わたくしたちが細い通路を進んでいくと、後方で隠し扉が自動的に閉まった。
慌てたアリアンヌが壁にすがりついて引いてみると、再び壁が動いて侵入してきた部屋への道が開く。どうやら入るだけの一方通行……ということではないようだ。よかった。
それを確認したわたくしとアリアンヌは再び通路の奥へと歩を進めた。
といってもさほど長くないこの通路は、隣の部屋にたどり着くためのものらしい。
わたくしたちの目の前に、なんの飾り気もない木製のドアが見える。
そのドアの隙間から漏れ出ているのは紛れもなく……あの白いモヤモヤであり、この先にある部屋中、真っ白なのではないかという想像をする。
やだわ、いわゆるボス部屋だったらどうしましょう。身バレしたあげくモヤモヤの部屋で戦わないといけなくなるなら大惨事ね。
モヤモヤに効くかどうか分からないけど、万能薬もあるし……頑張ろう。
フードを引っ張ってみて外れていないかを確認してから、そーっと扉に手をかけ、ドアノブを回して……音を立てないようドアをゆっくり押し開いた。
そこにいたのは、粗末な服を着せられた男の子一人……だけだった。
寝ているのか倒れているのか分からないが、床の上に横たわっている。
お風呂も満足に入れてもらっていないのだろう、べたついた桃色の髪と、皮脂や何やらがこびりついて、体中から悪臭を放っていた。
「この感じ……し、死んでるんじゃないですか……?」
モヤモヤと臭いの酷さに、ハンドタオルで口元を押さえて眉をひそめたアリアンヌは、倒れている男の子を哀れむような目で見つめる。
生死を確認するため、近付いて指を彼の口元に寄せてみると、弱いが規則正しい呼吸を繰り返していることから……少年は眠っているだけだと判断できた。
この子……耳の先が尖っている。
そして、身体の周囲にはキラキラとした輝きが見えることから考えて……魔族、なのかもしれない。
わたくしよりも年下のように見えるが……こんなところで、一体何を……。
「その子が持ってるものから……何か出てます!」
アリアンヌが指摘する先……彼の手のひらには、ピンポン球くらいのサイズがある魔石が置かれていて、オレンジ色に淡く輝いている。
白い靄はそこから勢いよく吐き出されていた。クリフ王子が見せてくれた……あの仕掛けをこうして作動させているのだ。
そっと指で弾いて手のひらから転がすと、オレンジ色に輝く光も消え失せ、魔石から出ている靄も止まった。
つんつんと指先でもう一度つつきながら、反応がないのを確かめ……その魔石をポーチに放り込んだ。
少年の様子も気にかかるが、この部屋はどうなっているの……?
わたくしの部屋……寝室面積の半分くらいしかないこの小部屋の天井や壁、至る所に配管が張り巡らされている。
服の裾を近づけると、配管の中に吸い込まれそうになるので……この部屋の換気口かと思ったが、空気を吐き出している配管もあった。
屋敷に入った瞬間に嗅いだ甘い匂いはここから漂っているが、これはどこかからこの部屋に入り混んでいるらしい。
煙を吸い込む管は途中で幾重にも枝分かれし、甘い匂いを吐き出す管は階下から繋がっているようだ。
じゃあ、一体どこに繋がって――……と調べているうちに、一瞬目の前が暗くなって……身体を支えきれず片膝をつく。
「……!」
慌ててアリアンヌが駆け寄ろうとするが、大丈夫だと首を振った。
少し、モヤモヤや甘い香りを吸い込んでしまったから……じわじわ効果が出始めたのかも。
万能薬を飲もうか迷ったが、もう少し調べたいし……薬もあと二回分しかないのだから、耐えられそうなら後で使いたい。危険だと判断したら飲もう。
部屋は室内だというのに肌寒い。暖炉どころか毛布すらない。
この子が魔族としても、寒いときは寒いし暑いときは暑いはずだ。
少なくともレトは暑い寒いを口にするから、魔族だって感覚はある。
部屋の光源はいつ消えるとも分からない、小さな魔石ランプ(正真正銘の色つき魔石をエネルギーに使うランプ。わたくしの部屋にもある)のみ。
室内を充分に照らす光量はなく、この少年が倒れている周囲だけが明るい。
机といって良いのか、踏み台の出来損ないのような……木の板をいくつか組み立てた微妙なものの上に、本が開かれたまま置かれている。
覗き込んでみたが、そこに何が書いてあるのかも読めない。
その瞬間、わたくしの心は若干の興奮と大きな声で快哉をあげたくなるような歓喜で満たされた。
書物の文字が下手だとかそういうことではなく、これは地上の文字ではない……!!
