大神官に連れられていった先は神殿の奥……客間などではなく誰かの私室っぽい。
恐らく彼の部屋……か、執務室なのだろう。
その大きな肩書きに相応しく、室内は綺麗に整えられている……ことはなかった。はっきり言い切れば――何もかも雑多に散らかっている。
泥棒が来て荒らしていったと言われても納得できそうだ。
誰がそうしたのか、柱のように高く平積みされた本が三つほどそびえ立っている。
魔王城以外で、何らかの書籍が現存していたようだ! って素直に喜ぶ前に、地震が起きたらどんなことになるやらと、勝手に気をもんでしまう。
来客がないからこうも散らかっているのか、たまたまこんな状態なのかは……わからない。
この場所は、人の手と道具で少しずつ掘り進んでいったのか、壁面は模様のようにでこぼこしていて……魔法を使わなかったのかな、とか、掘るの大変だったろうな、という感想を抱かせる。そういえば、この神殿全体がこんな感じだ。
信仰の場だから、魔法を使うなんてとんでもない……とか、いろいろと当時のルールにあったのかもしれないわね。
「王族の方にとっては汚く見苦しい場でしょうけれど……どうぞお掛けください」
椅子の背もたれに掛けられたローブやタオルなどをささっと片付け、大神官は場所を作る。さっきまでの威厳はどこへ消えてしまったのか……。
「確かに、お世辞にも綺麗とは言えないね……毎日忙しいようで良いじゃないか」
幾分穏やかになったけれど、レトの言葉や態度にはまだ棘がある。
座るように促された椅子に、罠や魔法が施されていないか入念にチェックした後、ようやくわたくしにも大丈夫だよと声がかけられた。
「忙しいというほどのことはございません……仕事以外のことに、あまり気が回らなくて。洗濯もいつ行ったか……」
おいおい。あのローブ、ちゃんと洗っているのか心配になる言葉が発されたぞ。
そんな人から目の前に差し出されたお茶……ではなくて赤いお湯。
カップも綺麗に洗ってあるように見えるし、大丈夫だろう。赤いけれど白湯なら……飲める、と……思う。
「長居するつもりはない。お前達がこちらに手を出さない限りは、俺も反撃しないし……拘束するという話じゃないなら、手短にお願いしたい」
レトは大神官を睨み、少しだけなら話し合いに応じるという姿勢を見せた。
「……先ほどは、神官達が非礼を働きました。この通りお詫び申し上げます」
わたくしも何か言えば良いのか迷っていると……大神官はレトの前に膝をつき、深く頭を垂れた後、謝罪の言葉を口にした。
「あなた方の事情も聞かず、一方的な判断を押しつけたことにも深い謝罪を致します」
「…………さっきの子よりは、穏やかに話が出来そうだね」
この上司もイルジナさんのように取り乱すようであれば、どこぞのダンディなトレジャーハンターが活躍する映画みたいに遺跡からの大脱出を試みるほかなかっただろうが……対話が可能っぽいので、レトの警戒心もほんの少し下がった気がする。
「失礼ながらレトゥハルト王子……そちらの人間のお嬢さんを【魔導の娘】だと信じておられるそうですね」
「ああ。魔界の王家のみ感じ取れる感覚だとも……書物に書いてあった。実際彼女を見た瞬間、畏怖と困惑、そして……強い歓喜を感じた」
泣きたくなった、といっていた感覚をよく綺麗にまとめたものだ。
大神官はわたくしのほうに顔を向け、あなたはどうですか、と尋ねた。
「人の身でありながら、魔族の救世主と言われ……地上で人間と魔族が血を流して争い、戦乙女と本気で死闘を繰り広げることになった場合、あなたは自らの命を惜しいと思うのではありませんか?」
「――残念ながら、わたくしの命など……とうに魔王様とレトゥハルト王子に捧げております。たとえ戦乙女達に捕らえられて処刑されたとしても、自らの命乞いなど致しませんわ」
素直な気持ちを口にした瞬間、ぞくりと冷たい感覚が背筋を伝った……気がした。
これは、たまに感じる……寒気ということで片付けて良いようなものじゃない、ヴィレン家の呪いみたいな怨念みたいなやつじゃないの?
「も……勿論、ヘリオス王子も、大切に感じておりますのよ?」
そう付け足したように言ってしまったが、あの冷たい感覚は瞬時に消え失せたので……実は全て聞いていると冗談で言われても今なら信じ切れそうだ。ヤンデレの念はとっても怖い。
だが、今度はレトのほうから何か言いたげな視線が飛んでくるので、それは後でゆっくり説教を受けることになるだろう。兄弟でなぜこんなにバッチバチに意識し合っているのだ……。
「――つまり王族のためになら、あなたは命を捧げる覚悟があると?」
「ええ、その通りですが……もし、あなたや他の方々が『人間など側にいないほうが、王家や魔族のためである』と仰ったとしても……わたくしなりの理念で行動していますので耳を傾けるつもりはございません。王家の皆様から直接言われぬ限り、わたくしを止めることも、役割を放棄させることもできませんわ」
「……もし何もかもがこじれて、父上からそう言われたとしても、ヘリオスや俺が反対してリリーを手放すなんてこと考えられないよ」
そういうレトの表情は嬉しそうで、わたくしの性格を理解し、その上で全幅の信頼を置いてくれている。も、もしかすると、愛情もあるから……だろうけど?
