夕刻、魔界から寮に戻ってすぐマクシミリアンの部屋を訪ねてみたが、出てくる気配がない。
何せ舞踏会が近づいてきている。わたくしと違ってマクシミリアンはそこに出席するはずだ。
貴族にとっては諸々の支度で忙しいときだろうし、もしかすると屋敷に戻って今日は帰ってこない可能性もあるわ。
そうなると――……と、わたくしはマクシミリアンの部屋の前に立ったまま、視線を自室の隣、アリアンヌの部屋に向ける。
出かけるようなことは聞いていないから、もしかすると彼女は部屋にいるかも……と、今度はアリアンヌの部屋を訪ねてみた。
はい、という可愛らしい声が聞こえて、誰かも確認しないまま扉を開けるアリアンヌ。わたくしの姿を確認すると、にっこりと微笑んだ。
「こんばんはお姉様! ちょうど今からゆっくりしようかなって思っていたところだったんです! さあ、入ってください!」
扉を大きく開いてわたくしの手首を引っ張るようにして招き入れると、お茶の準備までし始めた。
「あのね、アリアンヌさん。誰かも確認しないでいきなり扉を開けるなんて、危ないことはおやめなさい」
「あー……いつもそうしてるんですよ? 本当ですよ? でも、これはお姉様だなって感じたので……何も疑問を持たずに開けてしまいました」
実際当たっていたから良いものの、ほんと年頃の女の子なんだから気をつけてちょうだいね。
彼女の机の上にはノートと座学の教科書、それに難しそうな詩集が置いてある。
「今までお勉強をなさっていたの?」
「そうです! 予習をしておけば授業で聞いたときに、分からないところが減らせる気がするので……」
「いつも授業中当てられても、きちんとお答えになっているのは……こういうところの積み重ねでしたのね」
すると、アリアンヌははにかみながらティーセットをトレイに入れて戻ってきて、そんなことないですと謙遜した。
「私、本当は……あんまり勉強得意じゃなくて……でも、クリフォードさまにもお姉様にも呆れられたくなかったから、努力で埋められるところは埋めておきたかったんです。クリフォードさまったらお勉強なさらなくても上位にいらっしゃるので凄いなあと……いつも感心してしまいます。追いつくのも精一杯ですよ」
……普段何もしていないわたくしには、なんだか身につまされる話だわ。
無印版の学習方法は、一週間単位でどのパラメータを伸ばすか選べる仕様だったけど、ヒロインだからといってもアリアンヌはこうして頑張って、毎日積み重ねていたのね……。
ゲームもリアル世界もそうそうウマい話はないってことだとしても、立派な心がけだと思うわ。
「わたくしもそのお心がけを見習わなくてはなりませんね」
苦笑いを浮かべてそう呟くと、わたくしの正面に座ったアリアンヌが、用件は一体何かと言いたそうな顔でこちらを見ている。
確かにお喋りに来たわけじゃないし、食事の時間もあるのだから、聞くだけ聞いて早めに帰ろう。
「大きな声では話せませんが……アリアンヌさん、あなたはフィッツロイ家の方々と面識はございますか?」
「えっ……フィッツロイ公爵家ですか。ええと、ご当主様なら先日お会いしたことが……」
ふむ、もう既に面会済みか。それなら話が早いわ。
「どのような……印象を?」
「うーん……ちょっと怖い感じがしました。外見は、もともと王家の血を引いているお家柄らしいので、金色の髪で、綺麗なグリーンの眼をしていますが、神経質そうな……常に人を値踏みしているような目をされていて……ピリピリしているというか……あっ、誰にも言わないで内緒にしてくださいね!」
「ご安心を。誰かに言いふらすことはありませんわ。そう……王家の……」
――……学院にも、ご子息が通学されていると言っていたわ。
そうして、わたくしの頭の中にパッと浮かんだのは、あのハニーブロンドの天然パーマな男の子だった。
校舎の中からだったし、面識もない男子の目の色までは印象に残っていないが、鮮やかな金髪といって思い出したのが彼だ。
