【成り代わり令嬢は全力で婚約破棄したい/172話】


 眠気。それはかなりの難敵。


 心身共に鍛え上げられた戦士ならともかく、ぬるま湯に浸かっているような暮らしをしている人が強烈な眠気に抗えるはずもない。


 はたしてどれくらいの人間が眠ることになったか……。


 隠し部屋から出て、棚のある部屋に戻る際、誰の気配もないことをアリアンヌに確認してもらい……引き戸を開ける。


 そこには確かに誰もおらず、罠が仕掛けられているような反応もない。


 睡眠成分の入った煙が屋敷に行き渡るまで、もうちょっとだけ時間を稼ぐか。

 わたくしはまたこの部屋を物色し、魔界の本が他にないかと思って棚も確認するが……それっぽいものはない。


 机の上も、珍しげなものはないのだが……インクでべったり汚れている机が気になった。綺麗に拭いたら良いと思う。


 インク集めが趣味なのか、用途が決まっているのか……赤いインクや青いインク、紫に黒……と、机上に数種類置かれている。どれも同じメーカーの商品と思われるラベルが貼ってあるわね。

 インクから床に視線を向け、メモを確認してみたが……色とりどりに使われていそうなものはない。


 ふむ……まあいいか。いざとなったらこの散らばったメモをごっそり持って帰ろう、とも考えながら、そーっと廊下に通じる扉を開き、慎重に進む。


「クリフォードさまは一階……ちょうどこのあたりに……いらっしゃる、みたいです」


 廊下の途中でアリアンヌが立ち止まり、階下の部屋であろう場所を指す。

 階段の手前の部屋ね。

 降りてすぐの場所なら、ここから見えるかも……と、手すりから身を乗り出して階下を確かめるが、玄関前に二人、奥にも二人倒れているのが見える。

 死んでない? 大丈夫よね?


 足音を立てぬよう気をつけながら階段を降りきり、倒れている人物に近付く。


 いずれも女性で、同じ前掛けをつけているから使用人の女性だと思う……。


 なんだか穏やかな表情で眠っていて……。気持ちよさそう……。

 巻き込んでごめんなさいね、と心の中で詫びて立ち上がるが、急にずきんずきんと脈動する頭痛が出てきて、額を押さえた。


 なんなの、痛いわ。偏頭痛? そんなわけ……ないな。でも頭痛薬は持ってないのよ。


 指の震えが――……ひどい……ああ、これ、普通じゃないわよ……あのモヤモヤか、お香っぽい匂いの、せい……。

 アリアンヌはどうかな……階段の上、見ると、誰もいない……。


 どこいった……の? 頭痛、凄く痛いけど……よいしょ、と立ち上がって……ああ、アリアンヌ、先に行って、なんか苦しそう。瓶のなにか飲んでる。薬、そうか、くすり……。


 なんかわたくし、思考も緩慢になりつつある……そろそろ、マズイ、かも。


 震える手でポーチから万能薬を取り出し、ぐいっと飲み干す。

……。



…………あら。一瞬でだるさとか痛みがスッと消えたわ。

 へー。なかなか凄いのね万能薬。さすがわたくしが作っただけある。

 ゲーム中ではこういう『手に入りにくいちょっとお高いアイテム』って、もったいなくて使えなかったのよね。ケチって最後まで持っていたりして。


 しかし、もうちょっとモヤモヤのバッドステータス発生を我慢していたら、何も考えられず倒れているのをフィッツロイ家のヤツにバレて、一気にお家取り潰しエンドになっていたのかしら。


 うわ、それはかなり危ないところだったわ……うん、まだ飴も残ってる。睡眠効果だけは気にしないでいられるわ。

「……大丈夫?」


 さすがに戦乙女であろうとモヤモヤはキツいのだろう。少し疲れた様子だったが、そう声をかけると『はい』と返事をして瓶に残っている万能薬を飲み干した。


「我慢できなかったので……飲んじゃいました」

「わたくしもです。むしろわたくしたち、よく頑張ったのではないかしら」


 そう意見を述べてみると、アリアンヌは存外に嬉しそうな顔で笑った。


 わたくしと大差ない程度で限界がやってきているということは、アリアンヌとわたくしは……状態異常の耐性は同じくらいある、と判断しても良いかもしれない。

 万能薬が入っていた空き瓶をアリアンヌから受け取ってポーチにしまうと(ゴミはスライムに食べさせてごはんにするのよ)、彼女が背を預けていた扉――ここが、クリフ王子達のいる場所なのだろう――を睥睨した。


