うちのお父様……ローレンシュタイン伯が来ていると、カルヴィン様が仰った。
え、どういうこと、と思っていると……カルヴィン様は『入れよ』という、とてつもなくフランクに戸口へ声をかけている。
ややあってから、扉がゆっくり開き……姿を見せたのは確かにダンディなおじさま……こと、ラッセル・ローレンシュタイン伯爵その人だ。
「お父様っ、お久しぶりです!」
アリアンヌは朗らかな笑みを浮かべ、簡略化した礼で挨拶し、お父様も優しく微笑んで頷いた。
「…………ご無沙汰しております」
「…………」
わたくしはといえば、カルヴィン様にやったものと同じくかっちりした礼を取るが、伯爵からは何の言葉もかけられない。頭を下げたから、彼がどのような表情を浮かべているのかも分からない。
この場に数秒、重たすぎる沈黙が流れ……ようやく『うむ』という返答があった。
「リリーティア、頭を上げなさい。まったく、とんでもないことがあって疲れているのに気の利かない親父だな」
「わたしも疲れているのですが」
カルヴィン様とお父様の会話を聞きつつ、わたくしは姿勢を正したところで……『話は全て夫と息子から聞いておりますわ』とディートリンデ様が、わたくしの側に歩み寄って淡く微笑まれた。
「ラッセル様にも、今日はそのことでお越しいただいていたの。あなたたちよりも先にね。血相変えて、どういうことかと怒ってたわ」
「――ディートリンデ様! 虚実を混ぜて仰るのはおやめください」
お父様がじろりとディートリンデ様を睨み、ゴホンと咳払いすると……わたくしとアリアンヌに向き直る。
「……アリアンヌは、殿下のエスコートをお受けするつもりかね」
「わ、私……お断りしました。でも、クリフォードさまが……必ず迎えに来るから、って……」
アリアンヌはそう言いながら、横に立つわたくしをちらっと盗み見て、ごめんなさい、と謝罪する。
「……正直に言えば、お誘いは嬉しかった……です」
「ふむ……」
お父様は腕を組んで、静かに目を閉じる。どうなさるおつもりなのかしら。
「アリアンヌは、クリフォード殿下のエスコートをそのままお受けしなさい。こちらからはどうあってもお断りするのは難しいだろう」
「アリアンヌ嬢、あなたの判断は一般的なもので正しかった。が、これは王妃殿下のご命令でもある。すなわち、王家の総意……というところだ。伯爵家がいつまでも拒絶するとなると、不興を買うぞ」
マクシミリアンがそう口添えし、カルヴィン様もその通りと頷いた。
「…………わかり、ました……」
アリアンヌは渋々返答したが、ほんのりと頬が赤らんでいた。
もちろん気持ちは複雑だろう。しかし、デビュタントのお相手が意中のクリフ王子なのだ。先ほどの告白も相まって、嬉しいに決まっている。
こんなこじれた流れでなければ、彼女は今頃一人で浮かれきっているはずなのに……可哀想なものだわ。
「リリーティア。お前は招待状を受け取っているが、エスコートのお誘いはどこからも来ていない。いいか、婚約者から見向きもされていないのだぞ! 学院に行く前に『婚姻できなければ除籍されても構わない』などと大見得を切っておいて、現状何一つ良好に進んでいないとは何事か。自分でとてつもなく恥ずべき事になっているという自覚すらないのか……!」
「――……仰るとおりでございます。わたくしの努力不足、そして……あってはならぬ状況に立たされている、という認識も重々ございます」
お父様の厳しい叱責内容を、わたくしは素直に認めるほかない。
隣でアリアンヌの表情が強ばり、息を呑むのが分かった。
「――ラッセル、そう怒るな。リリーティアの魅力が殿下に伝わらなかっただけだ」