「アリアンヌさんは、フィッツロイ家のラルフ様をご存じ?」
「ラルフ様ですか。えーと、お会いしたことはありませんが、同じ学院に通っているとは聞いています」
ふーん。知らないのはわたくしだけだったようね。
「――あっ、そうだわ。アリアンヌさん、あなた、クリフ王子やフィッツロイの方から、魔石みたいなものを受け取っていないかしら。こう、なんというのかしら……リラクゼーション効果があるとかないとか……」
肝心なことを聞き忘れるところだった。
あの魔石がアリアンヌにも渡されていたら、危険だから回収しておこう。
手のひらに載るくらいでー、透明でー、と一生懸命伝えたが、アリアンヌは表情も変えずに『いいえ』と首を振った。
「あの、それがなにか……?」
「受け取っていらっしゃらないなら構いませんの。忘れてくださいませ」
「は、はぁ……」
さっきから脈絡のない質問をしすぎてしまったかもしれない。
アリアンヌも少々怪しんでいる様子だし、なんとか話題を変えておきたい。
「そうだわ、お願いがあるの。学院にいるとき、できるだけクリフ王子とあなたの仲を印象づけていただきたいの」
「えっ? それは……できますけど、お姉様のお立場からは……良いことはありませんよ」
「いいえ、それでいい。相手がどう出るか知りたいの」
そう。今クリフ王子とアリアンヌ、そしてわたくしは注目の的なのだ。
ここでクリフ王子とアリアンヌが自分の気持ちを隠さずに、寄り添っていてくれたりすれば……いずれ王妃様やフィッツロイ公爵の耳に入るだろう。
それに、わたくしが舞踏会に出席しないという事実は、週明けには学院にも届くはず。
それだけでは飽き足らず、まだわたくしに嫌がらせをしたいとお望みなのであれば、野次馬と一緒に様子を窺う、あるいは次なる手を打ってくる……と予想している。
「相手? それはクリフォードさまのことですか?」
違うと首を振ると、アリアンヌは心配そうな表情を浮かべ、わたくしに手を伸ばした。彼女のきゅっと細くて柔らかい指が、わたくしの指先を包むように握っている。
「……この間から、もしかして、って思うところがありますが……お姉様、もしやフィッツロイ家を相手にして危険なことをなさるつもりじゃないですか?」
うーん、なかなか鋭いわね、この子。
「そのようなことは……いたた、アリアンヌさん、おやめになって」
上手にはぐらかそうにも『私騙されませんからね!』と言いたげな目で、徐々に指先に力を込めてきた。
この子は多分近々覚醒しはじめて女子力=物理になる運命なのだから、そのゴリラ伝説をわたくしの指から始めることにはしたくない。
「ちゃんと話してください! 私とお姉様は協力し合うっていったじゃないですか!! それなのに、全然話してくれなくてっ……、マクシミリアン様とはひそひそ話したりしてますよね?! ずるい!」
ひどいずるいと言っているうちに、アリアンヌの握力が更に高まった気がする。
ぎゅううー……っと万力で絞られるような強烈な力に耐えきれず、わたくしはこくこくと頷いた。
「ううっ、わ、わかりましたわ、アリアンヌさん。話します、話しますから指を離してくださらない? 折れてしまいます」
「あっ、ごめんなさい……!」
慌ててパッと手を離してくれたが、この小柄な身体のどこにあんなゴリラ筋があるというのか……恐ろしいことだ。指先がジンジン痛むわ。
「まあ、アリアンヌさんになら話してもいいかしらね……安全ではありませんが、この問題を片付けておかないと、ローレンシュタインにもわたくしにも厄介なことになりそうなので……」
クリフ王子の様子がおかしいのでいろいろと調べたところ、フィッツロイ家から謎の石を手渡されているということが分かった……など、協力者の存在は伏せてアリアンヌに話した。
「そういうことがあったんですね……でもあのモヤモヤ、お姉様と私にしか見えていなかったと思います。あと、もしわかるとしたら……セレスティオさんが感じたかもしれません」
