瞬間、わたくしの表情がぴしりと固まったのは言うまでもない。
わたくしの聞き間違えではなければ、レトははっきり『リリーと寝たかった』と口にしたと思う。
「……あの、レト……」
「な、なに……?」
わたくしが困惑するのを感じ取ったらしきレトも、平静を装っていても何か不安を覚えているのか、こちらの様子を注意深く窺っている。
「一応、うかがいますが……寝るって、意味、ご存じ?」
「寝るというのは……意味が、他にあるのか?」
ぴゅあぴゅあだ。
さすがピュアラバに出てくる(多分)魔界側のメイン攻略者様である。
魔王様からそれなりに情操教育を受けたのかと思いきや、そういう俗語というか、隠語というか……疎いようだ。
「……寝るというのは、その……そのままの意味でよろしいのですが、一般的には添い寝の意味ではなく、異性の間では同衾といいますか……」
もじもじしながらそう言葉を選んで伝えると、レトにもようやく理解してもらえた様子だ。
「――……そ、そうなんだ……!」
顔を徐々に赤らめながら、それは驚かせてごめんね、と謝罪してくれる。
「俺はその、普通に、リリーと一緒のベッドで寝ようと……」
「そ、それはっ……えーと……」
それはそれで、いいよと言うのもいけないような……。
年頃の男女という意味ではあまり良くない状況だけど、わたくしだってレトと一緒にいたいというのは強く感じているのだから……添い寝くらいは悪くない、と思いたい。
「やっぱり、嫌……だったかな」
「…………」
レトが驚かせてごめんね、と謝罪してくれて、わたくしの肩に手を置くと方向転換させて、ドアの前に連れてくる。
「ごめんね、リリーもどうして良いか分からなくて、気分が悪くなっちゃっただろう。今日はもう戻るといいよ……できれば、今のことも忘れて」
そうしてわたくしを外に送り出そうとドアノブに手をかけたので、その手の上に自分の手を重ねて、行動を止める。
「リリー……?」
その声には、わたくしの行動を疑問に思っただけのような小さな驚きが含まれていたが、わたくしにはそれに気を向けているような心の余裕がなかった。
「いっ……」
「?」
「いやじゃ、ありませんわ……」
それだけいうのが精一杯だった。
レトの言葉は降ってこない。
どれくらい、そうしていたのか――……レトは、わたくしの事を後ろから抱きしめる。
「――……ほんとに?」
「はい……」
レトがどんな顔をしているのかも分からないが、背中越しに彼の熱いくらいの体温と早い心音が伝わってくる。
「……うれしい……」
安堵したように吐かれる言葉と共に、抱きしめる手に更に力がこもる。
添い寝くらいでこんなに喜んでくれるとは、わたくしレトにどれくらい大事にされているのだろうか。
「えーと、そ、それなら、ベッドに横になりながらお話ししましょう?」
「そうだね。それがいい」
わたくしを抱きしめていた腕が解かれ、手を引きながら部屋の奥……といっても、レトの部屋は間取り的に一部屋しか無い。ドアを開ければ少々広めの部屋の両脇に本棚、入り口手前に机。奥にクローゼット、そしてベッドが備え付けられているだけだ。
それだけといっても、わたくしの部屋より家具は多いし使いやすい。
「……この部屋に、足を運ぶことはなくなりましたものね」
「そうだね。もう釜がないから、俺に用がある場合以外は確かに来ないかも」
作業場が出来る前までは、入ってすぐのところに合成釜と素材を入れておく棚がドンと置かれていたものだ。
わたくしもエリクも、錬金術を行うためによくここへ来ていた。
だから見慣れた部屋でもあるが……今はなんだか、違う部屋のように感じる。
真っ白のシーツにふかふかの掛け布団。枕は一個しかないんだけど、隣にベージュのクッションがちょこんと置いてある。なんか妙に生々しいというか、一緒に寝るぞー! という意気込み的なものを感じられる。
急に緊張してきたわ。でも平気だから。なんたって乙女ゲーの世界なのよ。レーティング問題は安心なの。
