【成り代わり令嬢は全力で婚約破棄したい/90話】

 その後は、特に難しい話をすることもなく――……というより、わたくしが疲弊していることを考えてくれたのだろう。


 食事を終えると、ジャンはもう寝ると言って部屋に戻っていった。


 お風呂入らないの? とレトが聞けば、たまには広々したものにでも入るといっていたが、大浴場にでも行くのだろう。


 わたくしはゆっくり備え付けのお風呂で、ふやけるくらいに湯船に浸かっていたのだが……身体の血行が良くなっても、疲れと一緒に悩みまでは流れていかないようだった。


 浴槽に顎くらいまで深く浸かると、まとめきれなかった髪の一房が湯にたゆたい、木の枝のようにいくつもいくつも枝分かれするように広がる。


「……はぁ……」


 まるで、一本一本の毛先が自分の選択肢のようだ。


 わたくしは、何でも出来る気でいただけなのかもしれない。


 ジャンやレトがいなければ、わたくしは自分の身をきちんと守り切ることが出来るだろうか。魔物を説得できるだろうか。


 わたくしに必要なのは、命を奪うという覚悟だけではなく……全てにおいての決断が求められているのだ。


 わたくしの意志が鈍ったら、レトが、ジャンが、みんなが死んでしまうかもしれない。そんなのは嫌だ。


 じゃあ、クリフ王子やアリアンヌと命の奪い合いをすることは出来るだろうか。

 彼らの目の前で、魔物を倒す真似など……。そんなことできない。

――違う。やらなきゃ、いけないんだ。

 その可能性を考えるだけで、わたくしは胸が締め付けられる思いだった。


 別にクリフ王子を好いているわけじゃない。でも、殺したいくらい憎いわけでもない。あんなクリフ王子でも、フォールズに、アリアンヌにとっては大事な人なのだ。


 だけど、魔物は……魔族は、魔王様やレトにとって、大事な存在。

 わたくしだって、彼らに愛着を感じている。


 どちらに弓引くことも出来ない。

『おまえ自身は誰も救えないのだ』

 誰も救えない。

 ああ、そうなのかもしれないと……あのときもそう感じてしまった。

 わたくしがその言葉に納得しかけていたのを、あの男は看破したのかも。


 だから――……たいした存在ではないと、嗤ったのだ。


 そう思うと悔しくて、自分が情けなくて、お風呂の中で膝を抱える。

「――……リリー、大丈夫?」


 突然、浴室の外からレトの遠慮がちな声がかけられたので、驚いて振り向いてしまった。


 磨りガラスの扉はぴったり閉まっているが、その向こうには人影が見える。

 声だけでも分かるが、赤い髪の色が見えたので、レトが向こうに立っているのだ。


「やっ、違う、覗こうとやましい気持ちで来たんじゃないよ!!」


 レトの声に驚いたわたくしが大きな水音を立ててしまったので、彼は警戒されたものだと思ったらしい。頭をぶんぶん振って否定しているのも……わかった。


 磨りガラスであったとしても、わりと形は分かるものだ。向こうからはわたくしが浴槽に入ったまま、そちらを凝視しているという雰囲気は伝わるだろう。


「……大丈夫です、少しゆっくり、こわばった身体をほぐしていただけです」

「それならいいんだ。いつもよりずっと、お風呂が長いようだったから……泣いてるんじゃないかと思って」


 そう心配そうな声でこちらを気遣ってくれるレト。


 実際泣きそうだったところだし、追い打ちにそんな優しい言葉をかけられたら、心がきゅぅっと切なくなって今すぐ泣いてしまいそうになる。


「大げさですこと。お風呂も――……もう上がりますわ。そこにいられると、出るに出られませんの」

「あ……ああ、すぐ出てくよ。ごめん」


 そそくさと出て行くレトの背をガラス越しに見送りながら、きちんと脱衣所の扉が閉まった音を聞いて、浴槽から出ると、ハンガーに掛けたバスタオルを肩からかける。


 浴槽の栓を抜きながら、しっかりしなさい、と……水面に映った、泣きそうな顔の自分を叱咤した。



 寝室に戻り、寝間着に着替えてから……濡れた髪のままベッドにぽふんと転がる。きちんと乾かさなくちゃいけないなと思っても、気分が沈んで、いろいろ身の回りのことを行うのが面倒くさい。