「それは……どうしてそうお思いになりましたの?」
「だって……毎日顔を合わせているはずの、アルベルトさんが気にしていなかったじゃないですか。クリフォードさまが王宮に戻ることは少なくても、異変があったら一番に感じるはずです。それに……今回、こんな大きなことになっちゃってますよね。アルベルトさんも相当叱責されるんじゃないかと」
わたくしも、周囲の様子から自分とアリアンヌにしか見えていないんじゃないかとは感じた。
アルベルトは……そうね、クリフ王子が身の回りの世話をする従者をつけないなら日々の報告義務も生じるでしょうし、誰かに操られていたと感づいていながら黙認していたら大変なことになるわ。
「……その通りですわね。思い返せば、クリフ王子が正気に返った後のセレスくんも何か言いたそうでしたもの」
「あの、お姉様。実はセレスティオさん……相手のことが割と言い当てられる、不思議な力があるんです。だから、クリフォードさまの様子がおかしいのは気づいたかもしれません」
えっへへ、それ知ってる~! とも言い出せず、まあ……、という軽い驚きでその場を収めるが、あの能力凄いわよね。かなり助かっているのよ。
「……ともかくわたくし、ラルフというご子息を見つけ、こっそりフィッツロイのお屋敷を突き止め、調査したいと思っておりますの」
「調査……?! それは、つまり忍び込――……んんっ……そ、それは危ないというか、やってはいけないことじゃないですか!」
声を潜めて苦言を呈するアリアンヌの言うことは正しい。
見つかりでもしたら、それはもう……とんでもないことになる。
下手すれば爵位を取り上げられるかも分からないわ。
「……覚悟の上です。ですから、もしもわたくしが失敗してしまった場合……あなたは知らぬ存ぜぬを貫き通し、速やかにお父様にもご相談なさって。なんとしても王家を味方につけて振る舞うようになさってください。お二方でわたくしを切り捨てる方向に動けば、王妃様にクリフ王子、そして宰相様も……きっとローレンシュタイン家を潰そうとは言い出さないでしょう」
危険なことをしようとしているのは分かっているが、このまま放っておけない。
放っておけない理由としては、魔族が関わっている可能性があることと、王家周辺が暴走状態になっては国が傾きかねないから……ということのほか、個人的にラルフという男のやり口が気に入らないからだ。
彼にとっては公爵家よりも下位の貴族の娘に、恥をかかされプライドを深く傷つけられたことを数年にわたって恨んでいるくらい根深いことかもしれないが、何か恨みがあるなら直接わたくしの前に立てば良いのに、ご自身の家、クリフ王子、アリアンヌ、そして学院まで巻き込んで……。陰湿なのよ。嫌いだわ。
「大丈夫です、失敗するために行くわけではありません。わたくし、割と運動神経が良いのですよ」
弓のスキルはかなり重宝するので、射るだけではなく隠密行動のスキルや罠感知もできるし、抜き足のパッシブスキルもある。万が一のために緊急脱出用のアイテムも持っていくから失敗する気もない。
これら優秀なスキルも普段活用する場がないだけで、わたくしだって……高レベル帯の技術があるのだ。
「そういうわけで、あなたにはクリフ王子と仲良――……」
仲良くしてねとお願いしようとした矢先、アリアンヌは憤慨した様子で両手をテーブルにたたきつけ、椅子から立ち上がった。
その拍子に紅茶のカップは傾いて、ソーサーの上に紅茶の池を作るだけではなく、テーブルクロスにまで広がったが……彼女は一向に気にする様子もなく、わたくしを睨み『嫌です』とはっきり拒否の言葉を口にした。
「決めました……私も手伝います」
「……はい?」
「お姉様ばかり危険な目には遭わせられません。私もご一緒して、調査に同行します」
アリアンヌの発した言葉は、違う意味でわたくしに衝撃を与えるのだった……。