瘴気に満ちたこの世界。
堕天してからすっかり体に馴染んでいたはずなのに、聖性を取り戻した今、身に沁み込んでくるじわじわとした痛みに新鮮さすら感じてしまう。
それどころか、この羽で空を駆けるのは久しぶりのような気さえした。
ひとたび羽ばたけば、純白に戻った羽からは光の粒子が零れ落ち、昏い地面へはらりはらりと落ちていく。
それを見ると素直に喜ぶことはできないけれど――切なさと嬉しさが同居して、僕の心にも影を落とす。
屋敷の真上に飛翔した僕は、周囲を見渡す……が、ラムリエルらしき気配を感じない。
「ラムリエル、どこですか?」そう訊ねてみると、すぐに返答があった。
『ここです、ルシエル。貴方の頭上』僕の頭上?
バッと顔を上げてみると……魔界の空にあたる場所には、亀裂が走ったような……ひび割れたひずみが開いている。
そのひずみから、幾筋もの光芒が魔界の大地へと降り注ぐのが見えた。
「……あれは」一部の天使が使う事の出来る、聖なる雷……天雷だ。
上級悪魔として実力のあるヴィルフリート達が食らったとしても、防ぎきれず大きなダメージを負うことは必至。
あんな強力なものを浴びてしまえば、大抵の悪魔は即死してしまうだろう。
天雷が降り注いだ場所から、数人の天使と共に姿を現したのは――僕と同じ顔。
白いローブに、純白の6枚の羽根……プラチナブロンドの長い髪。
「ラムリエル……」数えるのも忘れてしまったと告げ、腰まである長い髪を揺らしながら、ラムリエルはゆっくりと魔界へ降りてくる。
紫色の瞳には、喜怒哀楽の際立った感情は表れていない。
しかし彼の守護を命じられたであろう見知らぬ天使たちは、濃い瘴気にその身を侵され、整った顔に苦しそうな表情を張り付けたままだ。
「ラムリエル、天使たちを天界に戻してはいかがですか。見ていてあまりに不憫だったため、僕はラムリエルへと告げる。
しかし、返事は僕の期待したものとは大きく違っていた。
「確かに、彼らには厳しいでしょう。しかし、我々は任を与えられて此処へやってきたのです。顔色一つ変えず平然と答えるラムリエルと、その後方で徐々に瘴気の毒気に当たって苦しそうにあえぐ天使たちを見て、僕は理解できないと首を振る。
「……天の教えは……【父】の教えは、そのように厳しいものでしたか?ラムリエルは不快そうに鼻の頭にしわを寄せて声を荒げた。
初めて僕に、何らかの感情を見せたラムリエル。
それが怒りだったことに、寂寥感すら覚えた。
「堕天したその身にありながら【父】の愛により特例が出た。すると、ラムリエルは後方の天使たちを振り返り……首を傾げた。
「仲間? 彼らは神の僕であり、わたしの部下ですが……?天の教えは確かにその通りだっただろう。
熾天使であれ力天使であれ守護天使も、全て神の僕。
チームや仲間といった感情は無かったように思う。
ラムリエルが非情なわけでも嘘をついているわけでもなく、それが天使の意識だったのだ。
天使たちを見つめる僕へ、早速ですが、とラムリエルが切り出した。
「この間お会いした時よりも魔力は遥かに強大……それどころか聖性が回復している。すると、ラムリエルは僕を嘲笑するかのように短く『はっ』と吐き捨てて首を振る。
「信頼? 悪魔が? ルシエル……非常に、非常に残念です。何も知らなかったのだ、僕は。
その口で命は平等と言っていたとしても、実際にそう思っていたわけではなかった。
悪魔に携わった無数の人間を煉獄へと落とし、悪魔を屠り、今のラムリエルのように、堕天した反逆者の処分も申し付けられた。
それを不快に感じたことも無い。
それを悲しいと思った事も無い。
それを疑問に感じた事すら――無い。
本当に僕は、愚か者だったのだ。
「僕を変えてくれたのは、人間の女性と、情に厚い悪魔と……悲しい宿命を背負う吸血鬼狩人だったんです」彼らとの生活は、楽しかった。