そーよ、怖いことなんかないのよ、リリーティア。寝っ転がって、スヤッと寝るだけなんだもの。
わたくしがプレイヤーだと『なぜそれだけで済ますのか! いや、もしかしたらこの暗転の間に実はいろいろなことが起こって……』と妄想するだけの、美味しくもガッカリ(?)なイベントなのよ。
ベッドの横でストールを外すと、レトがポールスタンドを指して、そこに掛けるといいよと言ってくれたのでご厚意に甘えることにした。
これを外せばロングワンピース……まあ平たく言うと部屋着なのだが、これで寝ることになるかな。
レトはといえば、ネイビーブルーのパジャマを着ている。ゆったりした服装なので、多分寝間着だと思う。でも、何を着ててもかっこいいわね。
「レトはもう寝るだけの格好という事かしら。そういえば、あなたのルームウェアはそんなに見たことがありませんわ」
「風呂に入ったら、寝間着に着替えるだけだから……そんな部屋着という大層なものでもないよ」
つまり、レトにとって洋服は寝間着か平素着るものというくくりしかないのか。
それでいいといえばいいけれども……気兼ねなくゴロゴロ出来る服というものもあると便利よ。
「それじゃ……お邪魔しますわね」
「どうぞ」
ベッドの上に手をついて、膝を乗せる。
スプリングが軽く軋むような音を立てつつ、ふかふかのベッドに乗っかると、レトも反対側の縁から掛け布団を捲って、するりと慣れた様子で潜り込んだ。
おずおずとわたくしも布団の中に入り込むと、当たり前なのだが……間近にレトの顔があった。
ベッドが狭いわけじゃない。二人で寝ても広さに多少の余裕はある。
レトはベッドサイドの光量を弱め、薄暗い状態にすると再びわたくしに向き直った。彼は暗闇でも眼が見えるのだろうから、こうして光を与えてくれているのは、わたくしに配慮してのことかもしれない。
レトと見つめ合うと、彼はくすぐったそうに微笑む。可愛い。
「なんだか……緊張するよ」
「そうですわね……わたくしも、実は凄く……」
ぎこちなく同意すると、レトはわたくしに手を差し伸べた。
「手、繋いで話したいな」
「はい……」
大きくて温かい手のひらに手を添えると、優しく指先を握りこまれて……レトはふにゃっと子供のように笑った。
「最近、リリーが遠く感じちゃって……」
「え……っ?」
「だって、昼間はほとんど会えないし、学院にはリリーティアとしての人間関係がある。俺はリリーが帰ってきて、食事をする間くらいしか一緒にいる時間がなくなっちゃったから……分かっていても、寂しいって思ってたんだ」
もしこれが魔界と地上でのやりとりだけしか残されていないのだったら……レトは、もっと辛かったのだろうか。
「わたくしがいない半年の間……どうされていたのですか?」
「ずっとノヴァと鍛錬したり、エリクと調合したり、魔界の環境を整えようとしていたり……かな。やることは多いから忙しいけれど、食事や寝る前に、リリーのことを考えて……無性に寂しいと感じたりもしたかな」
当時のことを思い返しているのか、レトは僅かに寂しそうな表情を浮かべている。
「きみは何をしているだろう……とか、辛い目に遭っていなければ良いとか思ったけど、一番思っていたのは……」
そこでレトは一度言葉を切って、握ったままの手を自分の口元に引き寄せると、わたくしの手の甲に口づけを落とした。
「――……会いたい、だった」
「……レト……」
「もう会えないかもしれない、俺のことを好きじゃなくなっているかも……って考えたら、どんどん悪い方向に考えるように……。どうしようもなく苦しくて、何度もこっそり見に行こうと考えては思い留まって……」
連絡も来ないし、という恨みがましい言葉を苦笑いで誤魔化し、わたくしは大丈夫ですよと安心させるように告げた。
「わたくしはいつだって、あなたのことだけを……想っていますわ」
「…………」
返事がない。しかばねじゃないはずだから返事がないと困る。
