【魔界で従者を手に入れました/56話】

エスティディアルさんの城から、10マイル(約16km)ほど離れた場所の黒い山。

ユヒトミル――というらしいその場所に、堕天使アザゼルが居を構えていると、この妖艶な女性魔王が教えてくれた。

「飛べばすぐ向かうことができますね……グリフォンでも呼びましょうか」

僕が空を仰いで唇に手を当てようとすると、エスティディアルさんは『ちょっと』と鋭く告げる。

「嫌よ、グリフォンなんて獣臭いもの。そんなケダモノ呼ばなくたって、転移魔法で行くから必要ないわ」

気が利かないわねとかなり不満そうな表情を浮かべて睨んでくるが……なるほど、そうか。

僕の移動手段は『飛ぶ』ことを主として考えていたので、転移魔法があるなら……それは頼もしい。

しかし、グリフォンはそんなに臭い……だろうか。あまり気にしていなかったのだけど、女性は嗅覚も敏感だというから……耐えがたいのかもしれない。

エスティディアルさんは、僕らに自分の近くへ寄るように伝え――左手を地面にかざすと、何やら小声で簡単な呪文を唱え始めた。

そう思ったのも束の間。ほんの数小節を刻んだ辺りで、赤紫色の光と共に魔法陣が……地面へと記されていた。

――速唱か。

彼女の詠唱の速さに目を見張ったところを、しっかり当事者に見られていたらしい。

「ここは魔界、わたしは魔王ですもの。あなただって、天界で聖呪を使う際は詠唱が不要なのでしょう?」

そうはいっても、まんざらではなさそうにふふんと笑うエスティディアルさん。

彼女の言う通り、魔族は魔界で、天使は天界で――……それぞれの能力が伸びる。

大魔法を使う際、必要となる詠唱があったとしても、種族と環境や能力が一定以上あれば……モノによっては無詠唱といっていいほど短縮されている。

逆に言えば、魔族は天界で魔法を使おうとしたのなら、倍近くの時間がかかるというわけだ。もちろん、僕もここへきて大きな魔法を使った際、相当かかっていたけれど。

「……じゃ、行くわよ」

男二人揃っていて、なんで転移魔法も使えないのかしら――と悪態をつきながら、エスティディアルさんは転移する場所を正確にイメージするため、意識を集中し始めた。

確かヴィルフリートも転移魔法は使っていない気もするけれど、ただ使わないだけだったのだろうか。

ましてや自分だけではなく数人を同じ場所に転送するのだから、かなり高い技術と魔力を有す者でなければ難しいことも、もちろんわかっている――そう考えていると、身体と意識が急激に引っ張られる感覚が起こり――視界が一瞬真っ白になった。



魔力が放出される際に放たれる淡い燐光が舞い散る中、僕らの体は再び地面へと降ろされる。

「着いたわよ」

素っ気なくいうエスティディアルさんは、傍らに僕らが揃っているかを確認するためか……一瞥した後、細い指を正面に向けた。

針のように鋭く尖った岩がひしめく暗き山、ユヒトミル……。紫色の空と相まって、ますます不気味さが漂っており、圧倒された僕は無意識のうちに息を呑んでいた。

「……こんなところに、アザゼルが?」
「ええ。人間への罪、エグリゴリ全ての罪を一身に受けた哀れな堕天使。とはいっても……わたしも会ったことはないから、初めての挨拶になるけれど」

エスティディアルさんは紫色の髪を指で梳いて、なかなかの好青年らしい、とも言った。

ユヒトミルに足を踏み入れる前に、エスティディアルさんは僕らに浮遊の魔法を施してくれる。

『尖った岩だらけなのに、わざわざご丁寧に地面を歩いていくわけがない』ということだ。

僕やエスティディアルさんは飛べるとしても、クライヴさんはもうただの人間だ。

今までのように鷹に姿を変えたりして飛ぶことができない。

「エスティディアルさんは、面倒見の良い方なんですね……傲慢な女性なのだと少し、誤解していました」

僕が素直に謝罪すると、エスティディアルさんは『そういう約束しちゃったからよ』と、つんつんした態度を見せる。

「時の雫が手に入るまでは手を貸すだけなの。勝手に誤解して、わたしに好意を寄せるんじゃないわよ」
「いえ、そういう思惑があったわけでは……」
……自分に自信がありすぎるせいか、思い込みは激しいようだ。そういう所は、同じ悪魔であるヴィルフリートと似ている気がする。