面白い事ばかりではなく、時折怒ったり悲しくなったり悩んだりもしたけれど、それら全てをひっくるめて考えても本当に楽しくて、僕は他者に心を寄せる事が出来たのだ。
「……ルシエル、貴方の戯言は聞いていて癪に障ります。長い落胆の息を吐きながら、憐憫の表情を向けるラムリエル。
「しかし、貴方を連れ帰るのがわたしに与えられた役目。それを使ってください――と、ラムリエルは僕の手に収まっている時の雫を指す。
「いいえ。これは……使わないし使わせない。当たり前の事だという様に頷くラムリエル。
「僕が抵抗した場合はどうするのですか?」手荒な真似、というのは……攻撃するという事だろう。
「きょうだいの様に生まれた間柄でも、戦うことに抵抗はないのですか?」すると、ラムリエルはきょとんとした表情を浮かべ……ぐっと口元を引き締めたが、堪え切れずついにはくすくすと笑いだした。
「失礼、貴方があまりにもおかしなことを言うから……」全くの別物でしょう、と、僕と同じ顔をした天使は薄く笑って告げていた。
それがどういう意味か分からないわけはない。
「……僕だけが、そう思っていたのですね」ラムリエルは笑いながら後方の天使を見やるが、彼らは反応を示す事すら困難なのか、身を屈めて瘴気に耐えている。
しかし、ラムリエルは情けないと睥睨するだけだ。
「あなたたちは、ここに居てはいけません。死んでしまいます……!」帰りなさいと声をかけても、彼らは応じず、身を震わせるばかり。
「ルシエル、そんな心配をするのなら……時の雫を使いなさい。頑なに使おうとも帰ろうともしない僕に、ラムリエルは仕方ありませんね、と言い……掌に魔力を収束させ、光の槍を形成する。
「申し訳ありませんが、時間も手間も長くかけたくない。興味ありげな表情で僕を見据えるラムリエル。
彼との思い出は決して少なくはなかったけれど。
――僕らはもう、あの時と同じように過ごすことはできない。譲れないものがある。だから、彼と……天と決別しなければならない。
すると、ラムリエルから一切の表情が消え――次に、奇妙な笑顔が浮かんだ。
同じ顔をしているのに、僕とは似ても似つかない……そんな異形とも思えそうな笑みだった。
アザゼルの言う事は、あまり間違っていなかったようだ。
僕の事をこんなにも憎んでいたラムリエル。
逆の立場なら、僕は彼を憎んだだろうか……。
しかし、もう僕は悲しいからと嘆いているわけにはいかない。
僕の帰りを待つルカさんやヴィルフリート達がいるのだから。
僕はもう天使ではない。
この姿は、僕の過去と業を決別するための姿だ。
「あなたの本心を知ることが出来て良かった。僕も掌に力を集めて光の弓を形成すると……弦に触れる。
矢は僕の魔力で形成するので、数に限りはあるけれど、速さと狙いの正確性は槍での攻撃を凌ぐ。
「ラムリエル、あなたが僕を殺したいのなら――そのつもりでかかってくるとよいでしょう。ラムリエルは槍を頭上に掲げ、天雷を僕へと向かって降らせにかかる。
それを素早く避けながら、魔力の矢を番えて、ラムリエルの身体めがけて撃つ。
光矢は箒星のような煌めきを残しながらまっすぐにラムリエルへと向かうが、彼の身体は瞬時にその場から消えた。
すぐに気配を感じ、上半身を逸らすと、僕の顔前を槍の穂先が突き抜けていく。
あと少し反応が遅ければ、羽ごと胴を貫かれていただろう。
突き出された槍の柄を蹴りつけ、距離を置きながら連続して矢を放って牽制すると、ラムリエルは防御用の障壁を出して矢を防ぐ。
「やはり、全盛期ほどの力はないのですね。簡単に防げるほどだ……」そう教えてあげると、ラムリエルの纏う空気が変化したのが分かった。
「僕とあなたの違いは『経験』だと、僕らの大先輩が言っていましたよ……なんとなくわかりました」言いながら僕は今までのものより二回りほど大きい矢を番え、ラムリエルに宣言する。
「僕は負けられないのです。すぐにでも本気で来ないと、その障壁ごと射抜きますよ……ラムリエル!」