そう、魔界の書物。魔界の文字で書かれた書物なのだ!!
本にそーっと手を伸ばし、閉じる。
古い本のようで、保存状態もあまり良くない。これもポーチの中に押し込んで失敬した。
人のものをいただいているのだから、良くないことをしている自覚はある。
どこかの世界の勇者様も、住人の目の前で家のタンスを開け、壺を割って強奪していくのだ。実際無印版でも、アリアンヌは王宮の宝箱開けてる(もちろんいただいてもいいし、いただかない自由もある)からね。
だが、そのアリアンヌは先ほどからわたくしがポーチにポイポイ放り込んでいるのを見ている。
「…………」
彼女の視線に咎めるようなものを感じるのだが……わかっているわ……悪いことをしているのは……。
でも、わたくしにはどーしても、どーーーしても必要なものなの。
しかし、どうしましょう。
この部屋はこれ以上何もない。隠し部屋の先に、さらなる隠し通路が……ということもない。
いったん先ほどの部屋に戻るしか方法はないのだが、かなり衰弱しているっぽいこの子を放って置いて良いものか……。
アリアンヌのそばにぴったりと身を寄せ、ここで帰って構わないですよと耳打ちした。当然アリアンヌは驚きに満ちた表情で、わたくしの顔を見つめている。
「……わたくし、犯罪に手を染めなければならないようです。あなたを加担させるわけにいきませんの」
「は、犯罪って……窃盗以外に、なにを……?」
その質問には答えられない。
アリアンヌは眠っている男の子を凝視して、まさか、と唇をわななかせた。
「……この子、耳がなんか……あっ、ま、魔族の……?」
「…………」
「だめです……だめですよお姉様!」
強い口調でアリアンヌはわたくしを止めようとしたが、わたくしはもう一度『帰ったほうが身のため』だと言った。
「潜入くらいならまあ、良心は咎めますがあなたが同行しても大丈夫かな、と思っていました。しかし、フィッツロイ家には魔族が……。何らかの手がかりどころか、証拠のような存在が出てしまっているのです。わたくしも……この子を生かすか殺すか選択する必要があるのです」
まあ、殺すという選択肢は今のところ限りなく薄いけれど。
それに、下にいると思われるマクシミリアン達の様子も気になる。
この配管を通って、屋敷じゅうにモヤモヤが送り込まれているのだとすれば……彼らは午前中から屋敷にいて、まだ帰っていない。
いったい彼らの様子がどうなっているのか確認せねばならないだろう。
荒事も、最悪顔を見られることも起こりえる。
だからいろんな意味で、アリアンヌをこれ以上側に置いておけない。
「……いやです……」
消え入りそうな声でアリアンヌは告げ、わたくしを見つめる瞳には涙をいっぱいに溜めている。
「このままお姉様の言いつけ通りに帰ったら、もう一緒にいられないって。お話しすることも、お姉様の温かさを感じることも二度とできないかもしれないって……私、わかるんです……!」
ちょっと、死亡フラグっぽいものを立てないでよ。勘が冴えている人がそんなこと言ったら信憑性あって怖いじゃない。
「でも、子供であっても……魔族を助けるのは嫌です。絶対、フォールズにいいことなんかない。だからっ……こ、こうしましょう……お姉様がその子をどうにかするために動くなら……、私は、屋敷から脱出するまでお姉様を助けるために協力します」
その後の事は、その子がどうなっても知りません。
アリアンヌはそうはっきりと言い切った。
「……その決断……後悔するでしょうね」
「しません! 自分で決めました。もし大変なことになったとしても、お姉様を失うよりはマシです……!」
アリアンヌは涙が溢れないよう瞬きを堪えているようだが、今にもその涙は頬を伝い落ちそうだ。
わたくしはアリアンヌの細い身体を抱きしめ、ありがとう、と礼を言うことしかできなかった。