僕とエスティディアルさんのやり取りを尻目に、クライヴさんは浮遊の効果に多少苦戦しつつも先へ先へと進んでいる。

だが、それに気づいた僕らが慣れた要領で進んで横へ並ぶと、面白くなさそうにクライヴさんは僕らに視線を投げた。

「……人間の癖に、わたしたちを追い抜こうと思ってたのかしら。羽が生えてから頑張りなさい」

呆れた顔でクライヴさんに言い放つエスティディアルさんの意見を支持するわけではないけれど、確かに羽が生えていると、浮遊との相性もいいのだ。

苦笑いする僕に、クライヴさんは『暢気なものだ』と言ってから……突然何かに気づいたらしく目を見開くと、険しい戦士のそれへと表情を変える。

なぜクライヴさんがそのような表情をしたのか。

僕やエスティディアルさんも一瞬遅れて原因に気付き、クライヴさんが見据える――山の奥を注視した。


「――賑やかなお客さんだ。ここに誰かが訪れるのも数十年ぶりだけど」

針山の間……ぽっかりと空いた暗い穴の向こうから、穏やかな気配と少し弾んだ男性の声が聞こえてくる。

向こうから身を硬くする僕らを見ているのか、クスクスと……笑っているらしい声が聞こえた。

「そう警戒しないで、どうぞいらっしゃい。大したもてなしはできないけれど、なにぶん私も年寄りだから気が利かないのは許してほしいな」

そちらが攻撃をしない限りは私も手は出さないよ、とも言われ、僕らは無言で顔を見合わせる。

が、今話しかけてきた者が僕らの目当てであるアザゼルなのだとすると……行かないという選択肢はない。

僕が一足先にアザゼルの居城入口……に繋がっているであろう穴へたどり着いた途端、勝手に灯りが通路を照らすように燈る。

通路には松明もキャンドルグラスも蝋燭も無い。

ライトという魔法だと思われるけれど、僕が出す白っぽい物とは違う、赤い……温かみのある光。

どことなくほっとするこの光は、岩をくり抜いて掘り進めただけの無骨な道を照らした。

この灯りを頼りに中へ進め――という事か。ここに住んでいる主は僕らに歓迎の意志を見せていてくれるようだが、当然何らかの意図があるに違いない。

彼は天使ではなく悪魔だ。ただで手を貸す義理もメリットも、無いのだから。


細長い通路内で、浮遊魔法を使用したままでは僕の羽が視界の大部分を覆うので邪魔だという指摘を受けたため、止む無く浮遊魔法を解除してもらい、僕は一番後ろを歩くことになった。

しかし……通路は小さい物音ですら大きく反響するため、僕らの足音は良く響く。

中でもエスティディアルさんのブーツは、ヒールが高いため音が一層大きかった。

勿論音を消して行動しようと思ってもいないから余計に大きい音が鳴るのだけれど、小声での会話を打ち消すほどに大きいのだから、もう少し気を付けてほしいものだ。

「……あら。ここの住人は、わたしたちが来ていることを承知の上で歓迎をしたのでしょう? わざわざコソ泥のような真似をして歩く必要があるのかしら」

あなたたちの主人は泥棒猫だから、その従者もコソ泥で丁度いいのかもしれないけれど――とまで言われる始末。

癇に障った僕はエスティディアルさんの背中に厳しい眼差しを向けた。

「エスティディアルさんには悪い印象しかないのでしょうが……ルカさんは、そんなに浅い人間ではありません。責めるとするならば、ルカさんではなく迂闊な行動に走ったヴィルフリートのほうでしょう」
「そうね。ヴィルは本当にお馬鹿さんだわ。でも、そんなオトコの隙を突いてしまった女の方も愚かすぎるのよ」
「そういう……ものでしょうか……」

未成年である少女が、意図的に男……しかも悪魔を誘っているのだとすれば、確かにそれは恐ろしい。

……いや、ルカさんがニーナさんの術中に陥り、いいようにされていた時は確かに積極的で蠱惑的ではあったけれど――わざわざエスティディアルさんの意見を肯定するような、自分の体験談を口にする必要はない。

