「…………」
私を見る目がなんだか怖い。とてもじゃないけど、初対面の人に見せる顔じゃない。孤児院で悪いことをして、先生から叱られたときよりずっと怖い。
「あ、のぉ……初めまして、ですよね? 私」「アリアンヌ・ローレンシュタイン。元の名前はメルヴィ。ラズールの孤児院出身だが、現在は養女として伯爵家に迎え入れられた……ですね」
さらっと私の素性を述べるイヴァン会長は、お間違えありませんね、的に念押しする。私は思わず頷いたが……。
こ、こわーーー!! なんなの急に! なんで言い当ててるの!? 調べたの?!
「ええと、隠してはいないんですけど、どーして、それを知っているか……聞いて良いですかぁ?」
「リリーティア様の周囲にいる人物を、ある程度調べ上げました。クリフォード殿下も、アラストル公爵子息も、貴女も、あのジャンニという男も……錬金術師も……ッ!」
私のこと以外聞いてないのに、だんだんイヴァン会長の語気に怒りが募っていくようだった。そして、何を思ったのか、彼はテーブルを拳で叩いた。
どん、という音がして、傾いたカップからお茶が飛び出すように溢れ、ソーサーやテーブルに広がる。後で拭かないと。
「……そして、貴女のお姉さんと一時期懇意にしていた男がいたことも知りました……!」
そう話すイヴァン会長には、既に私なんて見えていないかもしれない。それくらい……綺麗だった目には、なんだかとっても、黒くて黒くて危ない闇が宿っていた。
こわーーー!! 懇意にしてた男って、絶対レトさんのことでしょ?!
お姉様、あなたという罪深い泥沼製造人たらし美女は、とんでもない人を呼んだようですよ!
「あ、あのぉ……。お姉様と、その情報って何か、カンケーあったりします……?」
「大ありです!! ラズールにいた貴女もその男達と会ってるでしょうがッ!」
「はひっ!? すみません!」
あまりの恐ろしさに思わず怯んでしまった。そういうことまで調べてるんだ……いやだなあ、この人の執念怖いなあ。マクシミリアン様の使いの人より調べ方が優秀だし。
「……そこで、貴女に詳細を伺いたく思いましてね……?」
ちょうど好機だったと言わんばかりに、イヴァン会長はにっこりと微笑んで顔の前に手を組んで、そこに顎を乗せる。
ニコニコ微笑んでいるが、目がらんらんと輝いていて……すっごく、すっごく怖い。蛇から逃げられないカエルみたいになっちゃったよ……。
「わ、私にですか……何かあるんですかねぇ……」
「……リリーティア様は、その男とどういう関係ですか? そいつはどこに住んでいるのでしょう?」
「そ、そいつ? えーと、どの人なんでしょ……」
「…………赤毛の男です。途中で毛を染めたのか、焦げ茶の髪になったようですが」
そういえばレトさん、赤かったのに途中で髪の色染めてたんだったっけ。
なんとか誤魔化してあげたいけど、どこまで通用するかな……。
「確かに、私がローレンシュタイン家に養女になる前までは……たまに一緒にいるのを見かけた程度なんですけど……あの人の家とかは分かりません……本当に」
「ラズールに住んでいないのは調べ上げたので分かります。ディルスターにも、アーチガーデンにも居ません。周辺地域に範囲を広げて人相書きを見せても、近所に住んでいるなんて人物に一人も出会わないのは――……おかしいと思いませんか?」
その少年は穴蔵にでも住んでいるのでしょうか、とブツブツ言うので思わず笑ってしまったが、何がおかしいと言いたげな視線に刺され、私は笑うのをピタリと止めるほかなかった。
「その少年は、リリーティア様の何ですか?」
「……お友達ではないでしょうか……」
「友達? ほう、貴女からはそう見えていたのですね。ラズールの孤児院や店舗の主達からは、互いを慈しみ合い、まるで恋人のようだったと聞いておりますが……」
もう! ラズールの皆さん正直すぎだから!! 先生達もなんでよけーなコト喋っちゃうの!! お金でも貰ったの!?