暗さにすっかり慣れたわたくしの眼は、こちらをまっすぐ見つめているレトをしっかり捉えているのだけど、どうしてそんな真面目な顔をなさっているの……。
「……最近、リリーのまわりは男が多すぎると感じてるんだけど」
「そう……ですわね。アリアンヌさんとイスキア先生くらいしか女子はおりませんわ」
アトミス先生も同じ学科だからお話はするけど、わたくしは歌や踊りを伸ばそうと思っていないので、専攻学科の接点はイスキア先生のほうがずっと多い。
「そう。マクシミリアンとは信頼感もあって仲が良いし、ジャンとも元々兄妹みたいに仲良しだし。そこにイヴァン。彼もリリーがずっと好きだ」
話しているうちに怒りでもこみ上げてきたのか、レトの口調と指に力が込められる。
「だいたい、ヘリオスも最近リリーにべったりくっつくし……俺を怒らせたいのかな」
「たまに、スキンシップを取っているだけかもしれませんわ……?」
「ふーん。リリーはぎゅうぎゅう抱きしめられるのはスキンシップで許すんだ」
あ、気に入らないらしい。絡んできた。
「うーん……スキンシップにしては、大胆だなと……」
「そうだね。父上だってエリクだってリリーに抱きついて挨拶しないよね?」
多分ヘリオス王子は、レトの反応を見て楽しんでいたりするんじゃないだろうか……という仮定が浮かんだが、それを口にすると、翌朝兄弟げんかに発展されても困る。
「リリーに抱きついて良いのは……俺だけじゃないかなって……」
「ふふ、男性の中ではそうでしょうね」
笑ってそう同意すると、レトも満足そうに頷き、そっと握っていた手を外して――……。
「あ、っ……」
――わたくしの身体に手を回し、気がついたら抱きしめられていた。
「……リリー……俺は、リリーが大好きなんだ」
耳元で切なげに囁きつつ、指で髪を梳かれる。
「どうしたら、俺はリリーを抱きしめていない間、安心できるんだろう……」
「あ、の……言葉だけでは、信じていただけません?」
「信じたいけど、心がたまに空虚になるんだ……満たされない」
そう言いながら頬まですり寄せてくる。これは、いろいろとまずいのでは?
わたくしはドキドキしすぎて、レトの話を冷静に聞けているか分からない。
レトが何かを望んでいるのは分かるけど、その何かが、今知ってはいけないような、そんな危険な香りがするのだ。
彼はわたくしの頬に手を置き、自分の方へ向かせると、レトもまた……熱に浮かされたような顔をしている。
「キス、したい……」
「……一回だけなら、いいですよ……」
今までレトとキスしたのは一度しかなかったけど。
レトは頷いてから、そっとわたくしの顔にかかった髪を後方に退け、そっと顔を寄せる。
「大好きだ……」
そう呟いて、唇をそっと……わたくしの唇と重ねた。
優しく重ねられた唇は、角度を変えて再びわたくしに押しつけられる。
「んっ……」
先程よりも深く、唇というより口を吸われているようにキスをされて、頭の芯が痺れるような心地に、声が漏れる。
重なった唇は名残惜しそうに離された後、再びレトからきつく抱きしめられると……自分の耳に触れた彼の頬……いや、顔だけじゃなくて、身体も熱い事に気づかされる。
なんというか、身体から放射される熱が、こちらに伝わってくるというか……ものすごく、恥ずかしがっているっぽいのだ。
「……レト、だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない……そんなわけないでしょ……」
わたくしだってとっても嬉しいけど、とっても恥ずかしいのよ。
それなのに、レトは隠すことなくこんなに照れてしまっていて、可愛いが過ぎる。
「……俺、変なのかな……やっと、リリーと普通にキスできてすごく、嬉しい。それなのに……」
「……のに?」
何かそれで嫌なことでもあったのだろうか。
レトは変なんだと言ってそれ以上教えてくれない。
「そこまで言って黙っていると、かえって気になるのですが……」
