翌朝、居間に顔を出して――……いつものようにそこにいるのは、支度をすっかり終えて(売店で毎朝買ってくるらしい)新聞を読んでいるジャンだけだった。
レト達はまだ帰っていなかった。
まだ安心できない状態が続いているのか、疲れ果てて眠っているのか……どちらにしても、ジャンにも連絡は来ていないようだ。
それから食堂に行って朝食を摂っていても、クリフ王子の話題も出ず、周囲は穏やかなものだった。
アリアンヌが学院へ一緒に行こうと登校のお誘いにやってきたが……いまだ王家や伯爵家の使いも、誰一人としてわたくしたちの前にやってこない。
「よく眠れましたか?」
「……恥ずかしいことに、疲れていたので……あの後お風呂に入って、すぐ」
学院に向かいながらアリアンヌに体調や気分を尋ねると、特に悪いということもない返答だった。
実際に彼女の顔色も悪くないし、精神的にダメージもないようだから、普段通りに過ごせることだろう。
しかし、アリアンヌから見たわたくしは少しばかり元気がないという。
潜入した屋敷内で言っていた通り、アリアンヌはあの子の話題は口にしない。
あれからどうしたとか、そういうことも聞いてこない。
わたくしなら関わらないと言いながらも気になるからこっそり聞いてしまうだろうが、アリアンヌは自分の言った通りに行動していて、きちんとわきまえている。
いつも通りに過ごそうと教室に入ると、わたくしとアリアンヌへクラスメイトの視線が集中した。
これはわたくしたちに限ったことではなく、教室に入ってきた人物が『誰』なのかを確認がてらチラッと見るだけのことだ。
それが友人だったら気さくに声をかけるとか、それだけの意味しかない。
その視線が離れない場合は、主に奇異の視線だ。
三角関係なドラマを今日も見せてくれるのか、楽しみにしているという……こちらにとっては迷惑極まりないものが向けられる。
こっちも平素と同じね……。と、椅子を引いて座ろうとすると……机の棚部分から、かたん、という何かが倒れる音がした。
次いで、どろりとした赤い液体がポタポタと滴り落ちてくる。
「下がれ!」
異状を察したジャンがわたくしの肩を掴んで後ろに引いたが、机から出ているコレは、血……ではないみたいだ。あの独特の臭気はないし、色が鮮やかすぎる。
「ひっ……!」
だが、光の加減では生々しく見えたのだろう。アリアンヌが一瞬引きつった声を上げたので、近くにいた女子達が怪訝そうにこちらを……わたくしの机から出ている何かを見てしまったのだろう。
「やだ……なに!? なに、気持ち悪い!」
大きな声を発したので、クラス中の視線がその子の目線を追い……わたくしの机、そして床に落ちる液体に縫い止められ、血だ、というざわめきが起こった。
ジャンが机の中を覗き込むと……おもむろに手を突っ込み、引きずり出したのはぷるぷるした何か。
ただ、赤くて気持ち悪い固まりにしか見えないので、女子から悲鳴が上がった。
「……スライム?」
わたくしが怪訝そうな声を上げるが、デロデロのスライムからは返事がない。
彼らはいい子なので、見知らぬ固体でもわたくしが話しかければ応じてくれるのだ。
多分、わたくしだけではなく見知らぬ人間達の呟きにも、身をぷるぷる震わせながら反応してくれている、はずだ。たとえ言葉が通じなくとも……。
そんなスライムから応答はないし、身も崩れているということは……どうやら死んでいるらしい。
少し焦げた臭いがするから、炎の魔法か松明でも押しつけられたのかな。
そして、赤い液体まみれの小瓶をジャンが取り出し、鼻を近づけるが……インク? という怪訝そうな声を発した。
「まあいい。おい、新聞を開いて机の上に置け。全部は置くなよ。汚れ拭き取るのに使うんだから残しとけ」
端から見れば護衛が主人に命令するという生意気な態度で、お尻のポケットにねじ込んでいた新聞をわたくしに引っ張り出させ、紙を広げさせる。
べしゃっという生っぽい音を立てながらスライムだったものはそこに置かれ、教室と……さっきの甲高い悲鳴を聞きつけ、何が起こっているのかと見物に来た野次馬から悲鳴や勝手な感想が上がった。
うわぁ気持ち悪い
またあの人だ
アレどうなってんの? 誰か死んだの?
