ラムリエルが、僕へ【父】のご意向を伝えてから……三日ほど経過していた。
あれからラムリエルの接触はない。
残念に思わないか――と言えば嘘になる。
僕の正直な気持ちとしては、ラムリエルに出会えただけでも嬉しかった。
それに【父】が僕を赦してくださるという。
考えられることとしては、先日クライヴさんの使用した【終の祈り】で天使として補助をしたことか。
だとしても、僕はヴィルフリートの城に来てから毎日礼拝堂で祈りを捧げ続けている。
僕の祈りを聞き届けてくださるというのなら、既に【父】に届いているはずなのに。なぜ今になって……?
「……ルシさん、どうしたの?」
いつの間にかルカさんが僕の前に立っていて、不思議そうな顔で僕の顔を覗き込んでいた。
「なんでもありませんよ? 少しぼうっとしていました」ハッと我に返った僕は、ルカさんを極力心配させないように、ゆっくりかぶりを振る。
「そう? 何か悩み事あるのかって思った。なんでもないなら、いいんだけど」安心したのか、ほっと胸をなで下ろすルカさんを見ていると、僕は少し胸が苦しくなった。
「ありがとうございます……大丈夫ですよ」ルカさんに笑顔で応じながら、大丈夫、というのは何を指して言ったのだろうと自問自答する。
そしてルカさんは僕の隣へと座って、今日の訓練は相変わらずきつかった、足が痛いと、すりむいた箇所を見せた。
傷口を見たけれど、消毒もきちんとされているようだ。
彼女の傷口に手をかざし、回復させようと力を送り込むが――僕は衝撃を受けた。
擦り傷程度なら、今まで撫でるだけでも完治させることができた。
それなのに、しっかり力を送り込まなければ癒すことができなくなっている。
「ありがと、ルシさん! いやー、いつ見ても凄いわ~」すっかり塞がっている傷口を満足そうに見ているルカさん。僕の衰えには気づいていないようだ。
安堵する一方で、僕は寂しさを覚えた。
もし、今僕が悩んでいることを打ち明けたら、ルカさんは僕に何と答えるのか。
それくらいに……あの日ラムリエルが放った言葉は、予想以上に堪えたものだった。
きっと……魔界に来るまでの僕も、同じように思っただろう。
人間が天使に憧れじみた感情を抱くのは、宗教観によるものや個人の意思で神聖化しすぎたため。
人間は困ったことが起こるたびに、神や天使に祈りを捧げて何も自分では動こうとしない。
危機を回避し、事件が過ぎ去ってしまえば感謝の祈りはおろか、日々の祈りも疎かになる。
そしてまた同じような事を繰り返す。救われなかったことに憤り、僕らを見限り悪魔に魅入られた者も多くいた。
勿論、神聖な祈りを欠かさず捧げる者もいる。敬虔な者たちはとても愛されるが――悪魔にも愛される。
天に救済されるのはごく少ない者だけだったのだから。
「なんだ? ルシエル、今日は随分大人しいじゃねぇか」寂しがって構ってもらう新しい遊びでも覚えたのか、なんて言いつつ僕のそばにやってきたヴィルフリートは、ルカさんの胸を揉みながら僕をからかってくる。
「いつもとそんなに変わりませんよ」嘘だと自分でもわかっている。
いつもなら、ルカさんに平然と卑猥なことをする行為を咎めただろう。でも、今日は怒る気にもなれなかった。
突っかかってこない僕の対応に、怪訝そうな顔のヴィルフリート。ルカさんは、胸を隠しながら急に触るなと文句を言っている。
「少し寝不足気味なので、部屋で休みます」席を立つと、ルカさんが本当に大丈夫か、軽い食事を作ろうかと聞いてくれたが……本当に眠いだけだからと丁寧に断り、居間を抜けた。
部屋に戻ると、ヴィルフリートが僕へと精神念波で話しかけてきた。
『何もありませんよ』さすがに大悪魔だけある。ルカさんをごまかす事ができても、彼の感覚はごまかせなかったようだ。
