「――……ローレンシュタイン伯爵……ご忠告をいただきまして、ありがとう存じます」
どうか、ローレンシュタイン家に幸いあれ。
お集まりの皆様にも深く一礼し、わたくしは退室するために王族の皆様へと背を向ける。
不憫そうな表情を浮かべる方もあれば、嬉しさを堪えている方もいる。
何かイベントが起きそうだとは思ったが、なんと婚約破棄のイベントとはね。
そして、わたくしがリリーティア・ローレンシュタインという名を捨てるイベントでもあったのだ。
なんだろう。割とすっきりしていいはずなのに、なにか寂しい。
王妃様の思うつぼだったのが悔しい? いいえ。そんなことはない。
お父様に最後まで認めて貰えなかったことが悲しい? いいえ。わたくしもローレンシュタインでいたいわけではないから、むしろありがたいことだ。
じゃあ、なぜ……わたくしは寂しいと思うのか。
人々の視線を痛いほどに感じながら、大広間から出ようというところで――……。
「――……お姉様!! 行かないでください!!」
わたくしの耳に、アリアンヌの絶叫が届いてくる。
「私のせいで、どうしてお姉様が不幸になるんですか!? 私がいたから……私が……なったから、いけなかったんですか?!」
なった、のは……クリフ王子を好きになったと言うことか、戦乙女になったからなのか、その両方のことか。
「――……いいえ」
本来ならもう発言は許されないはずなのだけど、わたくしは足を止め、泣きじゃくるアリアンヌに向かって否定の意を告げた。
「わたくしのなすべきことは、ここでは叶えられない。それが知りたければ、あなたの半身に尋ねると良いでしょう。次にあなたとわたくしが顔を合わせることがあったなら……どういうことになるか、必ず教えてくれるはずよ」
わたくしを魔導の娘と知っていた聖剣ヴァルキュリエ……クロウならば必ず知っているはずだ。
知らないなら、いずれ運命が巡れば分かるだろう。
さようなら、と今度こそはっきり告げて……リリーティア・ローレンシュタインとしてのわたくしは立ち去った。
遠くでアリアンヌの鳴き声が聞こえた気がしたが、もう歩みを止めることはない。
ああ、そういえば、どんぶりで舞踏会をこのままの調子でいけばどうなるか、というのを見たことがあったわね。
そのときも、クリフ王子は激怒して、アリアンヌは号泣していたようだった。
わたくしの頑張りとマクシミリアンの協力のおかげで予知っていうの? そこは変わったのかもしれないが、あなたを結局泣かせてしまったのね。
そう思うと、わたくしの胸は再び痛んだ。
――……そうか。わたくしは、アリアンヌさんを泣かせたのが辛いのね。
別れが来るとわかっていたことを、もっと穏便に済ませたかったから。
そっと胸に手をやりながら、わたくしは王宮を出る。
そこにはローレンシュタインの馬車が停まっていて、わたくしが戻ってくる姿を認めた御者さんは恭しく礼をし、扉を開けてくれたのだが……必要ありませんと辞した。
「わたくしにはもうローレンシュタインの馬車に乗せていただく資格はございませんわ。アリアンヌさんが戻るので、もう少々待っていらして」
不思議そうな表情を浮かべた御者さんにごきげんようと一礼し、わたくしは王都へ向かって歩く。
ジャンが護衛として行くことは許可されていなかったので、正真正銘ひとりぼっちの帰路だ。
むしろ、それでよかったかもしれない。
うっすらでも、涙を浮かべているわたくしを……誰にも見られることがないのだから。