こんな他愛もない僕らの会話に耳を傾けていない様子のクライヴさん。

いつもの事なのだが、この通路を警戒しながら一番前を歩いている。

壁面に隠された仕掛け罠が無いか、あるいは急に敵が飛び出してこないかどうか眼を光らせているようだ。

そんなクライヴさんを見つめながら、エスティディアルさんは『真面目ねぇ』と感心したような声を出した。

「罠が作動したところで、怖い事は無いわ。わたしが止めてあげるもの」
「……信頼できぬ悪魔に貸しは作りたくない」

にべもない言い方だったが、エスティディアルさんは『あらそう、でも浮遊魔法を付けてあげた事で貸しは出来てるわよ』と特に気にした様子も無い。

それどころか、声の調子は実に楽しそうであった。

言われたほうであるクライヴさんは、尤もだと思ったのか何も言わず歩き続けている。

一番後ろの僕からでは見えないけれど、きっと唇を噛んで悔しそうな顔をしている事だろう。


そのまま僕らが無言で通路を突き進んでいくと、灯りが一組だけ青く燃え盛る炎に変わっている箇所があった。その青炎の先には、古めかしい木製の扉が見える。

「ふぅん……やはりとてつもない魔力を持っているようね。扉越しでさえ伝わってくるわ」

エスティディアルさんが指摘するように、扉下部の隙間から静かだが底知れぬ強い魔力が感じられ、僕らの表情は引き締まる……というよりも、一種の恐怖を感じて強張った。

室内で僕らを待ち受ける者が発している魔力の一部。

力の減退した僕はさておき、漏れ出る魔力の質から察すると(本気ではない状態だが)隣に立っているエスティディアルさんの魔力すら小さく感じられる……という所。

彼女の折角の美貌に険しいものが浮かぶのも納得がいく。

僕らが暫し無言で互いの顔を見合わせていると、古めかしい扉は金具を軋ませながら、来訪者を歓迎するかのように内側へゆっくりと開いていく。

ここで迷っているわけにもいくまい。僕らは覚悟を決めて、扉に歩み寄るとそろりそろりと室内へ入る。

一組の蝋燭が唯一の光量。

とても薄暗い室内は湿度が高く黴臭さが鼻に付き、息苦しいのかクライヴさんは数度咳をする。

「失礼。人間には辛い所だったかな」

先ほど洞窟の外から聞こえてきた声でそう告げると、ゆらりと暗闇が動いた――。

黒いものは瞬時に人の姿となって僕らの前に進み出ると、形の良い眉尻を下げて微笑みのような表情を形成する。

声が聞こえたと同時――瞬きの間の出来事だったが、僕には人が現れたのではなく、闇が動いて人の形になったように見えたのだ。

部屋は湿っぽくてじめじめしているというのに、清涼感のある鮮やかなブルーの髪は短く切りそろえられ、透明度の高い湖を思わせるエメラルドグリーンの瞳は、嬉しそうに僕らをその眼に映していた。

「はじめまして。僕はルシエルといいます……あなたが、エグリゴリのアザゼル?」

名を呼んでみると、男性はそうだよ、と嬉しそうに返してくれた。

「こうして会うのは初めてだよね、元熾天使ルシエル。
君の活躍は遠く離れたこの地でも聞こえてきたよ。
最近は人間のお嬢さんの従者となっているらしいけれど、そちらの女性は……悪魔だから違うようだね」

久しぶりに出会った友人と世間話をするかのような軽い口調で、アザゼルは僕からエスティディアルさんへと一旦視線を移し、こんにちはと声をかけている。

「悪魔のお嬢さん、君は随分強い魔力をお持ちのようだ。このあたりの魔王さんかな」
「……ええ、そんなところよ。
ただ、わたしなんかが太刀打ちできないくらいに強い魔力を秘めている人に強いと褒められても、まるで児戯。何にも嬉しくないわね」