口々に誰かがいろんな事を無責任に発し、クラスメイトも遠巻きに集まってくるが誰一人手を貸そうとは――……いや、アリアンヌはスライムを新聞で素早く包んで衆人の目から隠し、パウラちゃんは折りたたまれたワックスペーパーを数枚差し出して、使ってくださいと小声で話しかけてくれた。
そして、廊下を塞ぐ程に人が集まって騒いでいるのだから、正常ではないわけで――……。
「――通してください。生徒会です」
凜とした声に、アリアンヌの肩がびくりと跳ね、ジャンが露骨に嫌そうな顔をした。
この二人の反応から誰なのかはわかるけど……。
各自教室に戻りなさい、通路を塞がないでと言いながら教室に入ってきたのは、イヴァン会長である。
美形だからいつも綺麗なんだけど、今日は一段とそのお姿がキラキラして頼もしくも美しく見えるわ。沼に降り立った一羽の白鷺みたいな感じよ。
イヴァン会長は、手を塗料で真っ赤に汚して机の中を拭いているジャンに『何をしているのですか』と冷たい声音で尋ね、ジャンも『見りゃわかんだろ、拭いてんだよ。目玉付いてないのか』と返す。二人の間には常に火花が散っているようだ。
「貴方の手が汚れるのは仕事柄当然だとしても、机を余計に汚さないでくださいませんか? リリーティア様の机がますます汚れてしまいました」
「じゃあ生徒会長さんの青白くてほっそい手で綺麗に拭いてくれよ。もっとも、この机はあんたの大好きなお嬢様の机だ。案外興奮してあんたが血反吐やら何やらまき散らしたんじゃねえか? おい、ロッカーの持ち物に変な液体がかかってないか、きちんと調べといた方が良いぜ」
「低俗で下劣な発想を! これだから野ザルは!」
「そうやって怒り始めるところが怪しいじゃねえか」
イヴァン会長とジャンは今にも戦闘を始めてしまいそうだ。
わたくしは二人の間に入って、違うのです、とジャンを背に庇いながらイヴァン会長に視線を向けた。
「……わたくしが椅子に座ろうと引いたら、机の中にスライムの死骸が入っていて、赤い液体がこぼれて……この騒ぎに」
「ああ、リリーティア様……怖かったでしょう……お可哀想に」
「わぁ……なんか露骨に態度違いますね……」
アリアンヌが絶句し、ジャンとわたくしを交互に見やる。
当のイヴァン会長は何も聞いていないという感じでアリアンヌの言葉を無視し、わたくしをひどく優しい目で見つめた。怖い。
「机はある程度汚れを拭き取った後、備品と交換しましょう。状況の確認がてらしばらくお話を伺えますか」
それに頷くと、アリアンヌが私も立ち会いますと言ってくれたが、イヴァン会長に『貴女が立ち会う必要などありません』とぞんざいにあしらわれていた。
「……露骨すぎる……病弱すけべ……」
「……何か仰いましたか?」
「なにも……」
小声で文句を言っていたアリアンヌは、イヴァン会長の鋭い視線に怯んで視線を外すと、新聞紙を破って床を拭き始めた。
おっと、二人がこんなに一生懸命やってくれるのに、わたくしがボケーッと見ていちゃダメね。
とりあえずパウラちゃんがワックスペーパーをくださったから、これにゴミを包んで捨てましょう……と手を伸ばせば、その手首をイヴァン会長がむんずと掴んだ。
「ひゃっ!?」
「貴女には事情の説明をしていただく義務があります。生徒会室に同行していただきたいのですが」
「掃除済んでからでいいだろ」
「それが終わるのを待っていては、時間効率が無駄なので。備品を取りに行くついでにお話を伺うのですよ」
ぜってー嘘だろ、と言いたげなジャンの目がイヴァン会長を射貫いても、彼は動じない。
さあ、と心なし嬉しそうな声でイヴァン会長がわたくしを促すと、あのぅ、と申し訳なさそうにセレスくんが声をかけてきた。
「……リリーティア様は、この騒ぎで動揺しておられます。メンタルケアのため、私も同行させてもらいます。男女二人きりというのもよろしくありませんから……あ、私は教会に属しておりますのでご安心を」
倒れでもしたら大変ですから、と……穏やかな笑みをわたくしたちに向けつつ、『不義だと疑われては身の潔白を示すのも難しいでしょうから、それを防ぐためです』と有無を言わさぬ権力を振りかざしてくる。
これにはイヴァン会長も頷くしかなかったようで、よろしくお願いしますと笑顔を向けている。
その笑顔の裏に何が潜んでいたのかは、恐らくこの状況でセレスくんしか知るものはいない……だろう。だが、司祭様も微笑んでいるだけで、表情一つ変わりはしない。
わたくしとセレスくんを連れて、生徒会室に向かおうとするイヴァン会長の背中に、ジャンが『バーカ』と子供みたいな、やっすい挑発を投げかける。
「…………」
イヴァン会長は振り向かなかったが、扉の前にいた生徒が怯えたような声を発して逃げていったので、恐ろしい形相をしているのだろう、というのだけは……想像できた……。
教室を出る際、わたくしはそれとなく周囲を確認し……人垣の間から、あのハニーブロンドの男の子がこちらを見ているのも見えた。