【成り代わり令嬢は全力で婚約破棄したい/53話】


――まだ、私の手は震えていた。


 ううん、手だけじゃない。震えは全身に行き渡り、扉の向こうではクリフォードさまがお姉様の名を呼ぶ切羽詰まった声が聞こえ続けている。


 そして、ジャンさんは何度も、扉を蹴り続けた。

 その表情には怒りと、珍しく焦りが浮かんでいる。


「ジャンニさん! もうそれ以上やっては、ドアが」

「鍵がここについてるのに、何の機能も果たさねぇんだから壊すしかねぇだろうが!」


 アルベルトさんが止めたけど、ジャンさんは止めない。

 あんたの主人をドアの前から退くように言えともいわれている。


 それはそうだろう。私がジャンさんでも、こうなっていたと思う。もしかするともっと……取り乱しているかもしれなかった。

……あともう数回蹴り飛ばせば、扉の蝶番も壊れそう――というところ(ドアを斬って開けようとしたけれど、クリフォードさまが扉の前にいる気配だから斬れなかった)で、あっけなく扉が開いたので……ドアを蹴りつけようとしていた足が止まった。


 ピタッと止まって良かった。そうじゃなかったら、クリフォードさまはジャンさんの渾身の力を込めた蹴りで腹部を打ち抜かれたことだろう……。


 ジャンさんが格闘家ではなく剣士で良かったって一瞬思ったけど、私たちより鍛えている人なんだから、格闘家でも剣士でも、そのあたりはさほど変わらないかもしれない。


 同じようなことを考えていたらしく、アルベルトさんも心なしほっとした顔をされた。

「開きましたね……クリフォード殿下、リリーティア様もご無事ですか? ……リリーティア様?」


 唯一と言って良いほど落ち着いているのは、イヴァン会長だった。その表情は極めて平然としており、慌てた様子もない。

 これを計画した人なんだから当たり前だ。確証はないけど、ドアが開かないのも……この人がどうにか、やっていたんだ。

 そして、当初の計画通りに……お姉様は()()()()()()()()()()()

 彼にとってここまで……最低かつ最大の目的は達成した。本当だったら笑い出したくて仕方が無いはずだ。

「ああ、アリア……っ!?」


 部屋の中からクリフォードさまが飛び出してくると、ジャンさんやイヴァン会長をスルーしつつ私のほうに視線を向け、名を呼びかけたところで――、ジャンさんが柄に収めたままの剣を素早く振り、クリフォードさまの喉元に押し当てた。


 クリフォードさまもアルベルトさんも咄嗟に腰の剣を抜きかけたけど、その数倍もジャンさんの方が速かったのだ。


 剣の腕前に自信を持っていたクリフォードさまも、これには驚いている。

 それに、私たち学院生徒が帯剣しているものは、ロックがかかっていて抜けない。多分学科の時間や自室以外では、特別な許可が無ければ解除されないのだ。


「き、貴様、なにす……」「おれは王族だろうと、殺ろうと思えばそんなもんどーでもいいんだが……今回は止めといてやる……ったく、急にしゃしゃり出てきて、全部引っかき回しやがって……! こっちの読みが台無しじゃねぇか」


 苛立っているというレベルのものではない。


 ジャンさんは明らかな殺意を黒い瞳に乗せ、クリフォードさまに投げかけられている。その視線を受けたせいか、あるいは喉に食い込んだ鞘が苦しいのか、クリフォードさまは低く呻いた。