ムッとしたままエスティディアルさんはアザゼルへと嫌みまじりに答えるが、アザゼルは失礼、と笑って受け入れている。

「……ああ、君はクルースニク『だった』青年かな?
まだ力の残滓が感じられる。でも、長時間の外出は避けた方がいいね。君の体も、もう丈夫ではないだろうから」

クライヴさんが何者なのかも言い当てたアザゼルは、驚きに目を見開くクライヴさんを楽しそうに見つめて、そんなに驚くことはないよと言いながら、手を一度打ち鳴らす。

すると、僕らの前に高価そうな椅子が現れた。やはり、これも黒闇が集まって椅子の形を作り、そこから革張りの立派なものへと変化したように見えた。

「立ち話もなんだから、どうぞ座って。自分にとっては久しぶりのお客さんだから、なんだか嬉しいよ」

お茶は飲むかい、と至れり尽くせりなのだけど、流石に黴臭さが充満した部屋でお茶は頂きたくない。僕らは口を揃えて喉は乾いていないからと辞退する。

アザゼルは残念そうだったが、自分も椅子に腰かけると僕らの顔をまじまじと見つめて。

「さて、まどろっこしい話は無し、にしよう……僕を尋ねてきた用件はなんだい?」

単刀直入に切り出したアザゼルの表情からは、先ほどの笑顔は消えている。

「――……アザゼル。あなた方は監視者の命を受けながらその役割を放棄し、堕天使となった過去がある……実は僕も堕天使になったのです……」

僕は言葉を詰まらせながらも、今の自分自身のことを簡単に説明した。

堕天使となる前とその後、そして今の状態。

その間アザゼルは言葉一つ発することなく、僕の話をじっと聞いている。

僕が話し終えてから二度瞬きをした頃、アザゼルはゆっくり口を開いて、君は自分に何を求めているのか? と告げた。

「君の言う通り自分は確かに天を追放され、この魔界に落とされた。我々は自らの意志で天を捨てたんだよ。
でも、君は違うね。天に戻れないから人を愛したと錯覚し、聖性が失われつつあることに焦っているだけだ」
「そんな……! 僕は、天に戻りたいわけではないです! 自分の主人と友人を失いたくない――」
「君は自分が好きなだけさ。誰からも愛され、清らかな羽を持っている『熾天使ルシエル』が。
今こうして自分の前に立っているのは、薄汚い羽を泥水で洗う、ドブネズミ以下の存在なんだよ。
その自覚はある……わけないか」

ドブネズミと揶揄された僕は、思わぬ衝撃に頭を殴られたような心地がした。

「随分高尚な発言をするが貴様こそ自らの力を過信し、天界の技術を人間に教え、人間を妻に娶った天使だ。そんなドブネズミの筆頭なのではないか?」

ただ、僕の代わりに怒りを露わにしたのはクライヴさん。棘のある侮蔑にぴくりとアザゼルの片眉が動いた。

「……そうだね。このような場所で暮らしている自分の方が、余程ドブネズミに近かった」

じっとりと肌に纏わりつくような湿気の中で暮らしていたアザゼルは、大仰に肩をすくめてから首を横に振る。

「失言を謝罪しよう。でも、ルシエルが自分大好きだという言葉は撤回しないよ。
羽の色など、必要ないものにいつまでもこだわっているような若造なんだから」
「そういう自分こそ……あら?」

何かを指摘しようとしたエスティディアルさんは、怪訝そうな声を上げた後アザゼルの事を注視し、『ない』と口にした。

「あなた羽が無いのね」
「ん……? きちんとついているよ。暗いから見えないかな?」

肩越しに後方を振り返るアザゼル。風も無いのに彼の髪がふわりとなびいた。

小さい羽ばたきの音も聞こえたため、僕らはアザゼルの肩辺り……暗闇を凝視する。

「皆で一斉にじろじろ見ないで。恥ずかしいじゃないか」

自分の羽は透明なんだと言って三人から見つめられてくすぐったそうな顔をするアザゼルは、何もないように見える空間――恐らく自分の羽なのだろう――を軽く掌でポンポン叩き、自分の羽はさておき、と話を戻す。

「ルシエルは何がしたい? 羽の色を戻したいのなら、全てを捨てて使者ラムリエルと共に帰るといい。多分、まぁ……身体を替えるというのは本当だろうね」
「僕は羽なんて黒くなってもいい!」

僕が声を荒げて反論すると、アザゼルは先を促すように『ふぅん』と相槌を打つ。

「アザゼル、この僕に教えてほしいのです。どうしたら……この魔界で暮らせるか。僕の主人が怪我や病気になっても治癒できる力の持ち方を。それさえあれば――」
「それさえあれば――天など戻れなくとも構わない、と続く言葉でいいのかな?」

