――……お姉様が誘拐された日……遅れて戻ってきたジャンさん(と私)だけど、ジャンさんは何食わぬ顔で『主人は早退する』と先生に告げ、そのまま帰って行った。
お姉様の体調が悪いのか、用事があるから早退なのかを気にする生徒は少しばかりいたけれど、騒ぎになることもなく、クラス全体で見れば何事もなく授業を終え……ようとしたとき、遠くから花火の音みたいな炸裂音が響いた。
私たちの教室からでは確認できなかったが、廊下からざわめきが次第に聞こえ始める。
どうしたのだろうと思っていると、別クラスの先生達が慌ただしく入れ替わりにやってきて、フェーブル先生と『寮が』とか『また爆発して』とやりとりしているのが聞き取れた。
またイヴァン会長の部屋から爆発があったのだというのは分かっても、お姉様がそこにいるかまでは分からないし……ジャンさんが言っていた『レトが待っている』という内容も気になる。
お姉様とレトさんは、今一緒にいるの? それとも、ただの……イヴァン会長を動揺させるための、嘘の言葉だったの?
もしお姉様が本当にレトさんと一緒にいるのだとしたら……そう思いながら、私より前方の席に座っているクリフォードさまの様子を盗み見る。
授業中も、しきりと首のあたり……ジャンさんが鞘に入ったままの剣を押し当てた部分をさすり、苛立たしげに拳を握ってみたり、ため息を吐いていたりする。
クリフォードさまに落ち着きがないのは、お姉様を少しばかり心配してくれているから……なのか、ジャンさんの剣が速くて全く追いつかなかったから悔しいのか、私が想定してないもっと別の感情のせいなのかは分からない。
あれほど怒っていたジャンさんが、どういう手段を使ってレトさんと会話をしていたか……そして、双方の間でどんな話があったかは、私にはわからない。
ただ、あのままでは誰か――ジャンさんかイヴァン会長か、はたまた私ということもあるけど――が死んでいた可能性がある。あれからすぐイヴァン会長はレトさんとお姉様の居る場所に向かって行った……ということになるのかしら。
何はともあれ、ジャンさんはイヴァン会長との一触即発な場を解除し、私を連れて教室に戻っていった。
「明日には何事もない」
廊下を二人で歩いていると、ジャンさんが私にそんなことを教えてくれた。
「え?」
意味がわからなかったので聞き返すと、再びジャンさんは同じ事を呟き、イヴァンの事は忘れて構わない、そう言った。
「……何か、するんですか」
「さあな。あんたにゃ関係のねぇ事だ」
「……お姉様には、関係ありますよね」
「あんたはあいつじゃねぇだろ。そんな心配より……明日からまた顔を合わせたとき、あいつがあんたをどう判断するか、そっちを気にした方がいいと思うぜ」
静かに、そして冷ややかに指摘するジャンさん。私は再び事実を突きつけられ、言葉に詰まる。
「――そうですね……」
◆◆◆
「あら。アリアンヌさん、おはようございます」
また私は、お姉様を……傷つけてしまった……そう思っていたのに、翌朝の食堂で顔を合わせたとき、至極あっさりとお姉様は私にそう挨拶をしてくれた。
隣にはいつも通りジャンさんがいて、チラと私に視線を向けた後は、なんでもなかったかのように食事を再開している。
護衛さんが学院に入るため、許可証としての役目もある赤い腕章もきちんとついていた。
昨日のイヴァン会長は、これも取り下げるみたいな事を言っていたと思ったんだけど……。
「おっ……おはよう、ございます」
「昨日は災難でしたわね。あなたのお部屋も心配ですけれど、お身体に怪我などございませんの?」
「え、私も部屋も、なんともないです……」
「それならよろしくてよ」
そうしてお姉様は私に向けて小さく微笑まれ、食堂の食事はなんだか久しぶりですの、とか言いながら優雅に食事を続けている。
そっとお姉様の対面に座り、話しかけるタイミングを図っていると……。
「……ジャンから、多少話を伺いましたわ。そんなにびくびくなさらずとも、わたくし怒ったり致しません」
お姉様がいったい何の事を言っているかくらいはわかる。
雷に打たれたかのように一際大きく身を震わせる私を見つめながらお姉様はフォークを置いて、怖かったでしょう、と眉を顰めた。
「……わたくしがあなたの立場であれば、きっと同じように悩んだでしょう。それに……アリアンヌさん、あなた資料室で何かを言いかけていましたわよね。邪魔が入りましたけれど、あなたはあなたなりに危険だと打ち明けようとなさったのではないかしら。それで十分です」
「……お、お姉様……」
あまりに寛大な処置。普段ならここで舞い上がってお姉様に抱きついてしまうところだけど……。
「お姉様は、どういう経緯――」「――いたずらにあっただけ」
私の言葉を遮るように自らのお言葉を重ね、お姉様は青く美しい瞳をゆっくり瞬かせた。
その表情には微かな哀れみというか……翳りがあり、お姉様の美しさを一層際立たせている。
「あの魔法陣は、野外に転移されるようになっていた。わたくしは学院の外に放り出されました……」
「戻ってくる前に、寮で爆発がまたあったってだけだな」
ジャンさんがそう付け足したが、爆発なんてしょっちゅう起こるはずはない。
「イヴァン会長は……以前の件もあったのに、ほとぼりの冷めぬうちに再び爆発事故を起こしましたから、厳重注意までに留めていた学院長や担任からも叱責されましたけれど……ご本人も大変反省されているらしく、体調と精神の回復を図るため……しばらくは休学し、ご自宅で療養されるそうです」
「……そう、なんですか……」
お姉様の説明は、どこまでが本当なのだろう……。
しかし、イヴァン会長が何かを仕組んでいたことは阻まれ、お姉様はこのようにご無事であることは素直に喜ばしい。
「……クリフォードさまは、やはり何も……?」
「ジャンに脅かされただけです。後で謝っておきますから、ご心配なく」
でも、それはお姉様だけが損をしてしまうじゃない。
「私にも、証言とか手伝えることがあったら……!」
「何もなくってよ。たまたま近い場所で事件が重なった。全て、関連性はないのです――それでは、失礼致しますわ。後程教室でお会いしましょう」
説明と食事を終えたお姉様たちは、まだ食べている途中の私を置いて、多分自室に戻っていく。
……私には関係のないことと言われたらその通りだし、嫌われても仕方ないことをしたと思ってる。うん、嫌われていないのは本当に、お姉様がお優しいことと、寛大であることに感謝するほかない。
でも、どんなに仲良くなりたいと思っても……お姉様と私の間には、見えなくて深い溝が四年前から依然として立ち塞がっている。
レトさんやジャンさんには越えられて、クリフォードさまや私には越えられない何か。
お姉様のことは大好きだし、レトさんとの仲は応援している。
でも。
当時から二人は一緒だった。何をするにも、どこへ行くにも一緒だったに違いない。
お姉様は当時失踪……表向きの理由として療養、ということにしているのはローレンシュタイン家の執事から聞いている。
レトさんは……深くお姉様と関わっている。
当時だけじゃなくて今も、まだ密接に。
お姉様が去った後の席を見つめながら、私はお姉様の生活というのを何も知らないのだと思い至る。
屋敷にいた時はマナー講習や歴史、勉強ばかり押し込まれていたけど、それはお姉様が望んだことじゃない。クリフォードさまの婚約者だからという体裁と、学院に入学するためもあってのこと。
当時も、今も。私には知らないことだらけ。
お姉様は普段、どんな事をなさっているのですか……?