姉妹が出て行った後、クインシーはマクシミリアンとわたくしの前に椅子を持ってきて、ちょこんと両足を揃えて座る。
立ち姿も姿勢が綺麗だったけど、こうして座るのも綺麗ねえ。所作がとても良いのだわ。綺麗な精神や声は良い姿勢から、なのね。勉強になるわ。
「……先ほどの続きですが、クインシーさん……わたくし、あなたに追加の料金だけではなく依頼すら、何も準備しておりませんの。わたくしも、その……文化祭までで終わりだと思ったので……」
レイラが(主に別件で、だが)相談してこなければ、きっと今も分かっていなかった。
「オレが、確かに勝手にやっていた……それは、認めます」
クインシーは申し訳ありませんとわたくしたちに頭を下げた。
「いえ、謝らないで。わたくしたち、あなたのお気持ちは嬉しいの。でも、真意が知りたい。どうして……彼女たちにそこまで親身になってくださるのか。それに、マクシミリアン……様から伺えば、あなたは優秀な成績のかただそうですわね」
「彼に渡した金額は、確かに……姉妹を合格ラインに立たせて欲しいという意味でも色をつけたが、彼の才能を加味すれば払いすぎているという金額ではないはずだ。この数回分、更に追加料金申請があっても良いくらいだ」
ほー。さすがマクシミリアン。やっぱり考えて渡していたのね。
しかし、クインシーは消極的で、いいえ、とか言って首を横に振る。
「オレは……嬉しかったから……」
「嬉しかった……?」
マクシミリアンが怪訝そうにオウム返しに呟くと、クインシーははっきりと頷いて顔を上げた。
「オレに、歌の才能があると言っても……音楽院のみならず……舞台芸術には……もっと上手な人間なんて多くいる。優秀だと褒められても、これくらい……出来て当然だと思い知らされていた」
ああ、上を意識しちゃうタイプなんだね。意識高すぎると苦労するわよ。
わたくしなんて、師匠が天才過ぎて一生追いつけるかどうか分からないんだもの。
わたくしが頑張って霊薬の試作品を調合しても、エリクのそれとは全く違う。瞬時に細胞が活性化し、みるみるうちに体力が湧き上がってくるような、あの感動と実感が湧かないのだ。
あげくに『リリーさんにしては頑張りましたが、わたしならこんなもの枯れかけた雑草で作れますよ』だってさ。腹立つわよね。あんたは異世界チート転生者かよ。成り代わりのわたくしとはスタートラインも資質も違うっていうのかしら!? 何よ、わたくしだって五年でものすごく伸びたのよ!!
わたくしの熟練度が100だとしても、エリクは500位あるんじゃないかしら。年期と調合可能時間がまるで違うんだもの。わたくしが並ぶなら、長生きするしかないわ。いずれ師匠を超えてやるわ! いつか『さすがです、わたしが教えることはもう一つだってありません……!』と、ざまをみるのはあなたのほうよ、エリク……!
「リリーティア、顔が怖いぞ」
「あら、失礼。クインシーさんに怒っているのではありませんわ……」
マクシミリアンの指摘に、ささっと両頬を押さえてにっこりと笑ってみたら、貴族がだらしない顔で笑うなと更なる指摘を受ける。
まさか、自分の錬金術の師匠にあたる人物へ思い出し怒りしているとは誰も思わないだろう。
クインシーはわたくしが彼に怒っているのではないと知って、僅かに強ばった表情を戻したようだが、こちらを気にかけて注視したまま話の続きをしてくれる。
「……なんのために、音楽を続けていこうと思っているのか、本当に楽しいのか……だんだんわからなくなって……歌に迷いが生じ始めた。そんなとき、アラストル公爵家から依頼があると……知り合いを介して……」
そうして、レイラとライラ、そしてわたくし(……一縷の希望を込めてアリアンヌもねじ込んどこ)に出会った。
「失礼だけど、年頃のおしゃれそうな女の子が……歌をあまり知らない、ってことに驚いた……でも『遊牧の歌』っていう……古くて珍しい歌のみを、彼女たちは知っていた……。二度も驚かされたし、教えたものを楽しそうに歌い始める彼女たちは……なんだか、眩しかった。歌は楽しく歌うだけで、人を感動させる力がある……知っているはずなのに、オレは改めて気づかされて……」
そこでクインシーは音楽院の制服……膝のあたりを両手で握りしめた。
あああ、おやめなさい、その部分がシワになっちゃうし……紺色の靴下が見えているわよ……!
