翌日。
既に学院では、クリフ王子が舞踏会のエスコートに誰を選んだか……当然のように広まっているようだ。
あっちでヒソヒソ、こっちでひそひそ。小鳥のさえずりだと思えば可愛いものだけれど……。
「わ、あの人、よくこんな時に学院来れるよね……」
「ねえ知ってる? わたしも聞いた話なんだけどさ……」
わたくしを見て嘲笑するもの、噂を新たに広めるもの、こうなると思っていたという謎の自慢をするものまで。
そして、その噂を裏付けるように……。
「あの、クリフォードさま……困ります……」
「なぜ? もうみんな僕たちのことを分かっているようじゃないか。僕も君に、そのように拒否されては悲しい」
困惑するアリアンヌへ……クリフ王子は以前より更に親しげに、いや、もはや馴れ馴れしい態度で話しかけ、許可なく気軽に肩や髪に触れている。なんだこの増長ぶりは。
「あの……いや、です……」
「アリアンヌ。恥ずかしがらないで」
嫌だとはっきり言っても効果がない。
好きな相手から行われているから、余計にしんどいものがあるのだろう。
やんわりとした注意も功を奏さず、弱り切ったアリアンヌはわたくしへとずっと視線を投げかけてくる……。
もちろんこれは、クリフ王子は私を選びましたよ!という自慢気なそれではなく『助けて』というものだ。
そして……クリフ王子からは『邪魔するな』という、ちょっと苛立ちを含んだ視線がわたくしに向けられている。
『助けて』『邪魔するな』という両極が、こちらに向けられているのよ。冗談じゃないわ。
そんな厳しいトライアングルゾーンが形成され、噂が噂を呼び、クラス内外の視線もここに集中している。
穏便に済ますため、わたくしは見て見ぬ振りをしなければならないのだが……むしろわたくしの目の前で白昼堂々、見せつけるように行われている。
これじゃ、見てませんとはシラを切り続けることが出来ないじゃないの。
「……クリフ王子。ここは学び舎ですのよ。全ての民の上に立つ者として、正しい振る舞いを心がけてくださいませ」
無視も出来ないし、何より絡まれ続けるアリアンヌが不憫で、見てられない。
仕方なく、本当に嫌々ではあるが……クリフ王子に注意を促した。
「……なんだ、僕に愛されているアリアンヌが羨ましいのか?」
すると、すかさず飛んでくる斜め上の勘違い。うっ、ブワーッって一気に鳥肌が立ったわ。
わたくしの顔をわざわざ覗き込むようにして、クリフ王子は挑戦的な笑みを浮かべている。顔は良いほうだけど、近付かれても嫌悪感しか出てこない。
「……むしろ逆で、わたくし何も羨ましくありません。それにアリアンヌさんも嫌がっております。殿方が女性に無理強いなさるのは、恥ずかしいことではございませんの?」
「悔しいのか、そうだろう。僕が婚約者よりアリアンヌを選んだのだからなあ! マクシミリアンに泣きつこうと、もう自分の思い通りにならなくて腹立たしいか? ははっ、もう僕を諫めることも出来ないだろう! リリーティア、ここで泣いて悔しがる顔を見せろよ!」
あれっ、話が通じないぞ。
元々わたくしとクリフ王子はあまり疎通が取れていないから話が弾むほうでもないが、彼は煽り耐性がないから、あんなこと言われてスルーできるはずがない。
それに、泣いて悔しがるようなことは一つもない。
「ご冗談は……あら?」
まだ午前中だというのに疲れてきたわたくしは、クリフ王子へ更なる煽りを口にする前に……違和感に気づいた。
クリフ王子の肩……いや、身体から、何か……白い煙のような、オーラみたいなものが立ち上っているのだ。
なにかしら、これ。匂いはない……けど、わたくしが見ているこのモヤモヤ、もしかして誰も気づいてない……とか?
