「――……五百年?」
「ええ。戦乙女が魔界に侵攻する可能性だけではなく、内乱が起こった場合を考慮し……魔界の歴史を見落とさず、消失せぬように……そして【魔導の娘】の誕生を願うためにと……」
当時が云々と大神官はまだ喋っている途中だが、わたくしにはそれを聞いている余裕はなかった。
失礼な行動ではあるが、鞄からノートを引っ張り出し、フォールズの戦乙女関連の年表を探る。まさか、こんな時にこれが役立つとは思っていなかったわ。
「……大神官様、あなた方は、戦乙女が初めて魔界に降り立ったのはいつだと伝えられているのでしょう? いえ、この神殿が出来る前か、その後か……でも構いません。歴代の魔王様についても、何か記載が残されているのかしら」
戦乙女が侵攻してきたことだけではなくて、魔王城に伝わる何か……歴代魔王の名前や家系図、宝物の資料があればとてもいい。
「この神殿が出来た後、初めて戦乙女マルグリットの襲来があったと伝わっております。歴代の魔王様につきましても、神殿が築かれて以降ならばマルグリット同様残されているはずです」
「ふむ……五百年前までというと、レトから数えたら……高祖父くらいでしょうか」
わたくしは年表を見つめ、だいたい五百年前の戦乙女を探る。
確かにその当時の戦乙女はマルグリットだが――……三人目の戦乙女なのだ。
フォルス暦というものがフォールズで使われているものだが、ここでフォルス暦を持ちだしてわかるわけはないだろう。
「あの……魔界に暦……って存在しています?」
こんな当たり前の会話をすることは成り代わった日以来なかったから、今更ながらレトにそう尋ねると……あるよ、と、頷かれた。
ああ、よかったわ……。そういえば、太陽も月もないのにどういう基準で暦が作られているのかしら。
「魔界には365日を一年とする暦があるよ」
「……いえ、それは地上も同じですが……その、魔界○○年、などという……国が出来て何年だよ、みたいなそういう、国の誕生とともに制定するような……」
すると、大神官もレトも困惑した表情を浮かべるので……わたくしは、その先を察して目を伏せた。
「聞いたこともありませんね」
「十二ヶ月と日数くらいしか、ないからなぁ……」
魔族は長生きだし、こんな世界だから洪水もないし星も出ないし、気候の変化もなかったのだ。特別不便を感じていなかったらしい。
365日が一年ってどういう基準で作ったのかは知らないが、そこだけは統一されていてありがたいわぁ……。でもだめだ……魔界、なんとかしなくちゃ……。
エリクに相談しよう。きっとびっくりして腰を抜かすわよ。
「…………神殿が出来てから今日までは何年経っていますの?」
「500年ほど前、ということくらいですが……」
「うわぁ……」
思わずその場にへたり込んでしまった。どんぶり勘定どころではないぞ。
水鏡もどんぶりだからって、大雑把すぎるよ……文明が消えた世界というのは、こんなに大らかで不便だとは……。
もう最後の手段だ。わたくしは弱気になりそうな心を叱咤し、不思議そうにしている(ような雰囲気がする)大神官に再度質問した。
「マルグリットが魔界に、何月何日に攻め込んできた……という記述は残っています?」
「ああ、それなら確か……7月15日です」
おお、おお……よかった……!
一致しているかどうかも不明だが、それを手早く書き留めて、地上に戻ったら調べることにする。
「――ありがとう存じます。襲撃の日時が地上の記述と一致すれば、神殿が建って数百年であるというのはおおよそ分かりますわ」
「……それは、何か良いことが……?」
大神官に小首を傾げられるが、そうか、失われた歴史にも、これからの歴史にもこの人達は興味がないのか……。
ちらっとレトのほうを窺うと、彼はニコニコと嬉しそうな顔をしていた。
「国の歴史が少しずつ刻まれて、過去に何があったかも少しずつ明かされていくことになるんだね?」
「そう! そうなのです……! ああ、レト……」
わたくしの意図するところを理解してくださっていた!
思わず彼の手を握りしめて、こくこくと何度も頷けば、レトは『そんなに喜ばなくて良いのに』なんて言いながらも照れたように笑っている。
「俺も国の歴史は知りたい。過去の過ちも、優秀な試みも、埋没させてしまうのは無と同じだ。俺たちは……この魔界で生きている。未来に何を託せるか、そういったことも考えたい」
この何もない魔界で、そこまで考えていたなんて素晴らしい……さすがわたくしの推し……! 世界はレトをあがめろ……!