「……彼女たちに、喜んでもらいたい。オレができることを教えて、教わって……互いを高めていきたい。彼女たちの喜びが、オレの…………喜びにも、なっているから……」
そう言って耳まで赤くなるクインシー。
……あれっ。姉妹両方か……。恋愛的じゃなくても、比重がそっちにあるのね!
これって、わたくしもアリアンヌも関わってなくない?
初めての現象じゃない??
「――お金は要りません。どうか、今後も……彼女たちの側で、教え……オレも教わりたい……! だから、教えるって契約をまだ続けて欲しい……!」
必死に『お願いします』というクインシーは、わたくしたちが困惑していると思っているのだろうが、マクシミリアンはそういうところが鈍感だから、なんて答えて良いかよく分かってないだけだぞ。
「……マクシミリアン様。彼、お金が要らないというのですが……そういうわけにいかないのではないかしら。いつまでも、この学院に連れてくるわけにはいきません。グラッドストン音楽院にも、当学院にもどなたかが苦情を申し立てるかもしれませんもの」
「そう、だな……もう契約はしない」
「……!!」
絶望的な表情で、わたくしたちを見つめるクインシー。
いや、意地悪じゃないから。わたくしの言いたいことが伝われば、多分マクシミリアンが……理由を言ってくれるはずだ。
「契約はしない。君は自分の意思で、彼女たちを伸ばし、自分を高めたいという。そんなものは互いに話し合って自由にすれば良いだろう。だが、文化祭以降、今日までの三回分は――……きちんと追加の代金をこちらから支払わせてもらう。その代金が多いというのなら、どこか貸しスタジオでも借りて三人で励むことだ」
うん、やっぱりマクシミリアンは分かってくれた。
強ばっていたクインシーの顔が、だんだん明るいものに変わっていった。
ここまで空気の存在であるジャンさんは、眠気とあくびを懸命に耐えているようだが……誰よりもコーヒーを待ち望んでいることだろう。
「ありがとう、ございます……!」
クインシーが椅子から立ち上がり、その場に片膝をついた瞬間、ガラッと教室の扉が開いた。
「…………」
姉妹も、目を真っ赤にして涙を堪えている。手に持っているトレイがカタカタと震えていた。
立ち聞きしてたのはバレバレだが、あえて気づかないフリをしないといけないわ。
「……コー、ヒー……持ってき、ましたっ……!」
「ありがとう」
涙声でライラがマクシミリアンに差しだそうとするので、くりっと方向転換させて、クインシーの方を向かせる。
「お客様はあちらよ。お先にお出しして」
「……はいっ……!」
「あなたねぇ、そんな誰も掃除してない教室に膝付いて何してんのよ。だいたい、お客さんが地べたに座るんじゃないわ。こっちが恥ずかしくなるじゃない」
レイラとライラに世話を焼かれて、クインシーは困ったような表情を浮かべながらも頷き、ちらっとこちらを見た。
「……ありがとう、リリーティア様」
「わたくし、徹頭徹尾何もしておりませんの。自分のやったことが、誰かの心を動かすことが出来るのだと……あなた自身が証明しただけですわ」
すると、クインシーはその言葉を刻みつけるかのように頷き、ライラからコーヒーを受け取ると……ありがとうと……もう一度感情を込めて呟いていた。
「ぬるいな。どんだけ戸口で立ち聞きしてたんだよ」
「ジャン、良いところでそういうこと言わないで」
マジで今回、わたくしクインシーに何もしてないのよ。
やろうとしたのは、アリアンヌ陣営に放り込もうとしただけで……。
よけーなことしか、してないわ……。
申し訳なく思いながら、わたくしもコーヒー……あ、カフェオレ……を口にした。確かにぬるいけど、わたくしコーヒーのことには詳しくないから、どんなものが美味しいとかよく分からないのよね。飲めたらそれで良いのよ……。
あの三人が喜んでいるのを見ながらいただくと、なんだか美味しい気もする。
「……自分のやったことが、誰かの心を動かすことが出来る、か……舞踏会もそうであると良いな、リリーティア」
今後のことを話し合う三人を見つめながらぬるいコーヒーを口にし、わたくしの隣でマクシミリアンが重々しく呟く。
「……あなたの仰る、誰かって……いったいどなたのことなのかしらね」
「…………」
そう告げたらマクシミリアンの表情が、じわじわと苦渋の色に染まっていった。