「お願い、もう私の前から、いなくならないでください。わかり合えないって言われても、お別れしたくないんです……お願い……! どこにも、いかないで……」
アリアンヌもわたくしの身体に手を回し、ぎゅうと痛いくらいにしがみついた。
どうして、この子はわたくしとわかり合おうと一生懸命なのだろう。
わたくしは、あなたになにひとつお返しできないのよ。
「――……あなたとわたくしのどちらかが、違っていれば良かったのにね」
そう、戦乙女でなかったら。魔導の娘でなかったら。出会うことはなかったかもしれないが、嘆きながら武器を交えるかもしれない間柄にもならなかっただろう。
そっとアリアンヌの身体を離し、そっと涙を拭ってやると……ぱん、と軽く肩を叩く。
「――……衰弱していると思われるこの子を連れて行動できません。先に、クリフ王子達がモヤモヤを吸い過ぎておかしくなっていないか確認しましょう。その後、少々……騒ぎを起こして、その混乱に乗じてこの子を回収し、脱出しましょう」
自分の思っていることを口にすると、アリアンヌは力強く頷く。
「クリフォードさまがいらっしゃるだいたいの……場所は分かります。ただ、人がいっぱいいると……」
近づけないのではないか。アリアンヌはそこを心配していたようだが、わたくしもそれを気にしながら壁や配管をじっと見る。
換気用の配管は伝声管じゃないので音は聞こえてこない。
しかし、このお香っぽい匂いが出てくる管もそうだけど……この少年が出していたモヤモヤは配管に吸われてどこかに運ばれていた。
そうすると、配管は多くの部屋に繋がっているのかもしれない。
多くの部屋に、繋がっている……。
「…………もしや」
「?」
わたくしはまたポーチを漁り、植物の入った小瓶と液体の入った瓶をいくつか床の上に取り出す。
「…………いけるわ」
植物瓶から中のものを少し引っ張り出そうとしたが、レトの忠告が頭をよぎる。
『うっかり錬金術のアイテムなんて使用しちゃダメだ。使った形跡が見つかれば、疑われるのは……誰なのか、わかるよね?』
そうだ。この辺に生えていない葉っぱなんか落ちていたら、そこから怪しい人物を探られる可能性がある。
……たくさん使うのもったいないけれど、また取りに行けば良いか……。
引っ張り出すのを諦めて、その瓶へ薬品をドバッと入れる。
いつもと量が違うから、中和剤も入れておかなくちゃ。
瓶の蓋を閉めて振りながら混ぜるが、出来上がったものは道具屋でもギルドでも魔術屋でも売っているものになる。つまり流通している商品になるのだ。
じゃあ調合しないで買えよという話になりそうだが、薬品があれば他の道具も作れるし、何よりポーチのアイテム品数を圧迫したくないからだ。
このポーチは小さいから30種類しか入らない。入れられるものにも個数制限があるんだから。
……こんなもんでいいかな。
瓶の蓋を開けると、もわ~っと白い煙が瓶から立ち上る。
その煙から顔を背けながらガラスのスポイトで液体を抽出し、少年の服の裾を破って、布地に薬品を浸すと配管の中に押し込む。
ごめんね、ただでさえ薄手の服だったのにお腹まで出て寒いでしょ。後で毛布にくるんであげるからお腹壊さないでね。
瓶の蓋を閉め直し、鞄に戻したところで……何しているのか見当も付かないアリアンヌが、説明して欲しそうな眼でこちらを見ている。
「……あの葉っぱはある薬品を与えると反応して煙を出すのです。ただ、あの薬瓶、既に二種類の液体を混合してあるので有害なものが出てしまうの」
「ゆ、有害……っ」
息を呑むアリアンヌに、わたくしは大丈夫と微笑みながら、大きめの飴玉を差し出した。
「急激に眠くなるのです。それを口に入れておいて。その飴、睡眠を無効化しますから。食べきると寝てしまいますからね」
そう説明すると、アリアンヌは頷きながらも慌てて自分の口に飴を放り込んだ。