「ジャンニさん、殿下にそれ以上危害を加えるおつもりなら……」

「あんた、剣を抜かなかったのは正解だな。王子様よりも先に死んでるところだったぜ」


 さすが近衛、と言って鼻で笑うジャンさんだったが……アルベルトさんは悔しげに震え、唇を噛む。


 多分……抜か()()()()のではなくて、抜()()()()()のだ。


 カルカテルラと相対した者は死ぬそうだ。

 私も、お姉様とアルベルトさんの話は聞いていた。


 アルベルトさんが本気でカルカテルラという剣士の逸話を信じているかは分からないが、少なくともためらいがあったのは事実なのだと思う。


 多分、ジャンさんは……それを分かっていて指摘しているのだ。性格がとてつもなく悪い。

「――……クリフォード殿下……リリーティア様が……、なぜリリーティア様はここにいらっしゃらないのです……?」

「そ、そうだ。急にリリーティアがいなくなって……! 急に消えたんだ!」


 アルベルトさん達のことなど完璧に眼中にない様子で、心配そうな声を発したイヴァン会長。


 小さく頷き、クリフォードさまは突然光に包まれて消えたのだと自分が見た状況を話す。


「あんたがここに居ても、クソの役にも立たねえんだよ。予鈴はとっくに鳴ってるぜ。大人しく未来の英雄にでもなるための勉強でもするこったな」


 ジャンさんは辛辣な言葉を吐きながらクリフォードさまから剣を離すと、教室に帰んな、とクリフォードさまの背を押し……臑まで蹴りつけた。

 あの、普通王子様にそんなことをしたら、ただじゃすまされないんですけど……。

 よろめきつつ、しかし、と口ごもりながら……クリフォードさまの口から出た言葉は……。


「じゃあアリアンヌも……」

 アルベルトさんでもなく、お姉様のことでもなく……私のことを呼んだのだった。

 そこで、ジャンさんの顔から表情がストンと消え……次の瞬間、なぜか噴き出し、おかしそうに笑った。


「――……くっ、はは……ッ。さすがだな王子様。こんな時でも婚約者よりそっちのガキと一緒にいるほうが大事たぁ、いったいどれだけ頭がお花畑なんだよ?」

「なんだと……!?」


 頭がお花畑と揶揄され、当然のごとくクリフォードさまが不快感に声を荒らげたところで……ジャンさんは『いい加減にしとけよ』と、視線だけで人を殺せそうな眼光を宿し、低く響くような声で告げた。


「あんたが勝手に何やら動かしたせいで、こっちは主人がどっか行っちまったんだぞ。その一連の行動について、あんた自身は何も関係ないし、感じてねぇって事なんだろ? これ以上まだ面白い事をしてくれるってんなら――……次は問答無用でたたっ斬るからな。そっちの護衛と一緒に、おれの気が変わらねぇうちに視界から消えろ」


 とんでもない威圧感が私の肌に刺さる。不用意に動いたら、即斬りつけられそうなほどに怒っている……と言ってもいい。


 私でさえこんなに恐ろしいものを感じるのだから、恐らくこの何倍も、クリフォードさまは殺意や何やらという圧を受けているのだろう。


「クリフォードさま、私は、大丈夫なので……どうぞ授業に。ちゃんと戻ります、から……ね?」

「……しかし……っ」


 クリフォードさまはそれでも私に何かを言いかけたが、ジャンさんの圧が気になるのだろう。逡巡し、そのまま何も言わずに去って行く。


「……担任には、こちらから事情をお話ししておきます」


 アルベルトさんは、様々な感情が込められた目でジャンさんを見つめ……頭を下げてから、クリフォードさまの後をついていった。

 ここに残されたのは、私と、ジャンさんと……イヴァン会長だけ。

「……最高だな、この国の王子ってのは。将来、フォールズはとてもいい国になるだろうよ」


 曲がり角から消えたクリフォードさまへの皮肉を口にし、あんたはあんなののどこがいいんだか、とも続けた。


 ただ、そう口にしたからといって……私に聞いたわけじゃない。ジャンさんは自分の苛立ちを紛らわせるために呟いた言葉だと思う。


 ジャンさんの目は仄暗い光を宿しつつ……私とイヴァン会長の姿を視界に収めることが出来る位置に移動した。


「本人に言えばつけあがるから言った事もねぇが……うちの主人(リリー)だって、そこそこいい女だと思うが、あんたはどう思う?」

「わたしがどう思っているか、今更告げる必要があるとは思えませんが?」

「それもそうだよな」


 危険で、狙った獲物は逃がさないというような剣呑なまなざしと、些細な反応も見逃さないように研ぎ澄まされた精神。普段お姉様の隣で退屈かつ眠そうにしているジャンさんだったが、こっち側の顔が本当の姿、なのか……。


「あの王子様が来るのは想定外として――……全部あんたが仕組んだな?」

「仕組んだ、とは? 仰る意味がよく分からないのですが?」


 確証でも掴んでいそうなジャンさんの言葉をものともせず、イヴァン会長は柔らかに微笑み、やれやれと肩をすくめる。


「わたしに難癖を付けている場合ではありませんよ。まずは協力して、そこに居たはずのリリーティア様を探すのが先なのではないでしょうか。きっと心細い思いをされているはずです」


 心配そうな表情と声音で、何の形跡も残っていない部屋の中を肩越しに窺うイヴァン会長。


 資料室の内部は、書類の一枚すら床に散っておらず、私たちが入る前と全く同じままに積まれている。事の前後で、お姉様がどこかに消え、ちょっと逆『く』の字になりかけているドアがあるだけ。それ以外に何も変わったところがない。


 そうだ。お姉様は、どこにいるの。


 全部知っているのはイヴァン会長なのに。探すことが出来ないと分かっている場所に、お姉様を……?