「ドキドキしすぎて……頭と心と身体の統率が取れなくて、全部ばらばらなんだ。察して欲しい」
……それって、つまり……レトは興奮してしまわれたのでは……。
「リリー。もっと、した――……」「だめですわ。それ以上はよくありません」
レトの懇願を必死で止める。
彼は悲しそうに数度瞬きした後、だめ? ともう一度聞くのだが、わたくしは頑なに首を横に振った。
「……じゃあ、このまましばらく抱きしめさせて……?」
「それくらいなら……」
構いません、と続けようとした矢先……わたくしは瞬きの間に……慣れ親しんだ魔界の自室に戻されていた。
「あら?」
わたくしは自分のベッドに横になっているが、隣にレトはいない。
はて、転移でも使用していたのだろうか……そう思って首を傾げていると、胸元のペンダントが『リリちゃん』と話しかけてきた。
「あら、魔王様……?」
『――レトゥハルトがあのままじゃリリちゃんに襲いかかっちゃうから、今日のところは部屋に戻しておいてあげたよ』
「……なんでまた見ていらっしゃったんですの?! 魔王様とはいえ、そういう……プライベートを覗き見してはいけませんわよ!」
『違うよ。そのペンダントがあると、リリちゃんが身の危険を感じたときにレトゥハルトやぼくにも分かるんだよ』
身の危険。ある意味そういう状態だったかもしれない……けど、レトと添い寝することになったら、ペンダントは外しておこう。魔王様に知られるのは恥ずかしいし、いい勉強になった。
『うーん。レトゥハルトやヘリオスに、異性とのふれあいには理性がどうにも保てないことがあるって教えておかないといけないかなあ』
「……はあ……そうかもしれませんわね」
そんなこと相談されても困るんですけど。ドキドキが急激にしぼんで、わたくしの心は今湖面のように穏やかどころか、薄氷が張っている状態だわ。
『今回はレトゥハルトも困惑していたし、リリちゃんにとって望まないような悲しいことがあってはかわいそうだから助けてあげたけど、次はもう助けないから……ちゃんと覚悟決めておいてね!』
「……ご忠告痛み入ります」
それじゃあおやすみ! と、どこか明るい口調で魔王様は通信を終えた。
どこまで本気なのかは分からないけど、もしかしたら魔王様もベッドの上で頭を抱えていたかもしれない。
「……でもまあ、これで互いに安心して眠ることが出来ますわね……」
そう呟いたところで、わたくしは小さくあくびをし……ベッドにぽすっと横になった。
そのまま、自分の唇に指を添え……さっきの出来事を思い浮かべていると、また心臓がドキドキと早くなる。
「……レトが、キスしたいと思う相手も……わたくしだけだと、嬉しいわ」
出来ることなら、彼が好きだと思った相手も一生、わたくしだけがいい――。
そう考えると急に恥ずかしくなって、顔を枕に埋めて足をばたつかせてしまう。
裾がまくれあがって太ももまであらわになってしまったが、自分しかいないからもう気にしない。
「ううう……! つい乙女してしまいましたわ……! 乙女ではあるので構わないですけど!」
人をこんなに乱してしまう魔界の王子様はとても悪い男だ。
でも、彼にとっては同じくらい、もしかするとそれ以上に……わたくしは悪い女として想われているかもしれない。
ちょっとだけ、添い寝出来なかったことを残念に思いながら……わたくしはベッドに潜り込む。
次、またこういうときがあったら『そういうこと』も覚悟するとか、いっそお断りした方が良いのかしら。でも添い寝はしてみたい――……などと考えているうちに、いつの間にか眠ってしまったけれど。
翌日、妙に元気のないレトと平然としているわたくしを見比べて、ヘリオス王子は何かを察し……あるいは、魔王様から情操教育的なものを受けたのかもしれない。
「――……おこちゃまには無理だったようだね」
と非情なる一撃を兄に見舞い、ノヴァさんが止めるまで二人はぎゃんぎゃん言い争いを始めたのだった……。