じっとクリフ王子 (正確にはクリフ王子の数センチ外側だが)を見ていると、わたくしがもの言いたげに見えたのか、なぜか彼は気分よさげに笑い始める。
うるさいわね、集中してるんだから気を乱すんじゃないわよ。
「なんだ、リリーティア。僕に媚を売ろうというのか? くくっ……、面白いな。いいぞ、せめて一度くらいは慈悲を与えてやらないとな!」
そう言って、わたくしの顎を掴んで上向かせると、にやりと笑って――ゆっくり顔を近づけてきた。
「ちょっ……」
焦っているのはアリアンヌだけじゃない。お腹を押さえていたマクシミリアンも、これから何が起こるか想像できたらしい。慌てて椅子から立ち上がる。
外野が息を呑み、ジャンやアルベルトが間に入って助けようとした気配はあったが、わたくしは手でそれを制しながら、問答無用でクリフ王子に平手をお見舞いしてやった。
バチーンと、教室に響き渡る音。
次いで、悲鳴のような歓声のような外野の声で教室の空気が震えた。
頬を張られたクリフ王子から、あの白いモヤモヤがフッと消える。
ああ、これは不敬罪とかですっごい怒られちゃうやつかな……と思っていると、クリフ王子はきょとんとした顔で、痛む頬を押さえた。
「なんだ……? 痛いぞ?」
そう言いながら首を傾げ、僕は転んだのだろうか、などと隣のアリアンヌに聞いている。
「…………あの、ええと……今、何があったか覚えてないですか? 私に何しようとしたとか、お姉様にキスしようとしてたとか……」
すると、クリフ王子は仰天して『なに!!』と、超クソデカボイスを発しながら驚いていた。
「リリーティアにキスなんかしようとするわけないだろう!! アリアンヌ、夢でも見たにしろ、いって良いことと悪いことがあるぞ! たっ、確かに、リリーティアは……見目は良い。すれ違うととても良い匂いがするし、唇も柔らかそうだとは思うが、それとこれとは別だ!」
「いやだわ……照れながらもわたくしをどう思っているか、すこぶる気持ち悪い感想が飛び出ましたわね……」
「なんだと! 僕のどこが気持ち悪いんだ! だいたい貴様『すこぶる』だと!? 普段きちんと身だしなみにも気をつけている僕に、とてつもなく気持ち悪い、とでも言いたいのか! 不敬すぎるぞ!」
ギャーギャー文句を言いまくるクリフ王子に、うんざりしつつも……アリアンヌはびっくりした顔のまま彼を凝視していた。
「確かに今の発言は気持ち悪かったですけど……あれ、なんか治って、る?」
「……ええ……紛れもなくいつも通りですわね。気持ち悪かったですけれど」
「気持ち悪いと二人で言うな!」
そこで、わたくしはアリアンヌに『ついていたモヤモヤが消えた』と言うと……彼女は瞠目しつつも、ゆっくりと頷いている。
「お姉様にも……お分かりに……」
「…………なるほど」
アリアンヌにも見えていたようだ。
そこで、ちょっと不機嫌そうなマクシミリアンもやってくる。
「殿下。朝から人の注目を浴びるようなことをなさらないでください」
「マクシミリアン……なぜそんなに怒っているんだ? 僕が何かしたみたいに言うな」
「ここ数日、こちらも大変なのです。ご自身の影響力をお考えください」
「数日……いつのことだ? 何かあったか?」
きょとんとするクリフ王子に、とぼけないでくださいとマクシミリアンも怒っている。
「お待ちになって、マクシミリアン……様。クリフ王子も、四人で昼食時にお話ししましょう。ね?」
「なぜ僕が貴様なんかに頼まれて……」
ここで頷けば良いのに、すぐ突っかかってくるんだから……。
この技だけは使いたくなかったが、うるさいから仕方あるまい。
「……クリフ王子。わたくしのお願い、どうか聞き届けてください……ね?」
上目遣いで、ちょっと困ったように相手を見る。
わたくしがロリだった頃、レトによくこの形のおねだりをされて、渋々頷くことが数え切れないくらいあったのだ。もしかすると今もあるかもしれない。
「ぐっ……」
もしかしたら、わたくしでは効果はないかもしれないと思ったが……クリフ王子は動きを止め、徐々に頬を赤らめる。
「そ、そんな顔をしても、僕は貴様をちょっと可愛いなんて思ったりしないからな! 普段僕にどんな仕打ちをしているか分かっているだろう!」
「そう仰らず、お昼四人でご一緒しましょう? ね?」
「うぐぐ……し、しかしっ……」
効果は見込めているはずなのに、謎の……多分『従ったら負け』みたいな気持ちが邪魔をしているのだろう。
もーめんどくさいな。アリアンヌにお願いしたら良かった。
「……ねっ?」
もう最後の『ねっ?』は、分かってんだろうな、早く頷けよという脅迫の念も入っている。わたくしの目つきも鋭くなっているかも分からない。
「――わかった、分かったよ! クソッ……! 今回だけだからな!」
「うふふ、ありがとう存じます、クリフ王子。慈悲深いお方ですこと」
「当然だ」
ブツクサ言いながらも、自分の席に戻っていくクリフ王子。すぐ調子に乗るところも、普段通りだ……。
「リリー様……」
ようやく自分の席に戻ってきたセレスくんは、椅子に座りながら『災難でしたね』と苦笑し、隣に座っていたアリアンヌさえもクスッと笑っている。
「セレスくん、あなたは何かお感じに……」
「……ええ、まあ……」
そう曖昧に言葉を濁した。詳しくは今度話すという事かしら。
「……リリーティア様」
そう呼びかけたのはアルベルトだ。所在なさげにマクシミリアンとジャンに挟まれるように立っていて、申し訳ございませんでした、と軽く頭を下げた。
彼は何かを訴えかけるような顔でわたくしを見つめていたが、こちらが何事かを聞き返す前に予鈴が鳴ったので、クリフ王子のところへと戻っていった。事態が収まったこともあり、ちらほらと生徒達が自分の席やクラスへと戻っていく。
セレスくんは神妙な顔をして、外野が消えていった廊下をずっと眺めていた。