 すると、ジャンさんはああ、と、興味がなさそうな態度で……。


「――探す必要はねぇな。明日には普通に登校できるから早退になるのか、これは」


 ともはっきり告げた。


 え? と、私もイヴァン会長も同じように思ったはずだ。

 実際、虚を突かれたような顔を私もイヴァン会長もしていたと思う。


 しかし、ジャンさんは私の方につかつか歩いてくると、腕を掴んで無理矢理立たせ――……たと思ったら、急に視界がブレて、次いでがつん、と衝撃が走った。


「えっ、痛……な、に?」


 速すぎてよく分からなかったけど、私はジャンさんに頭を掴まれて、廊下の白い壁に押しつけられている。

「――で? あんた、何を言われて奴に協力した?」


 それ以上、ジャンさんは言葉を続けない。

 でも、その態度で充分理解できるくらい……彼は私の関与を掴んでいる様子だった。


「女性へ手を上げるなど、なんて野蛮な……、恥ずかしいと思わないのですか?」

「残念だが、おれは女だろうと優しくしねぇんだよ。何をするにも女の方がしたたかだ。気分次第でどう転ぶかなんざ……分かったもんじゃないぜ」


 イヴァン会長の非難をせせら笑うジャンさん。今の言葉で、私は観念して目を閉じた。


――……この人は、私の葛藤を見抜いていた。


 協力する気なんて、最初はなかった。

 最後にイヴァン会長の顔を見て踏みとどまったけど、私は……もしイヴァン会長が来なかったら……自分で鍵をかけてしまったかもしれない。


 私は踏みとどまれたのだろうか。それとも、()()――……ダメだったのか。

 クリフォードさまとお茶の約束をしただけのお姉様。

 軽い気持ちで告げたことなのに、本当になってしまったから驚いていたのも分かっている。


……ただそれだけだったら、お姉様とお茶なんて羨ましいなくらいで済んだと思う。どっちかといえば、クリフォードさまが羨ましいと思うくらいで終わったのに。


 なのに。


 クリフォードさまは、嬉しがっていたから。


 お姉様にもマクシミリアン様にも分からなかったかもしれないけど、近くで見てきた私には分かった。


 邪険にされ続けていたお姉様に誘われたことが意外だったにしても、クリフォードさまは、お姉様が戯れで僅かに微笑まれたことを……自分に媚びてきたのだと思ったのかもしれない。


 ジャンさんが指摘したように、本当に思い込み激しいし馬鹿な人だと思う。

 どうせ一緒にお茶しても、結局怒って帰ってくるかもしれないのに。


 それでも。一瞬、お姉様に心が向いてしまったクリフォードさま。

 そのとき感じたのは、強い嫉妬と不安。それが、私の心を覆っていた。


 資料室に入る前にイヴァン会長の姿を見たとき……ああ、こんなことを実行したらだめだ、ってすんでのところで感じることが出来た。そこだけは本当に良かったって、思う。


 だから扉だけ閉めて、最後の最後でイヴァン会長の計画をお姉様に暴露して、全部ぶち壊してやろうと思っていた。


 ちゃんとイヴァン会長の計画を話して、謝ろうと、思ったのに。


 鍵までは閉めようと思ってなかったのに。なのに。あの瞬間。

「クリフォード、さまが……っ、絡んでくるから……!」

「――……なるほどね。そっちか。まあ揺さぶるなら無難だな」


 そう呟いたジャンさんは、するっと私から手を離し、イヴァン会長にだけ視線を向けた。


「どうするかね……あんたをぶっ殺すのは簡単なんだが」

「リリーティア様の護衛というからどんな男かと思えば……自分では物事の分別すら出来ない、猿以下の知能の持ち主のようですね……そんな者が帯剣しているなどとは物騒極まりない。護衛許可は取り消していただかないと」


 と続けるイヴァン会長。その表情には嫌悪がありありと浮かんでいた。


 しかし、ジャンさんは突如眉をひそめ、まるでもう一度聞き返すように……こちらを見つめながら右手を耳に添えた。


「何……そりゃ、どういうことだ?」

「言葉通りですが? わたしはこれからリリーティア様を捜索します。ああ、ジャンニ・カルカテルラさん。護衛は本日付けで取り消していただきますから。通知は本日中に……」


 イヴァン会長も私も、ジャンさんが護衛の許可を取り消されることに怯んだのではないかと思った。でも、ジャンさんは右手を耳から外し、ちげえよ、とぶっきらぼうに吐き捨てた。


「――……あんたに話しかけてんじゃねえよ。まあいいか……。このまま好きにさせろ、とさ」

「……なに、を……言って……貴方は……」


 ()()話しかけていたの?


 いろいろ聞きたいことはあったが、ジャンさんはあんなに放っていた殺気すらも霧散させている。


「本当のところ、ここでぶっ殺せば後は面倒がなくて良いと思ったんだが――……殺したら余程面倒なことになると困るんで止めろとさ。今おれと話してたのは、あんたにとって……おれより邪魔な奴だ。それでだいたいわかるだろ?」


「貴方と……話していた男、というのは……!」

「ははっ、いいカオするじゃねぇか!」


 すると、イヴァン会長は…… 一瞬で端正な顔を嫉妬に歪め、ジャンさんは面白いものでも見たように笑い始めた。

「――そうさ。おれよりリリーに近くて、あんたには一番邪魔な男……レトだよ」


 ジャンさんは目を細め……喉奥で笑った。




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こめんと

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