「あー、君たちはフェーブル先生のクラスの子?」
わたくしとアリアンヌが昼食後、教室に戻ろうとしているとき――……前方から来た男性……小太りだが先生であると思しき方が、両手に書類を抱えながら声をかけてきた。
「はい……」
肯定するニュアンスと共に、怪訝そうにも緊張しているようにも聞こえるアリアンヌの返事。すると、小太り先生は、クラスに配布する書類がたくさんあるんだと苦しそうに告げる。
「ふぅ……、今さっき業者から納品があってねえ……クラス対抗戦の書類と……八月に二週間の休みが入るからねえ……ふぅ……その案内の書類とか、頼まれちゃってねえ……ふぅ。悪いんだけどさ、そこ曲がった突き当たりの資料室に行って持てる分だけでも教室に運んでくれる? フェーブル先生も見かけたら……ふぅ……言っておくからさ……」
息継ぎが『ふぅ』の先生。話の内容より気になってしまう。
「わかりました! お姉様、ここまできたらソレやっちゃいましょう!」
「よろしくねえ……ああ重い」
最後に気になる言葉を発しつつ、小太りの先生はヨロヨロと書類の束を抱えたまま自分の教室に戻っていくようだ。
「……い、いざとなったら、ジャンさんも手伝ってくれますよね」
「嫌だね。おれは護衛だから、そんな手を塞ぐようなモン持たねぇよ……何があるかわかんねぇからな」
ジャンは意地悪くそう言い、アリアンヌは表情を硬くしてジャンを凝視するように見つめ……た後、不満そうに頬をぷくっと膨らませる。
今の……一瞬驚いた顔を見せたのは何だったのだろうか。まさか断られるとは思っていなかったから、若干ショックを受けたのかもしれない。
ジャンはそこら辺自分のポリシーを曲げないし、わたくしたちも彼の嫌がることだって理解しているから、もうそういうもんだと思って諦めてちょうだいアリアンヌ。
「ジャン、意地悪を言うんじゃありませんわよ」
「意地悪だってんならおれもまだ可愛げがあると思うけど……なァ?」
「……そんな目で見られても分かりません」
ジャンの視線から逃れるように、ぷいっと顔を背けるアリアンヌ。ジャンはそれ以上何も言わなかったが――……心なし、彼の纏う気配が変わった。なんというか、緊張感を有したというか……。
確かにあの先生が告げたとおり、何人かの生徒がわたくしたちの向かう先から書類の束を持っていくので、この先に資料室と呼ばれる場所があり、書類も多くあるようだ……というのが分かる。
そしてきっと、今すれ違った彼らもあの先生にクラスに運ぶようにと言われたのかもしれない。
突き当たりを曲がったところ、すぐの場所に……『資料室』という案内プレートが扉の上に掲げられている。ここで間違いないはず――……なのだが。
「あら? これ、鍵がかかっていますわね」
扉に手をかけて引こうとしたのだが、ドアノブを回してもびくともしない。
もしかして、さっきの生徒さんが鍵を持っているのだろうか。だったら声くらいかけてほしいものだ。
「ジャン、ちょっとさっきの生徒さんに鍵をどうしたのか、確認してくださいます? 持っていたなら借りてくださいな」
「…………」
そのとき、ジャンは何かを確かめるような険しい顔でわたくしとアリアンヌを見ていた。
一度後ろを振り返ると、何かあったら呼べと言って、即座に駆け出す。
「廊下は走っちゃいけませんのよ!」
……わたくしの言葉など聞く耳を持たないというように、返事もせずに姿を消す。
まあすぐ帰ってくるだろう……と思ったのだが、アリアンヌは何事もなかったかのように鍵穴に銀色の鍵を差し込んでいるじゃないか。
「あ、あら!? アリアンヌさん、あなた、鍵……」
「――……渡され、ましたので」
「……そ、そうでしたの? 全然気がつきませんでしたわ」
あの先生が鍵を差し出す場面など目撃していなかったのだが、わたくしがそこまで気にしていなかっただけなのだろうか。
それとも――……と思案しかけていると、お姉様、と、沈んだような声がかけられる。はっと彼女を見ると、少し青ざめたまま、こちらを見つめる顔があった。
「資料、持って行かないと予鈴が……」