極力顔に出さずに、そうなんですかーと笑っていると、またテーブルに拳が振り下ろされた。音も大きかったし、周囲に誰も居なくて良かった。
でも……お姉様、クリフォードさまぁ……この人見た目に反してものすごく短気だし怖いよぉ……。
「……手紙の類もいずこからもなく、寮の管理記録にも尋ね人もない。大聖堂には熱心に通っていたようですが、人相書きの男はどの日にも来ていない。今現在、リリーティア様は間違いなく……その男と会っていないはずです」
ヒィッ……お姉様、あなた、学院生徒の最高権力にストーカーされていますよ……あのご様子だと、既に何か嫌なことがおありになったようですね……分かります……クセと執念が強すぎます……。
「リリーティア様と、ジャンニというあの男に……魔法の心得は?」
「お姉様に戦闘や魔法の経験は何もないはずですけど……ジャンさんも剣士だし……」
お姉様は弓を以前たしなんでおられたけれど、今その腕前はわからない。
それに、弓術も隠しておいて欲しいって言っていたし。
「ふむ……昨日夕食後にお戻りになったセレスティオ様が払ったわけではない……なら、誰が……少なくとも二度払われている……。一度目は強制的かつ、念を通した瞬間に発動するようになっていた……二度目は綺麗に根っこを……」
「……あの、よく分からないです」
「ああ失礼。分からなくて結構です」
何言ってるか分からないけど、良くないことだってコトは……なんとなくわかっちゃうんだなあ。
「イヴァンさまは……お姉様を、その……?」
「……美しい宝石は、お好きですか?」
「……はい?」
「……あの方は美しい。そんな宝石を、ずっと間近で愛でていたいと思うのは変でしょうか」
「変じゃ……ないし、ちょっと分かるような気もしますけど……」
むしろ私もそれは同意したい。ていうかね、その時間をさっき無理矢理奪ったのはイヴァン会長なんですよ。私怒っても良いんじゃないでしょうか。
すると、イヴァン会長はフッと笑った。ちょっと心に邪念がある人の……そう、ラズールにもたまにいた、悪い大人の笑い方だ。
そういう大人には充分気をつけるように言われていたから、分かる。
「――あの方が泣いても笑っても、わたしに憎悪という唯一のものを向けても……大変美しいものであるとは思いませんか? それを屈服させ、抵抗を奪って味わうのを想像するだけで、気分も高揚しないでしょうか」
「――……」
その言葉に、私の思考が一瞬飛んだ。
この人が何を考えているのかが判って、嫌悪感と恐ろしさ、そして――……吐き気すら覚えた。
「お姉様に、なにを……するつもりですか……?」
「……アリアンヌさん。貴女がわたしに、どんな感情を抱いているかくらいはだいたい想像できます。その上で、わたしと取り引きしていただけませんか。せっかくここまでお話ししたのですから、ね?」
この人と喋るのも恐ろしい。
私は強く握った手を太ももの上に置いて、心に染みこんでくる恐怖に耐える。
「取り引きなんて――……」
「――……クリフォード殿下は、貴女のお姉さんの婚約者ですよ。貴女のものではないはずだ」
ぴしゃりと言い放たれる。
マクシミリアン様もそう言って今後二人での行動は慎むように……とは注意したけど、この人が言うのはまた違う。そういうことじゃない。
「ですが、幸いに……彼の気持ちはあの方に微塵も向いていない。昨日見て分かりましたよ。もっとも……アラストル様は、二人の仲をどうにかしたいとお考えのようですね」
それも分かっている。分かっていることをわざわざ指摘されるのも居心地悪いことだけど、改めて事実確認までして、この人は何を持ち出そうっていうの?
「――……このままだと、彼女と殿下はご成婚。貴女のささやかな恋心は、潰れるためにあるんでしょうか」
「……そんなこと……イヴァンさまには関係のないことです!」
「フフ……ありますよ。あの方が他の誰かのものになるなんて、そんなのは困りますからね」
そうしてうっとりと、お姉様が使っていらっしゃったカップに指を滑らせた。
うっすらと残る桜色のリップを指で拭い、熱っぽい息を吐いている。
そのうちカップとか舐めそうで怖い。
すると、イヴァン会長は胸のポケットから簡素な銀色の鍵を取り出す。
「……?」
「――……三日後、リリーティア様と貴女はお二人で……二階の突き当たりにある資料室に来てください。先生から、資料を取りに行くよう命じていただきます。普段資料室は鍵がかかっていますので、その鍵を使って開錠し、リリーティア様に気取られぬよう、内側から鍵をもう一度閉める……それで発動します。一緒に行って、扉を閉める。貴女にたったそれだけを望んだだけです」
それをしてくれるだけで私の恋を全面的に協力するし、その後、何を聞かれても『何があったかは分からない』とだけ言えば良いのだ……と、彼は言う。
「皆さんはそれ以後、リリーティア・ローレンシュタインと二度とお会いすることはありませんが……わたしがその分愛でさせていただきますとも」
うっとりと恍惚の表情を浮かべるイヴァン会長。
その表情はとっても綺麗なのだけど……その心が邪悪に満ちたものではなく、私が何も知らなかったら、きっと見惚れてしまっていただろう。
「そんな……そんなこと、ジャンさんが絶対……」
「ああ。彼は任せてください。足止めくらい簡単です。ちょっと近くに姿を見せれば良いだけです。邪魔ですしね、早く手は打っておきたいんです。なんだったら事故が起こることもありますしね」
「…………」
彼の目が怪しく光る。ただならぬざわめきを感じた。
お姉様を手に入れるためだけに、人を手にかけることも厭わないというのだろうか。そんな恐ろしい男の人に、私はなにをどうすれば……。
「誰かに相談しようなどと……やめておいた方が良いですよ。誰がそんな話を信じます? それに、話せば……貴女も無事には済まさない。殿下もどうなることやら」
そう言われた瞬間、身体にぞくりとした何か……冷たくて怖いものが巻き付いたような気がした。
「っ……!?」
立ち上がって全身を見渡しても、何もない。魔法学科のかただから、魔法を使用した……とか?