思わず拍手喝采したくなるのを我慢する。こんなところで一人騒いだら、魔族の皆さんがびっくりしてしまうだろう。脳内で赤いサイリウム振って大声援送っておきますわね。
「……魔界は歴史学者さんが必要だわ……さて、もうマルグリットのことはよろしいわ。問題は……どんぶ……水鏡ですけれど」
机上の汚水入りどんぶりを冷たい眼で見据えると、大神官は『神殿で一番大切なものです』と口角を上げているので、多分満足げな笑みを浮かべているようだ。
「当時の文明基準も分かりませんし……神殿が悪いというわけではありませんが、これがどのように作られて神殿に託されたか、という文献はありまして?」
「全てのことは口頭で行っております」
代々の大神官に伝えられる。口伝で。
確かに紛失や情報漏洩は少ないだろうが――……これで、なんとなく分かってきたことがある。
「――……最後に聞かせてくださいませんか。あなたがた、自分たちで何かを書き記し、神殿に書物として残したものは?」
「ありませんが……?」
なぜそんなことをする必要があるのかというような、疑問に満ちた声。
それを聞いた瞬間、わたくしの中で、憤りと悲しみがない交ぜになり、行き場のない感情に支配されそうだった。
ノートを胸に抱く手が震える。抑えて。ここでわたくし一人が荒れて何になるの。仕方がないのよ、暗い穴の底に暮らしている彼らに、魔界のことを記すことはできないのだから。
――この神殿が作られてから、しばらくは……魔界のことや魔王城の記述もあっただろう。
魔界を捨てていく民達も続出し、神殿との交流も薄れていく。
やがて、神殿も歴史を刻むことを止めたのだ。
もしも魔界の出来事を記載する日誌のようなものがあったとすれば、いつから空白のページが連なるようになっただろう……。
「……どうか、なさいましたか?」
そう尋ねる大神官。どうかしたかって? ええ、大ありよ。
もし、あの水鏡がきちんと映し出せる状態だったら。
もし、この神殿の人々が外に関心を持っていたら。
もしも、もしも……と続いていく自分の思考。誰かを責めたくなる憤りとやりきれなさ。ヒステリックに叫べるならどんなに楽だろうか。
「――……リリー……っ……」
具合が悪いのかと心配してくれたレトは、わたくしの何か――もしかすると、何度かわたくしの精神を読み取るという失礼なことをしているから、そこから明確なイメージを感じ取ったのかもしれない。言葉を詰まらせて動きも一瞬止まった。
「リリー、待っ……」
「…………全てが、愚かで怠慢だと言わざるを得ませんわ!!」
わたくしはそう呟きながら……卓上のどんぶりに指を突っ込む。爪の先で藻を引っ掻いてしまったようで、ぬるっとした嫌な感覚が伝わった。
大神官もレトも『あっ!』とそれぞれ違った意味で大きな声を上げる。
「なっ、なんという罰当たりな! やめなさい!」
「洗ってないんだから止めたほうが……」
大神官はわたくしの行動に驚いたようだが、わたくしのほうが魔界のあれこれで驚きまくってるのよ。
ほんとに、何もかもが……めっちゃくちゃなのよ、魔界は!!
この国のどこから制定すれば良いか、全然分からないじゃない!
わたくしはただのリリーなのよ!? 神でも専門家でもないのよ!
せめてどこかだけでも、まともに動いていてくれさえすれば……よかったのに!
「――ちょっと、どんぶり。ただの器かどうか分かりませんが、あなたもしっかり働かないから……こんなところで、こんなひどい状況を目にすることになったじゃありませんか!! わたくしが【魔導の娘】であっても、分からなくて光り輝けないのなら――……『こういう存在』であると、ここで証明して差し上げますわ!」
わたくしは自分の魔力を、水鏡といわれている忌まわしきどんぶりに注ぐ。
精霊さんも、注入を手伝おうか……とまで言ってくれるのだから、ありがたいことこの上ないけど、今は必要ないわね。
この神殿、マルグリットが来る前に作られたというのが本当であったとして。
戦乙女が攻めてくることを想定して建てられている――……そういうリスクを想定した『歴史の保管庫』というシステムも兼ねているなら素晴らしかっただろう。
なのに、実際はそんな場所じゃない。
苔むした水を眺めては、キノコを貪っている一族が暮らしているだけだ。
「――……歴史の消失を守るためなら、綴っていく必要があると誰も疑問に感じなかったの!? 魔界の様子も分からず、当代の魔王の名も知らないで暮らしているのは、歴史の消失であり役割の喪失じゃなかったら何だというの!!」
魔王城とのやりとりがなかったとしても、魔界の異変にすら気づけなかったのか。
あるいは……考えたくないし、この時代の大神官達には責任がないかもしれないが――戦乙女の襲来以後、大変な戦いが起こっていると分かっても、ここから動かず、魔界の終焉をただ黙って見逃してきたのだ。
「このどんぶりが何よりも大事だっていうなら……一生、輝かせておいてやるわ!!」
こんなに魔力を解放するのも久しぶりだわ。様々なことにムカついているので、何ならこのまま壊してもいい程度に注いでやろうかしら――そう思っていると、目も眩むほどの光がどんぶりからあふれ、室内を満たす。
「うっ……?!」
強い光が目に痛い。思わずまぶたを閉じ、魔力の注入も止めたところで……『んふぁはははは!!』という、野太くもクセの強い笑い声が耳を打った。
「これが【魔導の娘】の魔力……! 素晴らしい……炎のように苛烈で、強い生命力を感じるぞ! まさしく選ばれし娘の力よ……!」
なんかハイテンションで誰か……オッサン的な人が喋っているが、急に入ってきて何笑ってんのよ。
「よくぞワシを解放してくれた。礼を言うぞ、娘よ」
なんか勝手に喋られても困るんですけど……ちょっと待って、目を開けるわ……。
まだ目の奥がチカチカする気はするけど、そーっとまぶたを開き……数度瞬いて、野太い声のオッサンを探すが、ここには二人の若い男しかいない。
「……リリー、それ、喋ってる」
レトが指し示す場所……卓上で銀色に輝いているどんぶりが、水をバシャバシャと零しながら右に左にと動いて『ふぁははは!』と笑っていた……。