俺たちが転移で帰還し、居間の明かりをつけた数十秒後。
扉からガチャガチャという音……これは鍵を鍵穴に差し込んで回しているのだけど……をし、ゆっくりと扉が開くと、リリー……じゃなかった、先にジャンが現れた。
室内に危険がないかを確かめるから、リリーより先に入っていると思うのだが、毎回扉を開くとリリーが……という期待をしているので、俺は毎回『なんだジャンか……』という心境になってしまう。
いい加減学習しなければジャンにも失礼だと思うのだが、ジャンは人の考えを読む術にどういうわけか長けているので、極力顔に出さないようにしている俺の考えも理解し、またそんなこと考えてんだなと思って慣れている頃だろう。
「ただいま戻りましたわ」
ジャンのすぐ後ろから顔を出したのはリリーだ。
俺はいつも……彼女の無事な姿を確認し、ほっとしているんだよ。
いつもふわふわしていて、指に巻くと滑らかな青みがかった銀の髪も綺麗だし、深い青い色をした目の色もいつまでも見つめていられる。
いつだって触れたくなるような、みずみずしくぷるぷるしている柔らかそうな(実際いつでも柔らかい)唇も、そこから紡がれる可愛らしい声も大好きだ。
今日もとても綺麗だ。うん、誰が何と言ってもリリーは最高だ。
こんなに美しい少女を好きにならない男がいるわけがない。でも、お願いだから誰もリリーを好きにならないで欲しい。
「お帰り。今日も……頑張ったね」
今日も遅かったね、という言葉が口をついて出そうになって……それはリリーを責める言葉になってしまうと思い、途中で言い換える。
言われたリリーも嬉しそうに頷き、着替えて来ますので、その後魔界に参りましょう……と俺に声をかけた。
「っ、と……その、話がしたいんだけど……って、ヘリオス。今リリーと話しているから……」
リリーの側まで近付いてきたヘリオスは、フンフンとリリーの周囲を嗅ぎ回る。
文字通り、顔を近づけて臭いを嗅いでいるのだ。少し困ったような顔をするリリーも可愛いけど、毎日嗅がれては気持ちが悪いだろうに。
「んっ?」
リリーの手を取って臭いを嗅いでいるヘリオスは、突然疑問の声を発した。
再びリリーの手に鼻を押しつけて……あんまり触れないでくれないかな……。
次に、リリーの腰、そして……顔にまで鼻を寄せる。
「ヘリオス!! いい加減にしないか!」
「――……リリーティア。今日は顔からマクシミリアンと……ジャンの臭いがするんだよ……」
浮気は許さないというような彼氏面をし、低く呟いたヘリオスの言葉に、その場にいた全員の顔が凍り付いた。
「えっ……? 顔?」
「あ、あの、これには……」
リリーが困惑しながらジャンを見て、ジャンは普段通りの態度で『ぶつかっただけだ』と言うのだが、ヘリオスはジャンに近付き、今度は彼の手を取ってフンフンと嗅いでいる。なかなか気持ち悪いな。嗅がれているジャンも心底嫌そうだ。
「……リリーティアの臭いがする……手の甲からは髪の臭い……」
「魔族ってのは鼻が良いようだが、あんたらの思うような艶っぽい事じゃないぜ」
ヘリオスの手を振り切り、ジャンはじろりと俺たち兄弟を睨むように見据えたが、ヘリオスは許可もなくジャンのベストを捲り、全身を震わせている。
黒いシャツには、ピンク色の……キスマーク、というものだろうか……それがくっきりとついていた。
ジャンは女性からとても人気があるとリリーも言っていたし、人目を忍んで…………護衛をほったらかして何かしているとは思えないんだけど……まあ、俺には分からない女性関係があるのかも……。
「……リリーティアの口紅だ……それにこの形も、リリーティアの唇で間違いない……」
「あの……確かにわたくしのものですけれど、なぜ形もお分かりになったの……?」
リリーティアは辛うじて微笑みを浮かべているが、笑顔もこわばっているし、ヘリオスの観察眼の高さにものすごく引いているのが分かる。
大丈夫だよ、リリー。俺も実弟の断定力の恐ろしさに引きまくりだよ。
「ジャンがいつものようにベストを着込んでいたら、ここにはぶつからないはずだよね、リリーティア?」
「……ジャンはベストを脱いでおりましたので……」
「なんで脱いでたのさ? それに……どこで?」
ヘリオス、次々にリリーへ質問して俺の言葉を取らないで。何も言う暇がないよ。
「マクシミリアンにも、こうしてキスしたの?」
「キスじゃありませんわ! ぶつかってしまったのです!」
リリーも頑なに『ぶつかった』という事象を繰り返して述べているのだが、ヘリオスの追及にも折れず、なぜか詳細の説明をしてくれない。
ジャンは我関せずという形で『風呂』という言葉を残して脱衣所に向かっていったし、かわいそうにリリーは孤立無援だ。