「な、何したんですか?」
「さあ。何のことでしょうか」
とにかく、よろしくお願いしますねと言ってイヴァン会長は立ち上がった。
「鍵、ちゃんと持ってくださいね。なんでしたら、後で届けますよ……あなたのポケットの中に」
にたり、という表現がぴったりの笑みをこちらに寄越し……たところで、もう一緒にいたくなかった。
予鈴が鳴ったのを期に、私はその場から返事もせず走り去った――……が、彼は微動だにせず、私に視線を送るでもなく佇んでいた。
教室に戻ってくると、お姉様はクリフォードさまに何やらまた詰め寄られていて、クラスの皆さんもまたか、という顔をしている。
「――……アリアンヌ!」
入り口でそれを見ていた私にいち早く気づいたのはクリフォードさまであり、お姉様を放置し、こちらに駆け寄ってきた。
「大丈夫だったか? リリーティアにいじめられたのかと思っていた……」
「もう。お姉様はそんなことする人じゃありませんっ」
心配しすぎですよと言って笑い飛ばしたが、お姉様も不安そうに私を見つめている。
「もう。お姉様も文句言っちゃって構わないですよ?」
「大丈夫でしたの? 予鈴も鳴ったのに戻ってこないからやっぱり何かあったのかと……今から様子を見に行くつもりで……」
お姉様が言っているのは、イヴァン会長のことだというのはすぐに分かった。
ジャンさんも、私の様子を窺うようにこちらを眺めている。
「やっぱり、だと?! リリーティア、貴様何かアリアンヌに……!」
「何もしておりませんわ」
……状況を掴めてないのは、その場に居なかったクリフォードさまだけ。いつものことだ。
「平気です。お弁当、少し残ったので一緒に食べていただけですよ」
「……本当に?」
「ほんとです!」
うふふと笑ったところで、ようやくお姉様は安堵したように表情を和らげた。
ジャンさんは私を観察するように眺めた後、不意に視線をセレスティオさんに向けた。
「……あんた、司祭様なんだろ」
「ええ。任命されましたので」
突然話しかけられても不思議そうな顔をせず、にっこり微笑むセレスティオさん。私はもう安心だと思って、自分の席に座ると、ポケットに違和感を覚えて手を突っ込み……その手触りに、心臓がどくんと強く跳ねた。
そこに、持ってきていないはずのものがあった。
――……なんでしたら、後で届けますよ……あなたのポケットの中に。
ポケットの中に。
さっきの、鍵が入っていた。
どうしよう。いつ、一体……?
何も考えられないでいると、ジャンさんとセレスティオさんの会話が耳に届く。
「神様ってのは、なんでもお見通しなのか?」
「もちろんです。悔い改めれば罪も赦しますし、その御手を迷える人々に差し伸べることでしょう」
そんなやりとりを聞きながらも、私はイヴァン会長の言葉を思い出していた。
―― 一緒に行って、扉を閉める。貴女にたったそれだけを望んだだけです。
――貴女も無事には済まさない。殿下もどうなることやら。
何度も何度も、言い聞かせるようにその言葉は私の中で繰り返される。
お姉様。
あなたは以前、筆談をしたときこう書かれた。
『もし重大な物事の選択をしなければならぬ時、ご自身の思いとクリフ王子のご意見に相違があればどうでしょうか。クリフ王子に嫌われたくない一心で、そのまま彼の意見に頷いてしまうのではないかしら?』
相手はクリフォードさまではないけれど、お姉様の懸念したことは……こういうことなのでしょうか。
クリフォードさまと、お姉様。どちらかを取れ……いえ、お姉様を裏切れと、あの人は言うのだ。
お姉様の信頼を、お心をもう一度裏切れと、私に突き付けているんだ。
そんなことしたくない。なのに、クリフォードさまに何かがあっては……!
誰かに相談することも出来ない。
イヴァン会長は、関わってはいけない人だ。
レトさんだってどこにいるか分からない。たとえすぐ近くにいたとしても、一般の人に何が出来るっていうのだろう。
もはやどう転んでも、お姉様かクリフォードさまのどちらかを犠牲にするのを選ばされるという、自分の意思で降りられない最悪で最低な舞台に……私は引き出されるようだった……。