それから一週間ほど経った、土曜日の朝。
マクシミリアンの人脈で、音楽院の生徒さんをお一人紹介していただけるというご縁が出来た。
まず、レイラとライラにそういう人を紹介して貰えるが、二人は習ってみる気がある? と聞いてみたところ、二人は即答で良い返事をくれたのだ。
もちろん、レッスン料はわたくしが出しますという条件を先に出したのもあったが、紹介して貰うと決まったときの彼女たちは、とても期待に満ちていた。
待ち合わせは当学院――セントサミュエル学院――の正門前。
学院の施設をお借りするので、私服ではなく制服姿での登校だ。
今日は退屈だろうから、ジャンに来て貰わなくても大丈夫だと告げたが、どうせやることもないから構わないと言って、結局一緒に付いてきてくれた。
そして……待ち合わせ時間よりも15分ほど早く来たのに、それよりも早く、あの姉妹が待っていた。
「おはようございます。まだ時間に余裕がありますのに……。随分お待ちになったのではなくて?」
「ち、違うわよ。いつも通りの時間に目が覚めただけで……部屋にいても落ち着かないし暇だし、散歩ついでに来たのよ」
レイラとライラも寮に住んでいるらしいのだが、一階の部屋はワンルームで、風呂とトイレは共同らしい。ついでに掃除当番もあるとか。
壁はお世辞にも厚いとは言えず、くしゃみも聞こえてしまうらしい。
プライベートが完全に守られ、お風呂もトイレも、なんならキッチンだってある四階のことを教える必要はないけれど、これが格差というものか……と改めて感じてしまう。
「そういえば、学院の教室を借りるって言うけど……アトミス先生は何か言ってた?」
「いいえ。先生は立ち会わないので使った物を所定の位置に返すこと……鍵の返却は必ず行うこと以外には、特に注意はございませんでした。次も練習をするようなら、生徒会にも連絡するようにと……」
生徒会と聞いて、うえぇ、とライラがウシガエルみたいな声を発して顔を歪めた。
「生徒会って、実質一人しか動いてないじゃないですか? しかもあの人、全然笑わないから怖いし……」
「あら、そうかしら? 図書館では微笑んでカウンターに立っていらっしゃるわよ」
「あなたの前だけは笑ってるんじゃないの? 普段、表情あんまり変わんないのよね。そっちのクラスに行くと、よく喋るって聞くけど……信じらんないわ」
へー。イヴァン会長って常に微笑んでいるイメージがあったのに、自分のクラスだとそんな感じなんだ……。
確か、病弱でずっと伏せって暮らしてきたとか聞いたわね。それじゃ、親しい人というのも特にいるわけがないか。
……もしかして……ぼっちだから特に話す人もいないだけ……なのでは……。
「…………いつも、イヴァン会長って教室にいるとき何をされていますの?」
「さあ。本かなんか読んでんじゃないの? 話しかけても返事が薄いのよね」
「自分が認めた相手以外に、興味が無いっつー根暗なんじゃねぇか?」
あっ、ジャンまでそんなことを言い始めて……。ジャンもイヴァン会長も一悶着あったから、互いによく思っていない。
その歯に衣着せない一撃が気に入ったのか、レイラはケラケラと笑って、何度も頷いた。
「よく分かってるじゃない! ほんとそんな感じよ。プライド高いのかも」
「――……高く持っているつもりはありませんがね」
不意にわたくしの後方から暗さを含む声が響き、わたくしとハートフィールド姉妹はびっくりして肩を大きく震わせ、慌てて後方を振り返る……。
そこには若干ムッとしたような顔のイヴァン会長がいて、わたくし……ではなく、ジャンとレイラのほうを睨むように見ていた。
「あ、ああら、おはようございます、生徒会長さん。今日はお休みじゃないの?」
「その生徒会の仕事が溜まっているので。後期の生徒会役員が本決定されるまでは、一人根暗にやりますよ」
どうやら、だいたいのところは聞こえていたらしい。
視線を合わせずにいるライラやレイラを一瞥し、リリーティア様、とイヴァン会長はわたくしに赤い瞳を向けた。
ヒッ、とばっちりが来るのかしら。
「――お恥ずかしいところを知られてしまいました。そちらの教室にお邪魔するときは、とても楽しく過ごしています。というより、貴女に会いに行っているので、楽しいに決まっているでしょう?」
「……そ、それは……どうも、ありがとう存じますわ……」
綺麗に微笑まれているが、その微笑みはレトとは全く違う感覚をわたくしに与えてくる。
レトの微笑みは負の感情や邪な思いすら浄化してしまいそうな、そんなまばゆい太陽のような光を発してくるイメージ。たまにとろけるような笑みを見せてきて、その素敵で、かっこよくて、可愛らしいことといったらない。
それだけで、魅了なんかにも抵抗があるらしいわたくしでも、思考が止まってしまうことだってよくあるのだ。惚れた弱みっていうのもあるけどね。
イヴァン会長の笑みは……夜空に浮かぶ月のように静か。それでいて優しさに覆われた刃物を向けられているような……上手く言えないけれど、笑顔を向けられると『騙されちゃいけないぞ』という警告が脳内で響くような……そう、危機感がある。
ちなみに、騙されちゃいけないといえば……ジャンとどう違うのかといえば、ジャンは毒が体内に入り込んで高熱が出る蛇みたいなものだろうと思う。危ない男だよ。
と、わたくしが三者の笑顔と精神への干渉について感想を考えていると、既にイヴァン会長は正門を開き、先生から事情は伺っていますと微笑んでいた。
「頑張ってください。文化祭、期待しています」
「ああ……でも、わたくしが歌うわけではございませんので」
すると『えっ?』という顔をし、レイラとライラに視線を向けるイヴァン会長。
「そーよ。あたしたちが歌うためのレパートリーを増やす練習。リリーティア様は、文化祭の時はただ飲み物作るだけの役よ」
「…………そうでしたか。はあ、なんだかがっかりです。急に力が抜けてしまいましたよ……じゃあせいぜい頑張ってください。それでは」
急に冷たいことをレイラに言い放つと、イヴァン会長はスタスタと校舎に向かって歩き出した。
あっけにとられてレイラとわたくしは彼の後ろ姿を見送っていると、我に返ったレイラが『なぁんっなのよ!』とブチ切れた。
「がっかりです、じゃないわよ! あたしの歌聞いたこともないくせに、勝手に勘違いして事実を知ったら急激に冷めるとか……許せないわ! あなたも、あんな奴のどこが良いのよ!」
「いえ、彼はお友達……? なので」
「友達だろうが知り合いだろうが、なんだっていいわ! まず、あなたの噂がロクなもんじゃないんだから、もう少しまともな奴そばに置いときなさいよ!」
容赦のないブチ切れ方に絶句していると、何が楽しいのかジャンが笑い出した。
「――全くだ。水色メガネもここに居たら異論は無いだろうぜ」
わたくしの周辺はまともじゃないなら、あんたもその一人だって自覚はあるんだろうな、ジャンさんよ。
朝から美少女の罵詈雑言を聞かされていると、あのぅ、という……めっちゃくちゃ控えめな声がわたくしたちに投げかけられた。
「――……マクシミリアン・アラストル様のご紹介の方々でしょうか……?」