でも、彼の言うとおりだし、わたくしが頑張れるのは……ヴィレン家の皆様と、仲間がいてくれるからだ。
たとえ……地上の人々に疎まれたとしても構わない。
命に対して、奪う・奪われるの覚悟は足りていないけれど……必ず克服する。
わたくしはわたくしのやれることをし、魔王様や民達が創り上げていく魔界を助け、これからも見守っていきたい。
こんな偉そうなことを言っているけど、ふかふかの焼きたてパンを初めて口にして……とても大喜びしていた魔王様とレトの顔が今も忘れられないの。
『なにこれ! すごいあったかい! ふっわふわ!』
『そうなのです!』
あのときのことを思い出すと……尊みが過ぎて涙が出そうになるのよ……。
きっとあのときから、わたくしは『この人達のためなら魔界で朽ちることも惜しくない』と、心のどこかで考えたのでしょうね。
……ただ、本人達にこの事を告白したら、やめてぇえって突っ伏して恥ずかしがる黒歴史に入っちゃうかしら。
役割を放棄するつもりもないといったわたくしを、大神官はしばらく見つめていた。
面布で目元は隠されているので、彼が本当にこちらを見ているのかまぶたを閉じているかは判別できないけれど、多分見ているのだと思う。
「……この『大いなる神殿』は、歴史が消失せぬよう……戦から守るため、魔王城より遠い地に建てられたと文献に記載されています。勿論本来の役割は、魔神に祈りを捧げ、魔神の遣わす【魔導の娘】が魔界に生まれ落ちたかを日々占う場所……」
そこまで言って大神官は、ふっ、と口元を歪めた。
「……魔族にとっての救世主が、人間から生まれていたとは……。代々【魔導の娘】は、人の側から生まれていたのかもしれませんね。探すことが出来ないわけです」
「まあ……どのようなもので占っていらっしゃるの?」
「水鏡です」
水鏡か。星読みとかが出来ない魔界では、なんかそれっぽいような……と思っていると……大神官は、どんぶりみたいな器を卓上に持ってきて、これですと無造作に置いた。
恐らく元の容器は灰色のようだが、長年放置されているんじゃないかと思われる。手垢ベッタベタで薄汚いのよ……。
わたくしとレトは苦い表情で顔を見合わせ、そーっとどんぶりを上から眺めてみる。
当然、そこに映るのはわたくしとレトの顔なのだが……赤い水の中、器のまわりに黒い藻までびっしり付いているんだけど……。うっわ……。
「……これ……水を換えたり洗ったり、なさらないのでしょうか」
「そんなことをするなんてとんでもない!」
「洗わないほうが道具にとってとんでもないと思うんだけど……」
魔力を何も感じないね、と呆れたように言うレトは、器を洗って水を換えた方が良いと思うよ、と言ってそっとどんぶりから身を離した。
「…………仮に、この水鏡に……どのような反応があれば【魔導の娘】が生まれ落ちたと分かるのでしょうか」
「言い伝えでは、その水が光り輝く、と……」
「…………つまり水を換えないのはかなり昔から。そしてその汚水が光るのを、あなた方は日々お待ちになっていた、と。はぁ……もう、魔界ってどこまで不憫な世界なの!?」
「おっ、汚水とは無礼な!!」
「俺も汚水だと思うよ……ついでに器も……」
だいたい、イルジナさんだって攻撃魔法が使えたんだから、昔から魔法のノウハウとかはあるんでしょ!?
あーだこーだして占ったりすれば良いじゃない!
この水替え不要ズボラシステム考えたやつ出てこい!! あとリメイク版の魔族世界観設定した奴らも出てこい!!
「……まさか、あなたがたもスライム食べて暮らしてるんじゃないでしょうね?」
「そんなものは食しません。マタンゴを水に数年さらして毒を抜き、食しています」
ほう、スライムじゃないだけ良いんじゃない? と思ったが、数『年』ときたか。気の長すぎる話だ。それに、確かマタンゴって……。
「……毒キノコのお化けではなくて?」
「ええ、この神殿でマタンゴを食料として飼育しております」
「……マタンゴの餌は?」
「マタンゴです」
「んんん?」
マタンゴは共食いしているのか……。
マタンゴの飼料も毒抜きしたマタンゴらしく、マタンゴで成り立っている生活……ちょっと言っていることが分からない。
「どう考えたってスライムと五十歩百歩じゃありません?」
わたくしはどうコメントして良いか分からず、ひそひそとレトに小声で意見を求めた。
「マタンゴの毒抜きをする時点で、時間かかってる気がするけど……可食量が多いんじゃないかなあ。スライムのほうがそのままかぶりつけるから楽だと思うんだ。今にして思えば、すっごく美味しくないけど……当時はそれしかなくてね。あれは美味しいと思って食べていた」
意見を求めてるのはそこじゃないわよ。
大神官、あんたも『ほー』なんて感心してる場合じゃないっつの。
「……ちなみに、この神殿はどのくらい昔からあるのでしょう?」
「五百年ほど前です。ずっと【魔導の娘】を待ち続けています」
穏やかに答える大神官に、わたくしはなるほど頷きかけて……違和感を覚えた。
レトのことを王子だと理解したようだが、わたくしをまだ【魔導の娘】とは認めていないっぽい、ということ……そして、彼の答えた長き年月は……わたくしの調べたことと、違う気配がするのだ。