自室に戻るやいなや、わたくしは買ってきた荷物や自分の鞄を取り急ぎ片付け、テーブルの上に置かれた鳥かごの小さな扉を開く。すると、ぽんっと小鳥がテーブルに降り立ち、羽ばたいてわたくしの肩の上に乗った。
「リリーティア……ああ、リリーティア……会いたかった……やっぱりきみはボクを救ってくれる人なんだ」
わたくしの頬に自らの頬……というか身体全体をすり寄せ、ヘリオス王子は歓喜を訴えてくる。なんか香ばしいような、お日様のような、使い古した油っぽいような……いわゆる『鳥クサイ』においの他、いろいろな匂いまで混ざっているので、要するに臭い。
「ヘリオス王子、臭いので先にお風呂に。たらいにお湯を張って差し上げます」
「……リリーティアが洗ってくれるのかな? 嬉しい」
黒い尾をぴんぴんと上下に振り、小首を傾げてわたくしを見上げる姿は可愛いのだが、ジャンがおれが洗ってやる、と言ってヘリオス王子をひったくるようにして洗面所に向かっていく。
ドアの向こうから、熱い! とか、痛い! と時折悲痛な声が聞こえた。
はらはらしながらタオルを用意して待っていると、平然とした顔のジャンの手のひらに、ずぶ濡れの小鳥が震えていた。
「――怖かった……溺れるかと思ったし、ジャンは乱暴すぎやしないかい?」
生きた心地がしなかったよと……黒い小鳥、ヘリオス王子だというのが文句を呟くのだが、ジャンにはただ小鳥がさえずっているようにしか聞こえないらしい。
タオルドライだが、石けんの良い匂いがして羽もつやつやふかふかになったヘリオス王子。
とりあえず目の前にパンをちぎったものを置き、冷ましたお茶を平たい皿に入れて出した。
「美味しい……食事も久しぶりだし、あの屋台の老人は籠を杖で叩くので、音がとても怖かったよ」
「……なんて言ってんだ?」
「……そうか、わたくしには魔具があるから、ヘリオス王子の声が聞こえるのですわね」
「ああ、それは失念していたよ。そうか、リリーティアが【魔導の娘】であっても、魔物の声は聞こえないのでは仕方が無いね。最近、ボクは魔物の声が聞こえるようになってきたのだよ。凄いだろう?」
羽毛をふわっと膨らませ、丸い毛玉みたいになった愛らしい身体。
ヘリオス王子は青髪だったが、レトもそうだけど、生き物に変化すると地毛に関係なく黒くなるらしい。
「目の色……魔物になったら金じゃないのですわね」
「ああ。魔法で変えてあるのさ。新しい魔法を練習してたからね」
「とにかく……少々お待ちを」
わたくしはペンダントを引っ張り出し、レトのことを考えながら祈るように念じた。どうやって使えば良いのか分からなかったから、これでいいのかは疑問が残る。
『――……リリー……?』
囁くような、そんな声がペンダントから聞こえた。
ああ、わたくしの祈りは魔界に通じたようだ。
レトが言っていたとおり、このペンダントに通信機能があるのもこれで分かった。
「レト、ああ……よかった。わたくしの声、きちんと聞こえておりますかしら」
『もちろんだよ。リリーの声はちゃんと聞こえるし、俺には姿も見えるんだよ』
「わたくしからは何も見えませんけれど、それは何よりです……。ですが、今日は大変なことがあったのです。小鳥、わたくしの目の前に小鳥がいるのですが……ええと、どうすればレトに見えるのかしら」
わたくしは試行錯誤しながらペンダントを首から外して、小鳥に向けてみる。
都度、見えますかと聞いていたので、レトは笑いながら大丈夫だと言った。
『ふふ、気を遣ってくれているんだと思うけど、そんなことしなくても見えてるよ。ペンダント戻して』
「……あなたからどう見えているか、わたくしには分かりませんもの」
『怒られたくないから秘密』
怒られるような見方をしているのか。そう言うと、どうかなあとはぐらかされる。
「とにかく、レトはこの小鳥に見覚えは? ヘリオスだと名乗っているのです。そして、わたくしも彼ではないかと思うのですが……」
『……ヘリオスのような気配はするけど、実際に自分の目で見ないと判断が難しいよ。ちょっとリリー、窓辺に立って、そこからの景色を見せて』
言われるがまま、わたくしはペンダントを首から提げたまま窓の側に立って、王都の景色を見せる。
学院の他は城と大聖堂くらいしか高い建物がないので、市街や遠くの山まで見えるような、良い展望である……といえばそうなる。
すると、首元のペンダントから『分かった』と短い声が聞こえ……数秒後、一瞬でレトがわたくしの隣に姿を見せた。