「そうでしたわね……ところでアリアンヌさん、あなたの顔色はまだよろしくないようですけれど、やはり具合が……」
「っ、大丈夫、大丈夫ですっ……! 私は、ほんとに……」
そう言いながらも、ドアを押さえるアリアンヌの手は小刻みに震えていた。
「……どうなさったの? どうして、そんなに悲しそうな顔をして震えて……」
何かがおかしい。そう思ったときのことだ。何やら廊下の先……わたくしたちが来た方向が騒がしい。
「貴様はリリーティアの護衛。おい、資料室はこの先だな?!」
んっ? あの尊大なクソデカボイスは……もしや……。
泣き出しそうだったアリアンヌも、今の聞き覚えがありまくりであろう声を認め、ぎょっとした顔で廊下の先を見た。
「――おお、ここか。探したぞ……ん? おお……アリアンヌもいたのか!」
「ク、クリフォードさま……?」
クリフ王子が現れ、わたくしを嫌そうな顔で見た後……向かい合っていたアリアンヌを見ると、瞬時に表情を輝かせる。この格差よ。
なんでここに、というアリアンヌ。そうなのよ。わたくしも同じ気持ちで頷いちゃうわ。
「今しがた別クラスの担任らしき男が資料室がどうだとか言っていてな。銀髪の女生徒に声をかけたのだが、多分持ちきれないだろうから手伝ってやって欲しいと……全く、僕が誰かも分かっていないなんて、この学院は教師にどういう教育をしているんだ!?」
経緯を述べている最中に怒りを覚えたのだろう。だんだん語気が強まっている。
人間としての思いやりに欠ける、わがまま放題のクリフ王子が他機関の教育がどうとか言える立場なのだろうか……と思ったが、それを口にすると烈火のごとく怒り出すのは目に見えていたし、どうせなら手伝わせよう。一応そのつもりで来たようだし。
「ったく、最悪のタイミングで邪魔が……」
「最悪というのは誰のことでしょうか?」
「どれもこれもだ」
しかし……その後方から現れたのが、ジャンと……なんと、イヴァン会長である。
これは波乱の予感しかしない。
「あら? イヴァン会長」
「……おや、こんにちはリリーティア様。貴女も資料を……?」
奇遇ですねとにこやかな微笑みを浮かべつつ、一歩前に踏み出そうとした会長の前にジャンがすっと立ち塞がる。そして、会長の顔から笑みが消え……二人は一触即発といった感で睨み合った。
「……退いてくださいませんか?」
「悪いが、もうちょっとおれと一緒に待っててくれ」
「お断りします。もうすぐ授業が始まってしまいますので」
「そんな細腕で、しかも一人。あんたにどれだけ書類が持てることやら。病弱だと分かってるくせに一体何しに来たんだよ?」
ジャンは人を馬鹿にしたような顔をしているが、イヴァン会長はいらだたしそうにジャンを睥睨していた。からかわれて嬉しい奴などいないだろうし……あそこだけ空気が険悪すぎて歪んで見えるよ……。
「お、お姉様、早く、こちらに」
アリアンヌがわたくしの手を引き、資料の山を指す。わたくしは頷いて、一歩踏み出し資料の山を確認し……たところで、ごめんなさい、とアリアンヌが小声で告げた。
「ジャンさんと話してる今なら大丈夫かも……あの、実はですね。イヴァン会長は――……」「ああ、すまないアリアンヌ。ちょっとリリーティアと話す時間をくれ」
アリアンヌが涙混じりに、イヴァン会長に関する何かを告げたいようだったが……空気読みスキルゼロのクリフ王子が間に割り込み、アリアンヌの肩に手を置くと彼女を部屋から追い出そうとする。
「え。あの、えっ? 私まだお姉様にお話……」
「安心してくれ。すぐ話を終える」
そうしてアリアンヌの背を押して部屋の外に出し、ぴしゃりと戸を閉めた。
「ちょっと、クリフォードさま!? 開けてください! だめ!」
どんどんと扉を叩きながら、ドアノブをガチャガチャ回しているアリアンヌ。
そりゃそうだ。何を考えたのか、クリフ王子は急にわたくしと二人きりで話をしたいとか言い出した。アリアンヌも心配でたまらないだろう。
んで、そのクリフ王子は話があると言っていたけど、そんなの後でお茶するときで良くない?