アザゼルは片膝を抱えるように胸へ寄せ、指を組むと僕の表情を伺う。

確かにそう続けようと思っていたので、僕はしっかりと頷いた。

すると、アザゼルは何かを思い出そうとするかのように『うーん……』と一つ言葉を漏らし、身体を背もたれへくっつけて天井を仰ぎ見る。

「引っかかるんだよなあ」
「僕は、本心をお話ししています」

まだ詳しく話す必要があるのかと思ったのだが、アザゼルはそうじゃないよと遮った。

「なんというか……ルシエルは、神のお気に入りだったんだろう。
全く同質の者なら、ラムリエルだけでも十分なはずだ。なのに、なぜ今になってこうなったんだと思う?」
「それは……僕にもわかりません」

ラムリエルが現れてからずっと気にかかっている事だけれど、ラムリエル曰く僕の心が清いことも条件の一つだったような口ぶりだ。

その話をすると、アザゼルは嘲りの笑いを浮かべた。

「清い? ……へぇ。君はそんな嘘に塗れた口先の出まかせを信じてしまうのか。
確かに清らかな心を持っているようだね。いや、疑う事を知らないだけのバカな子だね……」

困惑する僕の表情を眺めつつ、アザゼルは人差し指をピッと虚空に突き付けた。

「……天使も悪魔も、人間も。一つだけ変わらぬ事がある。それは――経験だ」
「経験……」
「うん、そうだよ」

クライヴさんが鸚鵡返しに呟くと、アザゼルは少年のような笑顔を見せる。

「君も、動物などに変身する練習はしただろう?
お嬢さんも、恋から学んだことはあるんじゃないかな? ルシエル、君も魔界に来てから……悪魔たちが絶対悪だという認識が変わることがあった?」

僕よりほんの少しだけ年長である堕天使はそう訊ね、沈黙が肯定だと分かるとそうだよね、と頷いた。

「――本当は、こうして答えを示してあげる事は好きじゃないんだけど、今日はちょっと嬉しいから特別サービスしてあげよう。次は無いよ」

なんとも気前のよい堕天使アザゼルは、僕の眼をまっすぐ見据えると天使も神も万能ではないと囁く。

「ラムリエルとルシエル。同じ器と同じ性質を与えられて、それぞれ違う職に就き、今では一人が堕天してしまった。
しかし、それくらいは『天界ではよくあること』だ。
天使の反逆でさえ誤差の範囲みたいなものだから、神も気にはしないよ。自分の時もそうだったのだからね」

神が怒ったのは天の技術を開放したことだけさ、とも言い、悪びれた様子はない。

「消えてしまったルシエルに代わり、当然のようにラムリエルが起用された。
でも、基本同じことができるはずのラムリエルをもってしても、君の消えた穴を完璧に埋める事は出来なかった……それ、何だと思う?」

クイズでも出すかのように気軽に言ってくれるのだけど、僕にはさっぱり――……いや、思い当たる箇所は一つある。


「まさか……ラムリエルは、聖歌を唄った経験がほとんど、ない……?」

まさか、と思いつつそう口に出してみると、アザゼルは『多分ね』と頷いていた。

「歌う天使も多いけど、歌は捧げられるものという価値観で歌わない子の方が多いだろう。
その点、ルシエルは歌うことが好きだったし、良く神に褒められたんだっけ。
【父】に褒められたら、嬉しくてもっと褒められようと練習もするだろう。最初は二人とも同じレベルだったかもしれない。
しかし、君は歌うにつれ、声の出し方、喉の震わせ方、抑揚の付け方や感情の込め方……そういった技能で差がついてしまったんだ。
そうとは知らず、ラムリエルは披露し――歌声を聴いた神はさぞ落胆したはずだ。同じものを創ったはずなのに、と」

そこで……アザゼルは皮肉なものだよねと口にする。

「君らは兄弟のようなもの。追いつけない違いを見せられたラムリエルは、もう戻ってこない君の高い評価と自分に注がれる評価に大きな隔たりを感じる。
その瞬間、ラムリエルは古の呪われた兄弟たちの様に――君に嫉妬した」
「それは言いがかりです! ラムリエルが、僕を憎むことなどありはしない!」
「……君は嫉妬したことはないのかな。主人が君らと違う従者を愛でたら何か悔しくはないか?」

