会議はその後……すぐに終わった。
なにせ、必要となる結界石はまだ残っているから作成不要だし、魔術の構築はレトが明日の夜までにやっておくと言ってくれたからだ。
あとはうまく事が運べば良いなと思う次第で――……『お姉様っ、お風呂入りましょう~!』……とまた懲りずに来たアリアンヌを『本を読みたいので』と追い返し、わたくしは革張りのソファでくつろいでいる。
いつものように先にジャンが入浴を済ませ、本当の緊急事態があったら呼べよ、とだけ言い残して彼はとっとと小部屋に戻っていった。
まだ九時を少し過ぎたくらいなのだから、もう少しゆっくりすれば良いのに……そもそも『本当の緊急事態』って何なのかしら?
そう考えながらもう不要になった図書館の本を閉じ、視線を上げると……レトは手のひらにすっぽり収まるくらいの小瓶を明かりにかざして、不思議そうにそれを眺めていた。
「……それは、香水か何かですの?」
わたくしの問いかけで、少し離れた場所に座っていたレトは意識と視線をこちらに向けると首を横に振る。
「香水じゃないんだ」
話すには互いの距離が少しばかり遠かったので、レトはそのままソファの方へと歩いてくると、わたくしの隣に腰掛けた。
夜でも輝くように美しい金色の瞳。そのまなざしが迷うことなくわたくしを見つめる……ただそれだけで、なんだか胸が高鳴ってきてしまう。
「リリー。そんな風にじっと見つめられたら、照れちゃうよ」
その言葉はむしろわたくしが発したいところなのだが、レトもわたくしに見つめられただけで同じように感じてくれているのだとすると、嬉しく思う。
ヘリオス王子はお風呂に入っているため、居間にいない。
それに、二人きりというのはなんだか久しぶり……いや、半年ぶりなので、なんだか少し緊張してしまう。
半年という期間のせいか、妙にレトを意識してしまうので……慌てて話題を瓶のことに向ける。
「そっ……その商品……シンプルすぎてみたことありませんけれど、売り物ですの?」
レトは香水とかそういうものを使っていなかった気がするが、魔界の関係者の皆様は、前衛職や研究馬鹿なのでおしゃれにほぼ無頓着……香水なんて誰も使っていない。
セレスくんから甘い香りがほのかにする程度だが、あれは教会で焚きしめる乳香のかおりが移ってしまうからだという。
「香水や売り物じゃないよ。だけど、これは一度にどのくらい使ったら良いのかな……と思って考えていたんだ」
「使う……?」
5センチくらいの透明な瓶に入っている、飲用なら一回使えば終わってしまうくらいの量。
香水ではないというのなら、薬なのかしらと思って小首を傾げると――そんなわたくしの何が面白いのか、レトは『試してみない?』と言って、わたくしの目の前で小瓶をちらつかせるようにして揺らし、妖艶な笑みを浮かべた。
「リリーが頷いてさえくれたら使っても使わなくても何も問題ないし、もともと護身用みたいなものだからね」
「……ですから、それは一体何かと聞いているんですけれど? 勿体ぶって意地悪しないで教えてください」
「そう、だね……」
返事を渋りながら小瓶のガラス蓋を開け、レトは瓶の口を手で仰ぐ。
わたくしも一緒に、くんくんと空気の匂いを嗅いでみたものの――期待に反して何の香りもない。
わたくしのそんな仕草を見ながら、レトは――……ただ一言。
「これは媚薬」
と言った。
ぎょっとしてレトの顔を見ると、彼は真顔で頷いている。
「父上が持たせてくれた、お守りみたいなものだよ」
「おっ、おまっ……、お守りにしては、少々行きすぎじゃなくて!?」
まさか本当に持たせているとは思わなかったんですけど……魔王様はいつだって本気なのですね……改めて思い知らされるわ。
わたくしがあまりの衝撃的な言葉にドギマギしていると、レトは人差し指を小瓶の口に付けて、瓶を傾ける。ぽたぽたと数滴、彼の指を伝って滴がこぼれ落ち――肘を伝い、服に水玉の染みが出来る。
「あ……」
「リリーは、人の気持ちにいつも鈍感だからね。特に好意となると、わざと鈍いふりをしているんじゃないかと思わされるよ」
そう言いながら、レトはわたくしの肩にそっと手を置き……口を開けてごらん、と小さい子に言い聞かせるみたいに優しく言った。
「さっき、皆で話しているとき……リリーは俺がマクシミリアンを認めているようなことを言っていたけど、そんなわけないじゃないか。ねえ、リリーが困っているとき、今までみたいにすぐ行動を起こせないで、待っているだけっていう俺の気持ちが分かる? 今回も変な奴に目を付けられちゃって……俺が出られたら、すぐにでもそんな奴からリリーを守れるのに。どうしてジャンやマクシミリアン……他の奴に恋人を任せないといけないの? こんなもどかしくて辛いこと、したくない」
どこかわたくしを責めるような口調ながらもレトの顔は悲しげで、その切なげな表情と彼の心情を察すると思わず……全てを許して受け入れてしまっても良いかという気持ちに――……なりそうなのだが、許してしまうわけにはまだいかない!!