 そのままゴロゴロ~っとグダグダ~っと怠惰の極みを貪っていると、部屋の扉が叩かれる。


「リリー、入るよ」

「え、レ……って、えぇ!?」


 入っていい、じゃなくて入るよとは、いったい何事なのだろう。

 ベッドから起き上がる前にレトはわたくしの部屋にやってきて、ベッドの上で固まったままのわたくしの姿を見て……彼自身もびっくりしているようだ。


「あ。え……、えーと、寝てた……じゃなくて、髪濡れてるじゃないか。風邪を引いちゃうよ」

「い、今乾かそうかなと思って、でもちょっと面倒だったので、ごろごろと……」


 互いに伝わりづらい言い訳をしているのを感じ取り、顔を見合わせると――ふふっと吹き出すように笑った。


「面倒な日もあるだろうけど、風を当てるだけなんだから。ちょっとごめんね」


 レトはわたくしの後ろにやってくると、そっと髪に触れてふわふわと温かい風を起こす。精霊さんを使っているわけではないのだから、魔具を介した魔法だと思うんだけど……便利ねえ。

「……落ち込んでるでしょ?」


 髪に優しくブラシをかけながら控えめに、それでいてわたくしの心理に近い言葉を投げかけてくる。

 答えづらいなと思っていると、ここには二人だけだからといって、素直に教えて欲しいと促された。


「ええ……。わたくし、魔界のため……なら何でも出来ると思っておりましたの。ですが、あなたたちがいないと何も出来ない……と無力さを痛感致しましたわ」


 笑って重い言葉の雰囲気を軽くしようとするが、そんな薄っぺらい笑みを見たレトは辛そうに眉を寄せ、両手でわたくしの頬を包むように押した。


「本気で言ってるなら、怒るよ。リリーは無力なんかじゃない」

「でも、わたくしは――……どっちつかずですのよ。傷つけるのも傷つけられるのも嫌です。だからといって、自分の手を汚す勇気も無い。そんなの、ずるいじゃありませんか……」


 ずるい、という単語を出した途端、自分の中で堪えきれない思いがこみ上げて胸を満たす。


 抑えることが出来ない感情は、涙と共にあふれ、嗚咽に変わる。

 レトはわたくしの涙を拭いながら、ちょっとごめんね、と言ってわたくしの首に手を回してペンダントを外すと、枕元へ置いた。


「ごめん、それがついたままだと父上にも聞かれて……もしかすると、ヘリオスにも感づかれるから。内緒話には要らないものだよね」


 急に首元から『話聞こえたんだけど』って言われても互いに気まずい。

 それに、さんざん注意もされているし……確かに外すべきだったか。


「リリー……確かにジャンは自分の考えを固めろと言ったけど、殺すことを強要したんじゃないよ。最終的にどっち側か、ということだよ」

「それは、ずっと変わりが無く魔族の側にいます」


 そこは本当だ。


 しかし、レトは『俺はね』と沈んだ声で言いながら、わたくしの顔にかかった髪を払う。


「最初、リリーを魔界に連れてきてしまったことに……後悔や罪悪感があった。魔界をなんとかしたいという自分の感情だけで、きみを利用するんだ。手伝ってくれるよう仕向けてしまったことに苦悶し、しばらく眠れぬ夜を過ごした事もあったよ」


 レトは目を細めて数年前のことを懐かしく語る。


「人間の貴族の娘『リリーティア』として生きることを奪い『リリー』として運命をねじ曲げたことを、何度も悩んで……父上にも相談できないままだった。リリーが俺に笑いかけてくれるたび『ああ、この子はきっと、もう一度選び直せるのなら、俺に出会わない人生を歩みたいだろう』って、胸が痛んだ」


「そんなことっ、絶対――」「なかったとしても、俺はそうだった。どこにも行かないで欲しかった……リリーが地上に戻った半年間も、またそんなことをぐるぐる考えてたよ」


「わたくしは、あなたのお側にずっといます。これからもずっと一緒に」


 思わずレトの頬に手を伸ばし、わたくしは大丈夫だからと告げると、ほんのりと彼の目が潤んだように見えた。


 手の上にレトの手のひらが重ねられ、その温かさが心地よいのか、彼は一度ゆっくり瞳を閉じてから、無理しなくていいんだ、と笑った。


「……リリーが戦えないというのなら、それでいい。魔族を思ってくれるというのなら、違う形でリリーが出来ることを探してみようよ」

「違う形で、できること……?」


 戦うことを避け、命を奪うことに消極的なわたくしに出来ることなんて、あるのだろうか……。


 不安そうな気持ちが顔に出ていたのか、レトは大丈夫だよと励ますように力強く告げて、重ねていた手を解くと――わたくしの背に手を回しながらベッドに身を沈めるように……まあ平たくいうと、押し倒されるような形で抱きしめられた。


