訳も分からず、僕らがほぼ一方的に魔法陣で転送された先は――……一面蛍光色に光るキノコが生えた丘だった。
赤紫色をした空には蝙蝠が飛び交っており、時折小さくも甲高い声でキーキーと鳴いている。
一体アザゼルは、僕らを魔界のどこへと転移させたのだろうか。
「なんだか辺鄙なところに投げ出されてしまったわね」頭上を飛び交う蝙蝠に対し、払うような仕草をしたエスティディアルさん。
こう見えて彼女はれっきとした魔王。身分の高いものからの命令と受け取った蝙蝠たちは、どこかへと散り散りに飛び去っていく。
彼女がいなければ、この蝙蝠たちは僕とクライヴさん目がけて襲い掛かってきたかもしれない。
魔界の蝙蝠の中には魔力を奪う種もある。前までの僕ならば一人で魔界を歩いたとしても、彼らを脅威とは感じなかった。
しかし、今の僕にとっては体内に残っている魔力は少ない。それを奪われては、僕が何かを成し遂げる事なんて出来なくなってしまう。
僕が聖性を維持する方法の一つとしてアザゼルが挙げたのは、兄弟といっても過言ではないラムリエルを殺してしまうこと。
そしてラムリエルが僕を憎むあまり、僕を亡き者にしようとするかもしれない事――つまり僕らは殺すか殺される間柄になるとアザゼルは指摘していた。
馬鹿げている。ラムリエルが僕を憎むなんてあるわけがない。そう一蹴することはとても簡単なはずなのに。
僕は半分アザゼルの話を信じ、半分は自分の気持ちで否定している。
……いや、僕は『また』感情で動きを鈍らせようとしている。僕はもう、ルカさんやヴィルフリートを……そして自分の心を偽らないようにと決めた。
だから、僕は誰が立ちはだかろうとも、自分の心と身体が傷つこうとも、残された時間が尽きるその瞬間までは諦めてはいけないんだ。
進むべき道を決めあぐねている自身の心を叱咤するように、僕は胸の前で拳を握り、深呼吸をしたが……この周辺の瘴気はひどい。
肺の中に淀んだ瘴気が入り込んでいくのが苦しく、情けない事に少々むせてしまった。
「あら、そういえば……あなた『一応』天使なんだったわね。瘴気がキツくて苦しいのかしら」呆れ顔で僕を見たエスティディアルさんは、ついでというようにクライヴさんの様子も確かめる。
彼は感情を出さない鉄面皮だけれど、明らかに顔色は良くない。
困ったわねぇと独り言のように呟くエスティディアルさんだったが、全く困っているようには見えない態度でもあった。
「あなたがたのご主人様を早く見つけて合流しないといけないようね」わたしあの子の事嫌いだけど、と後に付け足した言葉の方が、よほど強い感情が込められている。
ルカさんが現れなければ、エスティディアルさんはヴィルフリートと再びヨリを戻す事が出来たろうと思っているようだし、恐らく実際そうなっただろう。だから、エスティディアルさんにとって恋敵であるルカさんを嫌う事も致し方ない。
それでも僕らの事を(本心からでなくとも)心配してくれているのだから、そのご厚意には素直に感謝をしようと思う。
しかし、本当にここはどこなのだろうか。
道に沿って歩き続けていたが……僕の前を歩いていたクライヴさんが突然立ち止まり、マスターの気配がすると口にする。
「え、マスターって……ルカさん、ですよね?」言いながらクライヴさんが視線を向けた先。長身の男性がこちらへと向かってくる、のだが――その風貌に僕は目を疑った。
端正な顔立ちをしていることに対しては驚きなどないのだが、その男性は純白の羽を持つ者だったのだ。
彼も天使なのだろうか。だが、僕の感覚は相当鈍っているらしい。彼の『気』がどのような性質を持つのか、把握しきれない……。
そんな僕と、翼の主の蒼い瞳がかち合う。
エスティディアルさんも青い眼だけれど、彼の方はアイスブルーというか、薄く透き通っている。
「ようこそ。我が城へ……魔王エスティディアル様、そして――あなた方は、ルカという少女の『従者』の方々でしょう?」思わず身構えるクライヴさん。だが、エスティディアルさんはクライヴさんに向かって『おやめなさい』と行動を咎め、青年にごめんなさいねと謝罪した。
「主人も従者も躾がなっていないのよ。気を悪くなさらないで頂戴……ところで……わたしたちの名前を知っているようだけど、あなたはどのような方なの?」エスティディアルさんが訝しむように尋ねると、天使のような羽を持つ男性は『失礼』と軽く頭を下げてから、こう名乗る。