「――ああ、ちゃんと出られた。次はもっと出力を抑えられるな……あ、メモリーストーン、リリーのペンダントに付けておくね」
にっこりと微笑んで、レトはわたくしの首元を見ながら……ぱちん、と指を鳴らす。すると、ペンダントの中央、金属部分には新たに紫色の小さな石が取り付けられた。
「これで、リリーがいるところに出られる」
「なっ……なんで、魔法使ったんですの!? 誰かに探知されたら……」
「ああ、セレスが『魔術の使用感知が出来る人物は今のところいないので、心配ない』って。解除も学院設備に設置していないらしいし、俺も魔具を使用してきたから何も問題ないよ」
と、なぜか自慢げにレトは黒い石のはまったバングルを見せるのだが、ちょっと話が見えない。
「……セレスは一応、入学式で挨拶してただろ? あのとき全員の資質を壇上から視た。あとは学院のあちこちを入学前にも用事で見てっから、解除がかかってねぇのを知ったそうだぜ。ずさんだと怒ってたが、精霊の力や魔具なしで魔法を使わない限りは問題ないと言ってた」
ジャンのほうがちゃんと事情を知っていることを悔しいと思いつつ、わたくしはレトを見る。彼はニコニコと笑顔で頷いた。
「そういうこと。魔具があれば魔法は使える。でも、精霊は気配を消して貰う必要があるけど」
「つまり、わたくしも魔具がなければ魔法を使ってはいけない。精霊さんにも学院内で力を借りてはならないわけですのね……」
精霊さんには悪いが、すこしの間、気配を消して貰うしかなさそうだ。
しかし、レトは自分で魔具を作るまでに技術を高めているとは。半年の間、わたくしは何も出来ていないというのに……ちょっと羨ましい。
「とにかく、そんなわけで俺はいつだってリリーに会いに来られるわけだよ」
嬉しいな、と微笑んでくれるが、そういうことではない気がする。
「――ボクのこと忘れて盛り上がるのは止めてくれないかい」
寂しそうに小鳥が呟く。すると、ああ、とレトが卓上のタオルの上に鎮座する黒い鳥を見つめた。
「本当だ。ヘリオスだね……どうしてここに来たの」
「小鳥の姿で移動していたら、人間に捕まってしまったのさ。そのまま王都に運ばれて、屋台の屋根に何日も吊り下げられ……リリーティアに買って貰った訳だよ」
「夜中の間に逃げれば良かっただろう?」
何をやっているのとレトは呆れているが、夜でも外は常に人が歩いているから、裸でうろつく魔族なんか見つけたらいろいろな意味で大変なことになる――とヘリオス王子はブルリと身を震わせた。
「……裸、なのですか? レトは、小鳥に変化しても裸ではなかったような……」
わたくしはそれらをジャンに翻訳していたが、なんで裸なんだという疑問を無視することが出来なかった……ので、聞いてみる。
「ボクはまだ魔法に不慣れなのだよ。だから、服や装備が外れてしまうのさ」
この子……得意げに何をつらいこと言ってるのかしら……。
レトもバカだねと言って、ヘリオス王子のくちばしを指でつつく。
止めてよとヘリオス王子はレトの指をつつき返すのだが、それすら楽しそうにレトは微笑んでいた。
そーだった。レトは小動物大好きなのだ。
ハトと戯れたり、鶏に話しかけたり、羊の世話を喜んでやってしまう王子様なのだ。その労働のお姿も尊いが、こうしてヘリオス王子と遊ぶレトも良い。
【兄弟の戯れ ~変化中のヘリオス王子に笑顔を向けるレトゥハルト王子~】という肖像画も描いて貰おう。そうね、早く魔界に絵師が来るように頑張ろう。
「――あ。そうだ。魔界のためにといえば、ヘリオス王子をしばらくお借りしたいのですが……せっかくですから、魔界に行って貰える小鳥を集めていただく手伝いを……」
「ボクは構わないよ。リリーティアとも一緒にいられるし、魔界の手伝いにもなるのだもの」
小さな身体で頷くと、ヘリオス王子の言葉が分からないジャンでも、話がまとまったのが分かったらしい。
「そっちに空いてる部屋あるだろ。そこに鳥かご置いときゃいいんじゃねーか?」
あの物置みたいに大きな部屋のことか。
わたくしも頷いたが、待って、とレトは神妙な声で呟いた。
「――部屋、空いてるの?」
「ええ。この部屋大きいのに、部屋がいくつもあるんですのよ」
すると、ヘリオス王子を置いてレトが席を立ち、ジャンが示す方向に走っていく。無断で扉を開け、おお、と感嘆の声が小さく聞こえた。
「この部屋貸して貰って良いかな?」
「…………一応、使い道をお伺いしたいのですが」
「え……住むんだけど……?」
何当たり前のこと言っているの、という顔でレトはわたくしの顔をじっと見つめた。