「……リリー、俺と二人なら話せるかな?」
頼む、頷いてくれ。レトなら大丈夫ですって言って。
祈るような気持ちでリリーを見つめると、リリーはなぜか悲しげな表情になって俯いてしまう。
「レトが……聞いても、楽しい話ではございませんのよ……」
俺にも言いづらいということなのか? ショックだ。色よい返事が聞けると思ったのが余計に辛い。
「そっ……それでも、お互い険悪になりたくはないし、要らぬ誤解は解くべきだと思うんだ」
ふらつきそうになる身体を気力で支え、リリーには何も気にしていませんよという笑顔を向けてみる。
何も楽しくないのになんで笑わないといけないのかすら疑問に感じるくらいだが、ムスッとした顔ではリリーも話せなくなるだろう。
リリーはもう一度『本当に、楽しい話ではありませんけれど……』と念を押してから、ソファにストンと腰を落ち着けた。どうやら俺たちに話してくれる気になったらしい。
ヘリオスはさっさとソファに座ったが、俺は今からリリーが何を話すのか、気が気じゃない……何があっても冷静に聞けるだろうか。
暴れるようなことが起きたら、ジャンがなんとかしてくれると思うけど、裸で出てこられても困るから頑張って理性を保とう。
「…………わたくし、来月……フォールズ城に赴かなくてはなりませんの。ローレンシュタイン家は舞踏会に招待を受けておりまして……そこに出席しなければ、お父様やアリアンヌさん、そしてクリフ王子にも甚大なご迷惑がかかってしまいますから……」
リリーが膝の上に組んだ手は、指先が赤くなるほどに力が込められている。
話すほうも容易なことではない、ということだろうか……。
「その話に、何か……変なところはないと思うんだけど」
「レトゥハルト、リリーティアは『舞踏会』って言ったんだよ? きみ、リリーティアが踊ったところは見た事あるかい? ボクはあるんだけどね……でも、それは今のリリーティアじゃないから」
すると、リリーは困ったように目を伏せ、頷く。
「……リリーティアは、踊りが大変にお上手だったとマクシミリアンから伺っております。ですが、わたくしは踊ることが出来ませんの。他の方々のお顔もお名前も存じ上げません。つまり、社交界において、全く素養のない娘なのです」
――なるほど、人間の貴族はとても大変らしい。
相手を飽きさせないような話術や教養、華麗に踊る技術、人脈の広さ……そういったものがステイタスというものになり、結婚相手として求められるのだろう。
だいたい、そんなもの必要ないじゃないか。魔界なんか社交する相手もいないんだぞ? リリーがこんなに困っているのに、無理矢理連れ出そうというクリフォードはやっぱり害でしかないんじゃないのかな。また嫌いになった。
「わたくしの事なら嘲笑を受けても構わないと思っておりました。ですが……どんぶ……水鏡は、わたくしに近い将来の幻影を見せてくれましたの。そこには、とても……みっともなくて、ひどい光景が映っておりましたわ」
ふっと悲しげに微笑むリリーの顔を見ているだけで、俺もなんだか悲しい気持ちになってくる。
いったいリリーはどんな未来を見たのだろうか。抱きしめて慰めてあげたい……と想う気持ちを抑え、リリーの説明を待つ。
「わたくしも地上とあまり関わらず生きていきたいと思っておりましたが、恩義というものも、人に対する愛着も多少ございます。わたくしがわがままを言って、わたくしだけが罰せられるのならばその責を負うつもりでしたが……周囲にまで広がってしまうのはいけません。なので、今……マクシミリアンの屋敷で、ダンスの特訓やマナーの復習をさせていただいているのです」
だから、毎日帰りも遅いし食事は(マクシミリアンと)食べているし、ダンスの相手はマクシミリアンということ……らしい。
羨ましい。
毎日リリーと手を繋いでくるくるとダンスを踊り、食事も共に出来ているなんて……俺がマクシミリアンになりたい。だけど、俺もダンスっていうものは知らないよ。教えてあげたくても出来ない。
「それで、ステップは初日よりだいぶ慣れてきたのですが……こう、方向転換するときにまだ距離感が掴めず……何度かぶつかってしまいまして」
「それで……マクシミリアンの服にキスをしているというわけだね?」
すると、リリーはキスじゃありませんけれど、と言いながらも大筋を認める。
「それはいいけど……それならなんで、ジャンにもついてたのさ?」
「今日はマクシミリアンが最初の数十分予定がずれ込んでしまい、ジャンが教えてくださったのです」
えっ、ジャンってそういう……社交用のダンスが踊れるのか?