「申し遅れました。ヴィルフリートと同じく、ソロモンの72柱が1つ、クロセル……名をクロードと申します」元天使であったので、わたしの羽は白いのですよと教えてくれた。
「元天使、とはいっても……もうあなたは悪魔なのでしょう? なぜ……」彼の口調は柔らかいものだったけれど、眼鏡の奥で細められた瞳は氷のように冷たい。
力の無い僕を見下しているのだと理解したのとほぼ同時に、クロセルはふっと綺麗に笑った。
「わたしは自ら堕天し、神への信仰を捨てました。羽が白い理由は……庇護する人間がいるわけでもなく、聖呪を使用することもないからです」自慢するわけではないけれど、僕でさえ数か月でこのように染まってきたのだ。身も心も悪に堕ちた天使が、いまだに純白の羽を持っているなんて聞いたことも無い。
しかし、クロセルはわたしにもどうお答えしたら良いのか分かりかねます、と肩を竦めていた。
「わたしには、ご質問にお答えできるようなものは持ち合わせておりません。ただ、この中にいる悪魔なら、もしかすると……と言ったところでしょうか」クライヴさんの言葉に、クロセルは悪魔にそれを求める前提がまず違うからですよと苦笑し、手で城を示す。
「お話はヴィルフリートから、大まかに伺いました。彼も、あなたの主人も、わたしの仲間も……城内であなたが来るのをお待ちしていたのです」きっと僕らもここに行きつくであろうから、ということで、ヴィルフリートたちは先にここへ来たのだという。
二人とも僕の事を案じてくれていたのだろうか。素直にそれは嬉しかったのだけど――……。
エスティディアルさんを二人の前に連れていってよろしいものか。
これから始まってしまうのではないかという女性同士の恐ろしい修羅場を想像し、思わずエスティディアルさんの顔をまじまじと見つめてしまった。
「何かしら」すると、エスティディアルさんは心外だと言うように僕を睥睨し、鼻を鳴らす。
「わたしは今日違う目的であなたたちと行動しているわけだし、あの子が突っかかってこなければ何もしないわ」早い話、ルカさんが余計な事を言わなければ全く問題が無いわけなのだけど……今釘を刺しておけるのは、エスティディアルさんしかいない。
クロセルの案内で城内に入った僕らは、中の空気がある程度浄化されていることに気付いた。
「本日お招きするゲストには人間が二人いますから……エントランスが瘴気に満ちていては苦しいでしょう?」その二人というのはルカさんとクライヴさんの事だということに気付けたのだが、同時に疑念も湧いた。
「浄化……してしまって大丈夫なのですか? あなたがたには過ごしづらくなるでしょう?」そう言って、クロセルは廊下をまっすぐ進んだ先にある、黒い扉の前で立ち止まるとドアノブに手を添えて、眼鏡の奥から僕らを見つめる。
「この向こうに、皆様方をお待ちになっている者がいます。クロセルはゆっくりとドアを開き、僕らを中へと促したが、僕に何かをさせようとしている。
ごくり、と生唾を飲み込むと……僕はエスティディアルさんやクライヴさんよりも先に、部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋は大広間にあたる場所なのだろう。
大理石の柱に施されたのはこちらを見下ろすガーゴイルの繊細な彫刻、壁に掛けられた天使の羽を引きちぎろうとする悪魔の絵画……。
美しい作品、と感じるものではなかったけれど、僕の感覚と生粋の悪魔の感覚は違うのかもしれない。
自分の顔が映りそうなほどに磨かれた白い床の上を這うように、昏い紫色をした瘴気が流れている。
「よう、ルシエル……」瘴気に阻まれた先には、僕へと挨拶をしてくれるヴィルフリートの姿。
瘴気に囲まれていても、彼の赤い服はとても鮮やかに見えた。
しかし、彼の様子が何かおかしい。
「……ヴィル? あなた……どうしたの?」僕が口を開くより先に、エスティディアルさんがヴィルフリートへと緊迫した声を投げかける。
すると、ヴィルフリートは小さく笑ってから『なんだ、エスティに助けを求めたのか』と淡々と口にし、参ったなと言う。
「…………ルシエル。きっとここに来ると思ってた。でも、少しばかり遅かったな」何のことか理解できぬままに問い返した僕に、ヴィルフリートはゆっくりと瘴気の中から腕を胸元にまで上げると……自分の先にある黒い球体に指先を向けた。