わたくしは口元まで運ばれたレトの指先を握り、ごしごしと擦るようにして拭くと……ごめんなさいと謝罪する。
「あっ……!?」
「――わたくし、レトを傷つけてしまっていたのですね……ごめんなさい」
貴重な薬を拭き取られて、短く声を発したレトに消え入りそうな声で謝ると、その整った顔を見つめてそっと頬に手を伸ばす。もちろん薬がついていない手だ。
レトはわたくしの手を取り、自らの頬をすり寄せるようにして触れさせ……手のひらに軽く口づけをしてくれた。
ほんのり温かくて柔らかい唇が触れた瞬間、胸が痛むくらいどきどきと高鳴った。
「そうね……わたくしとレトの立場が逆だったら、きっと毎日心配で不安で、苦しくてたまらない。それはわかっているのに……。待っていただくことしか出来ないなんて」
「絶対に無事だとは分かっているけど、やっぱり姿を見るまでは安心できない。この手に抱きしめるまでは、怖いんだ」
そう言って、レトはわたくしの背に手を回し……強く抱きしめる。
少し力が入りすぎて痛かったけれど、それだけ強くわたくしを思ってくれているのだと思えばそれも嬉しくて、わたくしも甘えたように彼の背に両手を回して、レトの胸に頬をすり寄せた。
わたくしの心臓と同じくらい、どきどきと早い鼓動が聞こえる。
やっぱり、抱きしめ合うのだって緊張しているのかしら。
「レト。わたくしは誰よりあなたを愛しく思っております。いつだって……一緒にいたいと願う気持ちは本当ですのよ」
「俺もだよ。ずっと前から……リリーと出会って、いつまでも一緒にいたいと……ずっとそう思ってる。もちろんこれからも……」
そう囁きながら、レトは腕の中のわたくしに柔らかい笑みを見せ、かわいい、と呟く。
「俺のリリーに対する気持ち、大好きって言葉じゃ表せないんだ……」
「ふふ、わたくしもです。それだけ愛しいと思ってくださるなら、嬉しいことです」
「本当? それならリリーの気持ち、もっと俺に教えて……?」
頬に手を置かれ、軽く上を向かされると――レトがそっと顔を近づけてくる。
好きな人からそんな風に言われたら、抵抗できるわけもないのに……!
でも、キスだけなら……。そんな甘い熱に浮かされてしまって、わたくしはゆっくり目を閉じ……唇同士がふれあうのを待ったのだが、少し待ってもそれは訪れない。
「……?」
うっすらまぶたを開くと、レトは険しい顔でわたくしの後方を見据えていた。
「レトゥハルト、リリーティアと仲良くするなら混ぜてくれないかい?」
降ってきた穏やかな声は、ヘリオス王子のものだ。
お風呂上がりなので薄着ではあるが、ジャンとは違ってちゃんと身体も拭いて、髪も乾かしているので偉い。
「ひっ……!? ヘリオス王子、なに、いったい、いつの間に!」
「内緒の話をしていたようだから、邪魔したら悪いと思って……そうじゃないみたいだったけど……リリーティアの顔、可愛かった。そんな顔をレトゥハルトにはするんだね……羨ましいな」
なんで足音を忍ばせたり、気配を消してやってくるの!?
ていうかキス待ち顔なんかしてたの見られてしまっていたって事じゃない!
「いやあぁぁ~……なんで見てたのです……」
急に恥ずかしくなって、わたくしはレトの胸元に顔を埋める。彼はわたくしの頭を撫でながら、優しく抱き留めてくれた。
「ヘリオス。リリーをからかうのはやめてよ。それに、こういうときに来るのは……俺とリリーの邪魔しようとしたの?」
「そんな怖い顔しないで。レトゥハルト、ボクのほうがリリーティアを知っている期間が長いのは分かるよね? ……大事な友人を横から家族に盗られるのは、気分が悪いってわかってくれるかい?」
「友人? ふふ、恋人って言葉の意味はヘリオスには分かるかな? リリーは、俺を選んでくれたんだよ。ヘリオスじゃない」
「恋人って誇らしげに言っても、婚約者のクリフォードに及ばないじゃないか。ボクたちはここで張り合っても、そんなに変わらないって事だよ」
……なんだか雲行きがおかしい。
「リリーはヘリオスより俺の方が好きなんだよ」
「リリーティアはボクを大事にしてくれる。いつだって見捨てたりしなかった。互いに必要としているのだから、わかりきったことを口にしなくてもいいじゃないか」
どうして兄弟で喧嘩してるのかしら……?
わたくし、身動きをしたら『恋人と友情のどちらが大事か』という究極の問いを突き付けられてしまうのではないかと恐れ、石のように固まっていたが――……リリー、とレトがわたくしを呼んだ。
「ちょっと、ヘリオスを懇々と言って聞かせないといけないから……残念だけど、互いにお預けになっちゃったね。ごめん」
今度はヘリオスがいないときにしようね――と耳元で囁かれ、そのまま耳の後ろに口づけされて、解放される。
自分の部屋にヘリオス王子を引っ張って連れて行く彼の背中を、ぼーっと見送り、二人の姿が見えなくなった途端……ぐにゃりとソファに倒れた。
口づけられた部分だけじゃなく、顔も、心にまで彼の熱を送られてしまったみたいに熱い。
「……危なかった、のかもしれませんわね……」
そのまま机上に視線を向けると――あの媚薬らしき瓶も机の上からなくなっていた。レトがきちんと回収したのだろう。
仮にあれが本物じゃなかったとしても、耳とかにキスをされたくらいで、こんな……ジャンに流し目を送られたお嬢さんみたいになっていては……どうなっていたことか。
瓶の中身が本物であるならば、一口でも口にしていたら絶対に……想像しちゃいけないことになっていたはずだ。
結果的に無事だったことを喜ぶべきか残念に感じるべきか、わたくしは気持ちを切り替えるために息を吐き、寝る準備を始めたのだった。