俺の疑問が顔に出ていたらしく、こちらを見たリリーもちょっと微笑んで頷いた。
「傭兵とはいえ、お家が剣術の有名な一族らしいですから。上流貴族との付き合いも少なくなかったそうです。どこでも潜めるように、マナーやダンスも一応教わったのだとか」
「……普段全くそういう面を出さないから……分からなかったよ」
カルカテルラは男所帯だった……という話しか聞いていないし、剣術のみに磨きをかけてきたのだと思っていたから、人は見かけによらない……というのがよくわかる例だ。ジャンは確かにいろいろ知っていたけど、素養というものがあるんだな。
「ジャンのにおい……というのがいまいち分かりませんが、マクシミリアンは香水をつけているので、それが移っているのかもしれませんわね」
そう言いながらリリーは自身の身体に顔を近づけて嗅いでいるが、やめてくれ、他の男の匂いを知ろうとしないで……ああ、マクシミリアン……無自覚って恐ろしい。きみはリリーに匂いをこすりつけてるのか。
リリーも無自覚なところがあるから、幼馴染というものはそういうところも似通うものなのかな……。怒りというか動揺というか、様々な負の感情が胸を満たしていくので辛い……。
「そ、そうなんだ……リリーは……マクシミリアンのために頑張っているんだね。とても、偉いと思うよ」
なんとか今できる最大限にいい顔をしよう。と頑張って形作ってみたのだが、あまり上手に出来なかったのか……リリーが俺を見て、それはそれは悲しげな表情になってしまった。
ヘリオスがテーブルの下で俺の足を軽く踏んだ。何言ってんだよという注意だということも理解したし、俺も完璧に失言だったことも――分かった。
「あ、いや……ごめん。家のことって言ってたよな……意地悪したんじゃないんだ……」
「……わたくしや家、もちろんマクシミリアンやフォールズ王家への信用になることでもあって……魔界のためにも、活用できれば嬉しいです……」
ダンスを踊ることが魔界のためになるのだろうか。みんなでダンス大会とかを行うつもりなのかな。
魔王城の前で多数の民や仲間達と適当なダンスを踊っている想像をしていると、リリーの顔は徐々に赤くなっていく。
「……どうしたの?」
「……いえっ、わたくしの勝手な想像なので……!」
そう言って両手で顔を覆うリリーは、なぜか耳まで赤くしている。
マクシミリアンと何かあったのか。いや、リリーは俺のことが好きだって言ってくれたから、他の男が入り込む余地なんてあってはいけない!!
「リリー、何を考えてたの。今赤くなるような話してないよね?」
「う、ううっ……申し訳ありませんわ、ちょっと、精神状態が良くなくて……いえ、良好は良好なのですが、不安定で……」
なんで半分笑ってるんだろう。これはちょっと……おかしいぞ。
もしかして、マクシミリアンから変な薬を盛られているとか……?
いけない、それは断じて放置しておくべきじゃない!!
俺は真っ赤になっているリリーの側へと屈み込むと、自分の方を向かせて安心させるように微笑む。
「俺のこと、ちゃんと見ていて……」
そう優しく告げるとリリーが柔らかく微笑んだので、そのまま……ガッとリリーの顔を両手で挟み込んだ。
「動かないでね、ちょっと見るだけだから」