 耳をぴったり扉に付けて、音を拾おうとするが、しばらく待っても中からは音が何も聞こえてこない。


 アリアンヌは確かにここにクリフ王子達がいると言うし……様子がわからないなら入るしかないわね。ドアノブを回すも、やはりここも鍵がかかっていないようだ。

 そっと扉を開いて中に入る。ふわっとお香のかおりが濃厚に漂った。

 室内には六人、テーブルに突っ伏したまま倒れている。


 手前側にクリフ王子、マクシミリアン、そしてこのピンク髪の男は……アルベルトか。


 奥には見たこともない中年の男性……これが王妃様のお兄様であり、ご当主かな。その横に女性。三十代くらいなので、公爵の奥様と思われる。


 そしてもう一人は……あら、学院で見た子……じゃないわ。


 髪の色は似ているけど、くせっ毛でもないし。てっきりあの子がラルフだと思っていたけど、ちゃんと調べたわけじゃないものね。


 全員ここですやすやとよく眠っているようだ。


 窓は既にカーテンが閉められている。

 外から覗かれるのを避けるためか、日差しを避けるためか、それとも断熱性を高めるためか定かではない。


 だが、おかげで外からこちらがどうなっているのか判断付かないので、彼らは反応があるまで待つほかないのだろう。


 暖炉の近く……煙突とは別に、あの配管が露出しているのが見えた。あのモヤモヤが送り込まれているっぽいわね。


 じゃあこの香りは? と、室内を探っていると、窓辺に吊り下げ式の香炉が置かれていた。


 その横には円錐形 (いわゆるコーン型)のお香が、小箱の中にたくさん入っていた。


 こいつを燃やすとおかしな効果があるって言うなら、危険な成分が入っているに違いない。


 一つ二つ失敬したところでは解明できないかもしれないわ。なんたって人の精神に作用する危ないものだし、これだけたくさんあるってことは、どうせ製法は知ってるんだろうから全部もらっていきましょう。


 と、わたくしが小さな罪を重ねている間に、アリアンヌがクリフ王子の側に駆け寄って寝ているだけかどうか確認していた。


 一番奥に座ってぐったりしているクリフ王子……アリアンヌはそっとクリフ王子の身体を抱きしめ、部屋から出そうと身体を引っ張るが……まあ体格差があるのよね。ちょっと待ってね、今そっちに――……。

 だが、アリアンヌはここで再びゴリラパワーを発揮する。


 ひょいとクリフ王子をおんぶして、スタスタ早足で階段の下まで担いでいった。


…………マジなの?


 玄関前に下ろすと、ほっとしたようにクリフ王子の額に張り付いた前髪を指先で払い、恋い焦がれる相手の無事を確認できたらしく微笑んでいる……。


 こう言えば凄くいいスチル絵っぽいのだが、フードを被っている謎の人物が男の寝顔を見てニヤニヤしているだけだ。かわいそうだが現実はこうだ。


 おっと、わたくしのほうもこれ……マクシミリアンの確認をしなければ。

 顔を覗き込んでみるが、うーん……状態がどの程度進行しているか分からないが、顔色は良くない。

 早くこの部屋から出して、治療か休養をさせないと……。


 マクシミリアンはクリフ王子より少し背が高くて、がっちりしている。

 怪我をさせぬよう椅子から引きずり下ろすのも一苦労だった。


 これをかつぐなんて力はわたくしにはない。


 事は急を要する。

 残念だが、マクシミリアン。わたくしのためにその身を汚して欲しい。

 割れたら困るのでメガネを取り外して胸のポケットに押し込んでやると、眠っている彼の両腕を引っ張り、ずるずると引きずりながら部屋を出る。


 途中、足がもつれて二度ほどマクシミリアンの頭に蹴りを入れてしまったが、その度に心の中で激しく詫びながら引きずる。


 玄関前まで連れてくると、掴んでいた腕を放り出す。その際……ゴン、と鈍い音がした。腕を放したとき、マクシミリアンの頭が床に打ち付けられたのだ。


 大丈夫だ。死んでいない。ただ起きないだけだ。気を失っているといっても良いかもしれないわね。

「…………」


 アリアンヌが不憫そうに彼を見ていた。


 見てるなら手伝ってくれても良いのにと思ったが、わたくしも彼女の手助けをしなかったから、ここで文句を言い出すわけにもいくまい……。


 それに、多分マクシミリアンなら大丈夫よ……子供の頃からリリーティアの暴力に慣れているらしいもの。ごめんね。

 じゃあそろそろ仕掛けて帰るか。とマクシミリアンから離れようとしたとき――……。


「うご、くな……!!」

 という、苦しげな男の声が後方から聞こえた。


 驚きつつも肩越しにゆっくり振り返ると、ふらふらとした足取りで姿を見せたのは……アルベルトだった。


 驚いた。もしや起こしてしまったか、眠りが浅かったか……。


 さすが近衛騎士団というか、魔術師というべきなのかしら。


「賊、め……! 殿下と、マクシミリアン様から……離れろ……!」

 顔を隠しているおかげか……わたくしたちだとアルベルトはまだ気づいていない様子。


 ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返し、彼はその場に片膝をついた。

 身体のバランスを崩した拍子に握っていた杖も取り落とす。カランカランと床を転がる硬質な音が響いた。


「あ……」


 床に転がった杖は彼の目の前にあるというのに、なにもない床の上をあちこちペタペタ触って……いや、もしや杖がどこにあるか見えていない……?