「何を馬鹿なことを! そもそも普通の神経を持っていれば、人の家のバラに塗料を塗りたくったりしなければ、自分の名前を柱に彫ることも、納品されたばかりのステンドグラスに石を投げたりもしない! お前がそうしてリリーティアを甘やかすから、付き合わされたマクシミリアン様が二度死にかけているのだぞ!」
「はっはっは、馬鹿を言うな。マックスは三度死にかけただけだ。しかし、痛かった、で済ませて起き上がるのだから死ぬ運命ではなかった。幸運に恵まれている」
「そういうことじゃない! こんな話があちらこちらであったのは分かっているだろうに! おかげでどれほど苦労したことか!」
「その間、またリリーティアは我が家で遊んで問題を増やしているから、お前は毎日謝っていたなあ。懐かしい話だ」
激怒するお父様と、大らかに答えるカルヴィン様。
二人が仲良しだというのは口ぶりから分かったことだが、リリーティアの黒歴史全書のページがまた増えてしまった……。
そうなの……マクシミリアン、あなた三回も……。なんだかある意味すごい男なのね。
しかし、そうなの……ここだけではなくてあちらこちらで、かよ……。
恥ずかしくていたたまれなくて、わたくしここから逃げ出したい……。
「……申し訳ございません……」
「ああ、気にしなくて良い。階段から落とされたことと、かくれんぼ中に泥棒と間違えられて、頭を鈍器で強く打たれて気絶したことと、水遊びで俺を水中で踏みつけて気絶させたこと……以外はないはずだ」
それ、だんだん殺意が上がってない? 本当に最後のはよく無事だったわね。
本気で何でもなさそうにマクシミリアンは話しているが、聞いていたお父様も、当時を思い出しているのか苦い顔をしている。聞き慣れてきたジャンはともかく、アリアンヌはただただ驚いていた。
「…………俺のことは現在こうして何事もないのでご安心を。ともかく、舞踏会の件で恥をかいて傷つけられているのはリリーティアであり……」
ええそうよ、思いっきり傷ついて恥をかいたわ。昔の事でね。
「聞けば、学院でもクリフォード殿下に怒鳴りつけられている姿を目撃されているそうではないか。余程嫌われているようだ」
お父様は嘆かわしい、我が家の恥だ……などとぼやいていた。
「こんな恥ずかしい娘を『殿下の支えとして息子と共に動いてもらいたい』と言い出したのはカルヴィン、お前だ。思えば、その言葉に同意して連れ戻すべきではなかった」
「…………」
容赦のない言葉が、胸に突き刺さる。
今それを言うのはひどいのではないだろうか。
連れ戻すべきじゃなかったのなら、あのままそっとしておいてくれたら良かった。
そんなふうに叫びたい言葉と、悔しさがこみ上げてくる。
わたくしは確かに……貴族としての生活をないがしろにしていた。
だから、貴族としての振る舞いがなっていない、そう責められるのは当然だ。
心の痛みに耐えるため拳を握ると、もういい、というお父様の不機嫌そうな声が降ってきた。
「アリアンヌがクリフォード殿下と出ることが王家の希望だ。リリーティア、お前が出たところでわたしが叱責と嘲笑を受けるだけ。舞踏会は出席せずともよい。その日は大人しくしていなさい」
「…………お父様の、お望みのままに」
「聞いたな、カルヴィン。書状は後で送る。きちんと正式に処理してくれ」
それでは、と簡単な挨拶をして、引き留める間もなくお父様は応接室を出て行く。
「……リリーティア……ラッセルはあんなふうに乱暴な物言いだったが、憎まないでやってくれないかね」
穏やかな眼をして、カルヴィン様はわたくしにそう話しかけた。
「リリーティアが泣いていないか、一番心配していたのだよ」
「……そのようには、感じませんわ。わたくしたちは、既に親子の情を失っているのですから……」
ですが、わたくしが怒りを覚える筋合いも、意見するつもりもございません。
ローレンシュタイン家の決定のとおりに致します、そう言うと……カルヴィン様は悲しげな表情を浮かべ、頷いた。