授業始まっちゃうって言ってんのに。ああ、二人きりは嫌なので早くしていただきたい――と思った瞬間、なんとクリフ王子は内側からガチャリと鍵をかけやがった。
「ちょっ……、な、なぜ鍵なんかかけたんですの!? 何をなさるおつもりなの!」
「勘違いするな! アリアンヌが話を終える前に入ってくるかもしれないだろうが! いいかリリーティア、先に貴様に言っておきたい。今日のことだが……んっ?」
わたくしに指を突き付け、何事かを言おうとしたクリフ王子は……怪訝そうな顔をし、わたくしの立っている床の周辺を指した。
「リリーティア? なんだ、そこは?」
「……えっ!?」
見れば、わたくしの立っている部分が光っている。
――……これは……小規模の転移陣、か。
これは、いけない。
抜け出ようとしたが……足が固まったように動けない。
ちょっと、どうなって……急いで魔法陣に視線を走らせ――……ああ、ここだ。
陣に組み込まれている文字列に、発動したら対象を固定する、つまり抜け出せないように指定する文字が含まれている。
こういう文字って荷物運ぶときによく使ってるってレトが言っていたけど、こういう強制的に転移させる場合にも使えるって訳ね。
「――ジャン!! 大変ですわ! どこかに転移させられる!」
「――あんたはどいてろ!」
「きゃ……!」
「アリアンヌ?! おい貴様、アリアンヌに何を……!」
ドア越しで苛立ったような声が聞こえた。
多分ドアに張り付いてるアリアンヌを退かしたんだろう――……とは思うのだが、クリフ王子がアリアンヌに乱暴をしたと勘違いしたのだろう。すぐに反応し、急いで外に出ようとする。
「……くっ、なんだ? 扉が開かないぞ」
「鍵閉めたのはあなたでしょう!?」
「鍵は外した! なのに……開かないんだ! おい、そっちから開けろ!」
扉を叩いきつつ、クソデカボイスで向こう側のジャンや会長に訴えたようだが、ジャンが『王子様がそこ退かなけりゃ、ドア斬れねえだろうが!』とキレられていた。
「公共の施設だぞ!? 斬るなんて――」「ゴチャゴチャうるせえ! 時間ねぇんだから早く退けよ。このままあんたごと斬るぞ!」
うわぁ、なんなんだよ、この使えない王子様は!! わたくしの心情的にはそのまま斬っちゃっていいんじゃないかなーって一瞬思っちゃったけど、やっぱりそれはまずいよ。
――……あ、まずい。この引っ張られる感じ。どっか連れて行かれてしまう。
「ジャン、もう間に合いませんわ! 後は、お願いします……!」
「おい、リリーティア……どうしたんだ! 具合が悪いのか?」
ジャンに語りかけたのに、クリフ王子がなぜか返事した。違うよ、あんたじゃないよぉおお!!
ドアからあちら側からガンガン蹴られているらしい激しい音がしたものの、破られることもなく、わたくしの意識はこの場から急速に遠ざかっていく。
「リリーティア……! おい! 貴様一体なにが――……うわっ!?」
クリフ王子はわたくしに手を伸ばしかけたが、魔法の壁に阻まれて触れることが出来なかったらしい。ばちん、というはじかれたような音が聞こえる。
最後に聞いたのがクリフ王子の声であり、その表情は存外に必死だった(というわりと嫌な)ものを見つめながら……わたくしの意識も、肉体も――……その場から消えた。