彼の手首には金色の鎖……いや、手枷がはめられているではないか。
「ヴィルフリート……それは一体何をしているんですか」顔色の冴えないヴィルフリートも心配だけれど、言われるままに……僕はその球体の中身に何が入っているかを悟り――震駭する。
その黒い球体は半透明で、半分ほどの空間は瘴気に囲まれているけれど、良く目を凝せば中に何があるのかは透けて見えた。
そこには……僕の愛する女性である、ルカさんがいた。
ルカさんは全裸で、身体に巻き付いてくる触手や男性の姿をした悪魔に嬲られている。
苦しそうにもがいているが、その細い身体はすぐに押さえつけられて、悪魔共々瘴気の中へと沈んでいく。
言葉にならない悲鳴が、理解できない混ぜこぜの感情が、僕の口から溢れて止まらない。
その球体に取りつこうと堪らず駆けだした僕を、クロセルと女性の悪魔が床へ引き倒して押さえつける。
「る……かッ、ルカさん……! ルカさん!」声を絞り出して名を呼んでも、球体の中からは何も返事はない。
「ヴィルフリート、何が……何があったんです! なんでルカさんがこんな――」手を伸ばしても届かないが尚も必死に進もうとする僕へ、ヴィルフリートは赤い瞳を向けて冷たく言い放つ。
「お前が……ルカの願いを叶えるという口実で天使と取引し、時の雫を手に入れた。ヴィルフリートは悔しさに顔を歪め、瞳を閉じる。
「ええ。ヴィルフリートは、わたしの城へやってきたときに助力を頼みました。ヴァラクたちの名を聞いて、その人物を想像することはできなかったけれど……彼らも確かソロモンの悪魔であるはずだ。
「今、あなたのご主人様は……悪魔の力を借りて自身の聖性を抜き出す為、今あの中で契約中……」クロセルと共にいたピンク色の髪をした女性悪魔が、たどたどしく口にした内容は耳を疑う事でもあった。
「聖性を……って、一体……?」要領を得ない僕を見つめ、女性悪魔はふっと笑うと……僕の耳元へ柔らかそうな唇を近づけて囁く。
「人間は神が創ったもので、もともと聖性を持っている……。聖性が彼女に備わっている? 確かに説明は頷ける部分もあるけれど……そんな事をしたら、ルカさんの身体はどうなってしまうのだろう。
「……あの子が望んだこと……、ウァレフォルの悪魔はすごく反対した……。そうして、僕をじっと見ていた女性悪魔は『抜き出した聖性を戻すため……ルシエルは……魔力を一度カラにしておかなければいけない』と言い放つと、クロセルと共に僕を押さえつける手を離して、仰向けに転がした。
何をする気なのか……それよりもあの球体の中にいるルカさんの事の方が気になる、が――……。
「なぜ、ヴィルフリートは手枷を……!」僕の質問には誰も答えようとしない。当のヴィルフリートは、辛そうに目を閉じているだけだ。
「ヴィルフリート……教えてください! あなたはどうしたのですか! なぜルカさんの窮地にも駆け出そうとしないのです!」二度ほど呼びかけても、ヴィルフリートは何も答えなかった。しかし、なぜかエスティディアルさんが僕の前にやってくると、僕の目の前で屈みこんでじっと見据えてくる。
そう、と頷き、エスティディアルさんは飲み込みの悪い僕を睨みつけながら、こう続ける。
「精神って割と壊れやすいのよ。人間も、悪魔も、天使も関係ないわ。ルカさんを壊さないためにヴィルフリートがルカさんの精神を支えている、という事らしい。
「それにね。精神に寄り添って補佐しているから、ヴィルにとっても相当の負担なの。エスティディアルさんの口ぶりに、クライヴさんは無言だった。でも、その無言は否定ではなく完全なる肯定であるからで、どれほど負担に感じるかは……クドラクとの対決時に見せていたクライヴさんの消耗具合からして理解できる。
「不用意に声をかけて邪魔したいならいいけど、一生後悔するわよ」エスティディアルさんと同じく僕を見下ろしていたピンク髪の女性悪魔は、許可も無く僕の上へ跨ると、胸に手を置いて顔を寄せてくる。
「薬で女性の体にされて男の悪魔にグチャグチャに犯されるか……その体のまま、リディアに犯されるか、好きなほう選んで」この女性悪魔の言動があまりにも選択肢が突飛すぎたので、僕は彼女が何を言い出したのか理解できず、瞬きすら忘れて見つめるほかなかった。