「誰に何を言われても、一人で抱え込まないで。リリーには俺たちがついているし、もしもリリーが命を奪うような戦いをし、精神の均衡が保てなくなっても、忘れさせてあげるから」


 言いながらわたくしの指先に口づけを落とし、艶っぽく囁かれる。

 なんか、それってベッドに押し倒されているせいか、大人の会話のように聞こえるのですけど。


「じゃあ……わたくしが今、直視するのを恐れて逃避したいことがあったなら、レトは忘れさせてくださるの?」


 いけないと思いつつそう尋ねる気持ちには、かすかな期待が込められているのを見抜かれてしまっただろうか。


 レトは一瞬目を大きく見開くと、声を上ずらせ、ああ、と頷いた。


「リリーが……望むのなら……」


 そうして、レトは……ぐっと顔を近づけ、いいの? と震える声で問う。


 本当は良くない。でも、ちょっとくらいなら……。


「あんなに奥深くまで視られるの嫌がっていたのに……」

「――……んっ?」


 なんかおかしい。わたくし身体なんて見せたことないぞ。

 ましてや奥深くなどという意味深なところなど……。


「今度は傷を付けないように慎重に進めるから……力抜いて、目を開けてこっち見て」

「何言ってるか分かったわ、待ってレト! 視るのじゃないのです! あれは嫌ですわ! あっいやだ、頭の中にさざめきが! イヤッ、これ嫌!」

「こら、暴れないで。傷がついたら大変なんだから」


 レトがわたくしにやろうとしているのは、ヴィレン家の特技であるひとつ……名前は分からないけど、ご自身の『何か』(魔力とか精神とかのような目に見えない何かである……と思うが、怖くて聞けない)を相手の中に潜り込ませ、精神を『視る』という恐ろしい技である。


 わたくしは以前これをヘリオス王子、レト、魔王様と三回もやられており、トラウマと呼んで差し支えない嫌悪感を植え付けられている。


 なるほど『一時くらい忘れさせてあげる』というのは、こういう地獄の苦しみを与えるからか!


「い、ッ……、レト、いやあ、あ……! 違うのです、わたくしそれ、やだ……」


 嫌悪感に必死に耐え、止めてくれるよう懇願しているのだが……突然びくりとレトが身体を震わせ、じわじわと頬を上気させて赤みが差していく。


 いったい何を探り当てたのだろうか。


 そう思った途端、ふっ、と身体の中から『何か』が出ていったらしい。

 頭の中で聞こえ続けていたざわめきも、不快感も一瞬で消え失せた。


「っ……きみが想像していたのは、こっちのことじゃないんだね……すごいことだねぇ……」


 しかもとんでもないこと……わたくしが想像していたものを見つけてしまったようだ。死にたい。


「――……えっち! もう知りません!」

「ごめん、嬉しい……リリーもそんなこと考えたりするんだって、意外だったけど」


 だめだ、こんな話しながら抱き合っていたら、恥ずかしくて変な声が出てしまいそうだ。


 いっそ死んでしまいたい。いや、死ぬのは困るからなんとか仮死状態で死んだものと思わせ…………。

――……仮死状態。

 死んだものと思われても処置すれば、もしかすると生き返る可能性が……。


「――しても良いと思う」

「えっ!?」

 わたくしの呟きに過剰反応するレトを押し退け、それだわ、ともう一度はっきり口にした。


「最高……わたくしってば最高だわ……どうして思いつかなかったのかしら」

「リリー? 何か、期待して良いのか悪いのか分からない状態で盛り上がられては困るんだけど……」


 ベッドに正座をしたまま、レトはニヤニヤと薄気味悪く微笑むわたくしを見ていたが、自分の声が耳に入っていないようだと分かると、少しばかり落胆したような顔をする。


「――……根本的な解決にはならないけれど、大幅に心の負荷が減るじゃない。そうよ、わたくしの命中精度を向上させれば……」

「何をしようとしているのか、教えてほしいな……」


 ようやくわたくしはレトのほうへ向き直り、新たなスキルを会得するのです、と力強く説明した。




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こめんと

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