そう言われて、僕はついクライヴさんを盗み見てしまったけれど……その視線に気づいたクライヴさんは、困ったように眉を寄せた。

「誰かに嫉妬したことくらいは、僕にもあります。でも、ラムリエルはもう恵まれているのですし……」
「君がそう思うならそれでいいよ。せいぜい、天へ上る前に聖槍で自慢の喉を抉られるといい」

そう言われて僕は思わず喉元に手を置いて大きく息を吸う。その仕草に『かわいいねえ』と、何故か満面の笑みを浮かべるアザゼル。

「なんていうか……君が天使の力を使えないのはしょうがない。もう聖性が薄れてしまったんだ。
喉が痛むのは、無理にその力を引き出そうとしたせいで身体が軋んでいるから。
酵母があっても小麦粉が1さじもないのだから、ふわふわの美味しそうなパンを焼くことができないのと同じだよ。
力に合った方法――ああ。なんだ、別に聖性を維持できない事は無いかな……」

ぶつぶつ言い始めたアザゼルだったが、聖性を維持するという言葉に、喰いつかずにいられなかった。

「ど、どんな方法ですか、それは……!」

ぜひ教えてほしい。僕はアザゼルの足元に小走りで寄ると、膝をついて彼のローブを掴むと頭を垂れた。

「……君には耐えられない。聞くのはやめときなよ」

乱暴に僕の手を払うと、アザゼルは先ほどの堕天使なりの力の使い方を教えようとするが、僕が必死にせがむので、面倒くさそうな顔をしはじめた。

「言いかけて止めるのなら最初から言わないでください!」
「あのね、聖性を維持するって言っても、そこの元クルースニクみたいな仮初の流れなんだよ。彼、ウァレフォルの力で生きてるんだろう?」

ルカさんの血が必要だとしても、ヴィルフリートの作成したアイテムがあってこそだ。

僕の代わりに当事者であるクライヴさんが頷くと、アザゼルはそれと同じことさと言って席を立った。

「解決法は二つ。ひとつは、魔力変異のアイテムを作ってもらう事。
どのような力でもいいけど、聖性に変化するように調整してもらうんだ。
魔界で聖なる力を補充することが出来れば、君の聖性は徐々に回復し失われない。
もうひとつは――完璧に君のようなボウヤでは無理だと断言できることだよ」

ボウヤと言われても、僕とアザゼルはさほど変わらない気がするのだけど……。

「それでも……あるのなら、方法を教えてください」
「はぁ……。言う事を聞かない子だな。まあ、チラつかせたのは自分だ。しょうがない……」

考え事って口に出ちゃうんだよねと、こっちが聞いていない事を言いながらアザゼルは頭を掻く。

「もう一つの方法は、身体を替えること。手っ取り早くはラムリエルを殺して、その体を君と融合させることだね。
全く同じ性質だから、負荷が無いと思うよ――君にその度胸も無いだろうし、やろうとしても力が足りないなら逆に殺されるだけだけど」

恐ろしい事を口にするアザゼルは、非常に穏やかな口調でとんでもない事を突きつけた。

「なんて、ことを……僕に天使(ラムリエル)を殺せと……?」
「ね、無理でしょ」

怒りに拳を握る僕をつまらなそうに見てから、お話はこれでおしまい、とアザゼルは燭台の蝋燭を吹き消した。

部屋はふっと真っ暗になり、僕らの足元に先ほどエスティディアルさんが出したものとは違う魔法陣が浮かぶ。

「ルシエル、最後に一つだけ教えてあげよっか。ウァレフォルは仲間の所へ出掛けた。君の主人であるルカも一緒だよ」
「なんですって……? ソロモンの悪魔の所? というか、あなた、何をどこまで知ってるの……?」

エスティディアルさんが意外そうに呟くが、アザゼルは『だいたいは把握しているよ』と悪びれなく答えた。しかし、その間に僕らは自分たちの意志とは関係なくどこかへ転移させられそうになっている――!

「アザゼル、ヴィルフリートは誰の元へ――」
「自分の主人の危機かもしれないんだ。君が考えればいいだろ。まぁ、君主か公爵の所じゃないかな」
「危機って、あなたは……! 知ってて知らないふりをしていたんですかっ!」

僕の怒号を打ち消すように『そういうこと。でも詳しく理解できたよ』という感想が返ってくる。


「それじゃ、いってらっしゃい……ルシエル」

ぱん、という手を打つ音と共に僕らは一瞬にして何処かへ転送された。



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