 盲目状態、ということ? 眠気にはなんとか抗えたというだけで、どうやら彼も相当に状態異常を食らっているっぽい。


「…………」


 この隙にアリアンヌはわたくしに目で『逃げよう』を訴えかける。その件は大いに賛同させてもらいたい。


 どう逃げようか……などと思っていると、アリアンヌは素早く屈み込み、階段を駆け上がっていく。


 駆けるというか、不安定な姿勢な上、なんかシャカシャカ両手まで使って階段を上がっている姿は……摩訶不思議な生物だった。


「く、待……!」


 これにはアルベルトも対応が遅れ――……ているのだから、わたくしもボーッとしてないで逃げ出すのよ!!


 わたくしもできるだけ身を低くして階段を駆け上がり、アリアンヌ共々さっきの部屋を目指す。


「待て……! あ……だ、誰、か……、誰かいないか……!!」

 階段を上りきったとき、階下でアルベルトが大きな声を発した。


 その声を聞いた外の警備が、どうしたと扉越しに聞いている。

 まずい、早く逃げなくちゃ……!


「賊がっ……! 侵入者だ!」


 アリアンヌと一緒にさっきの部屋に逃げ込むが、外は何やら男達の声で慌ただしくなっている。


 それどころじゃない。玄関が開かれ、ドタドタと数人で階段を上ってくるような音まで聞こえていた。


「早く……!」


 アリアンヌが棚を押している間、外の様子に耳をそばだてていたが……通路に滑り込み、わたくしの手を握ってアリアンヌが走り始めた。


 さっきの隠し通路の先、男の子のいる場所までなんとか戻ってこられたが……少年はまあ暢気に(本人はそんな気ないだろうけど)さっきと同じ体勢で気を失ったまま寝転がっている。


 少年の身体を抱き起こ……そうとすると凄い異臭を発するので、自分のマントを脱いで少年の身体を包んで小脇に抱える。互いに苦しいかもしれないけど、ちょっとの我慢よ。


 この子が幾つなのか分からないけど、身体も細くて痩せすぎだし、多分平均体重よりずっと軽いと思われる。


 ポーチから脱出用のアイテムを取り出してアリアンヌに一つ投げ渡し、頭上にかかげ――……。

 アイテムがまばゆい輝きが発し、建物内から脱出して自室に戻れる……っていう効果が発揮される、はず……なんだけど……。


「あら?」

「??」


 なぜか効果が発揮されない。

 改めてアイテムを確認したが、間違っていない。ちゃんと効果も事前に確認してあるものだから、壊れているとかもない……。


「なんで……?」

 不測の事態に置かれ、どきんどきんと心臓の鼓動が嫌な感じに高まってくる。

 いや、そういえば、ピュアラバ無印版で聞いたことがある……。

『たまに、ダンジョンや建物の中でさー、脱出アイテム使えないときがあるんだよ。離脱の魔法使えなけりゃ脱出できないから、魔法使えてもMP切れたら自力で逃げるしかないんだぜ……。もー死ぬかと思ったよ。アリアンヌも気をつけろよ!』

 当時黒髪黒目だったアルベルト(顔グラフィック付きだっただけのモブ)が、言っていたわ。


 今そんなことを思い出させるな!! それに、ここに追い込んだのもリメイクされたあんただよ!!

――……つまり、この部屋……魔法を使わないと出られない……。


 当然窓もない。

 出口に繋がりそうなものもないし、二階だから飛び降りたら大怪我するわ。


「……お、お姉様……これ、使えないですよ……?」

「そのようですわね……」


 大変な状況に追い込まれているのだと理解したアリアンヌは、どうしよう、と言いかけて……ガラガラと壁が動く音を聞き、肩をびくりと震わせた。

 こっちに誰か向かってくる。

「…………こうなったら……もう……」


 アリアンヌは剣の柄に手をかけ、わたくしの身を隠すように移動すると、閉まった扉を睨む。

 誰かその扉を開いたら、斬りかかるつもりのようだ。


 一人二人ならなんとかなっても、狭い通路で連戦など無謀であり、逃げ道すらないことは、アリアンヌだってわかるだろう。


 精霊の力を解放すればわたくしも魔法が使える(魔法を使用するための魔具は持っていない)から……ここで解放するしかないのか……。


 精霊の力を使えば賢者様達には感づかれる。その残滓を追えば、わたくし……この騒動の『賊』があぶり出される。


 ああ、これは詰んだ、か……と為す術なくうなだれた瞬間、わたくしとアリアンヌの足下に魔法陣が浮かび上がり、紫色の光が部屋いっぱいにあふれた。



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こめんと

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