どうして……そんな顔をするのだろうか。
「ずいぶん苦い、コーヒーだな……」
「あ、マクシミリアン様は苦いのが好きそうだと思ったので、エスプレッソにしてもらったのよ。だめだったかしら」
……味覚的に苦いだけだったようだ。
立ち聞きの時間が長かったから、泡がちょっとしぼんだのかしら。
自分のがカフェオレだったから全然わかんなかったわ。
◆◆◆
クインシーには数日後、三回分の料金――マクシミリアンはそれも教えてくれなかった――が支払われたらしい。
ライラもあれから恋する乙女全開で、どんどん可愛くなっていく。
「……ライラもクインシーも、楽しそうだから良いけど……あたしは複雑だわ」
学食のランチを一緒に食べながら、レイラは口を尖らせた。
「あら、ご一緒に学べて良いじゃない」
「そうだけど、なんか……ライラだけだったらまだしも、あたし『たち』を喜ばせたいとか、ちょっとなーって……あたし別に教えてあげるところなんてないし」
あー、まあ、そうよね。
自分より基礎も応用も出来る人に、何を言えば良いんだよっていうのは確かにあるし、クインシーが喜ばせる相手は妹であって欲しい訳ね。
「レイラさんは妹思いでお優しいこと……」
「ばっ……! 違うって言ってんでしょ!! 何笑ってんのよ! ムカつく女ね!」
美少女が顔を真っ赤にして怒っても、照れていると分かっていれば何も怖くはない。必死になればなるほど、彼女はしどろもどろになっていく。
「ったく……、いい気なもんだわ。せっかくいい情報を持ってきたってのに、教えるのやめようかしら」
いい情報。その響きはとても気になるけど、どういう方面の話かしら。
誰かの噂話とか恋バナとかなら、別にどうでも良いけど……。
「へぇ。面白そうだな、言ってみろよ。どうでもいい話だったら……カボチャ人間の刑だからな」
わたくしよりも話に興味を持ったのはジャンのほうだった。
「な、なっ……!? 嫌よ、あなたにそんな刑、処されたくないわ!」
カボチャ人間の刑という恥ずかしい刑の予告を言い渡されたレイラは、それはもう驚いて椅子からお尻を少々浮かせて身構えた。
「話してみねぇと、するかどうかわかんねーだろ。もったいぶるからだ」
「……うちのクラスの子がトイレで話していたことなんだけど」
「あなた(みたいな美少女)が、お手洗いに行くのね……意外だわ」
「生きてるんだから当たり前でしょ!? 教室で漏らせって言うの!?」
ばん、と両のこぶしを握って、苛立った様子でテーブルを叩く。ごめんなさいね、そういう意味じゃないのよ。
アイドルはお手洗いに行かないっていう都市伝説とかジョークがあったのよ。
この世界の人に言っても分からないだろうけど……むしろ、わたくしもそう思われている対象に入るかもしれないわね。
考えてみればレトやわたくしだって行くもの、世の中みんな行くに決まっているわ。
「…………あなた、来月舞踏会とかいうとこに行くらしいじゃない」
「ええ……そうですけれども……」
「噂になってるわ。あの王子がどっちをエスコートするか」
なんだ、舞踏会のこと結構知ってる人いるんだ。そっちのほうも。
「あたしには、想像も付かない世界だけど……気をつけた方がいいわ。なんか、変な感じがするわよ」
「ありがとう存じます。ご忠告――」「ちがうの……!」
痛みを帯びた声で、レイラは首を振る。なんだ、急にどうしたんだ。
「あたし、聞いちゃったの……たぶん『あの家』はあなたが嫌いだから、妨害に動くんじゃないかって話してたわ」
「お嬢さん達はもの凄い話題を、誰が個室に入っているか分からないような場所で気軽にするのね……びっくりだわ……」
誰もいないにしても中庭で話すのも似たようなもんだろ、というジャンの言葉ももっともだが、ジャンの索敵能力は信頼しているし、誰もいないんだからまだいい。
「……ややこしいことに……そもそもどこなのかしら……その家とやらは……」
「どこだって――便所の噂話が本当なら、大嫌いなあんたをツブそうと動き始めるかもってことに変わりはないだろ」
とんでもないことを告げられ、わたくしは全身が打ち震えるのを感じた。
せっかくクインシーのことも片付いて、ダンスも順調だから魔界のことでもと思っていたのに……。
わたくしの身辺は、急に慌ただしくなり……まだ落ち着くことができなさそうだった……。