『確かに少し僕自身驚きました……でも、もう力は戻りませんから、嘆いても仕方がないところです』そうだ。悪魔と人間は属性が違う。だから、どちらかと言えば聖なる属性に近い人間の傷を、僕らが癒すことができた。
今も、僕の現状の属性は天使や人間と大きく違う事はないから、治癒できている――。
『……そうでしたね。ですが、力を回復する手だてがないのなら、どうしようもありません……。そこなんだよなぁと、作った本人が答えるのだから改善のしようがないらしい。
身体の時間を巻き戻したところで、この悲しみは消えるのだろうか。
『でも、悩んでいないみたいだな。いつもなら死にそうな顔で、ルカに泣きついてるだろ』ヴィルフリートが僕に気を遣ってくれているのも感じ取れた。だが、僕はその気遣いすら……今は辛いと感じてしまう。
言い過ぎただろうか、と思った頃。
『……わかった。ゆっくり休めよ』そういって、念波は消えた。
僕は、後悔を感じつつため息をついて、ベッドに腰掛ける。
ありがとうと、ただ一言添えることはできなかったのか。
本来ならヴィルフリートが僕を思いやる必要などないのに、そんな気持ちを無視して自分のことばかり考えてしまっている。
僕は、ラムリエルの話にすっかり心を乱されてしまっていた。
カソックから寝間着へと着替えると、眠くもないのにベッドへと潜り込むようにして入る。
冷たいシーツは、僕の体温と冷静さを奪っていき、与えられたのは孤独と苦しみだった。
忘れようとしても、ラムリエルの言葉が胸中に多数浮かんでは留まる。
本当に【父】は、僕を必要としてくださっているのだろうか。
なぜ、僕なのか?
でも……本当に必要とされているのなら。また、好きなだけ天上の音楽を唄う事ができるのだろうか。
まだ天使だった頃、僕の唄を【父】はいつも褒めてくださった。厳しいこともお与えになられたが、喉も大切にしろと仰った。
僕は、天でよく唄っていたものを口ずさもうとして、喉の異変を感じる。
僕には聖歌を、喜びを奏でることができない。
聖なる単語を天使の言葉で告げようとすれば、僕の喉には痛みが走った。声が掠れる。
僕はもう、歌えない。祈りを紡ぐことも出来ない。
天使ではないのだから。今までが、異常だっただけなのだ。
もし、僕があのままヴィルフリートに殺されていたならば、僕は天使でいることができた。
その後、今日までの間に十分――僕は堕落したのだ。
天使が堕落したのなら、僕は悪魔になっているのだろう?
それなら、なぜ悲しむ必要があるのか。ルカさんは、僕を……ちゃんと見てくれるはずだ。
僕は悪魔として振る舞えばいい。障害なんかもう何もない。
だが、僕の翼は今の状態を如実に表してくれている。
白と黒の混じる翼は天使でも悪魔でもないモノとして、僕の心と性質を見せつけている。
天使にも戻ることはできず、悪魔にもなりきれない。
振り返ってばかりで、僕はこれからどうしようというのか。
頭の中は自分をけなし、罵り、あざ笑い、哀れみ――いろいろな言葉で埋められていく。
僕を奮い立たせる言葉は見つからない。いや、あったかもしれないが、心に響いてくる言葉がやってこないのだ。
叫んで跳び起きて、手当たり次第に目につくものをなぎ倒してしまいたい、行き場のない破壊的な衝動。
自分の腕に爪を立て、僕は痛みだけを拠り所として、内から湧き上がる衝動を押し殺して震える。
普段、こんなことを考えたことはない。ルカさんに危機が迫ったときには、不安で胸がつぶれてしまいそうだと思ったことはある。
それでも、まだ冷静な部分は残っていた。そのときと比べても、今の僕はおかしいのだ。
「う、ううッ……!」食いしばった歯から、悲しさと苦痛の声が漏れた。
必死にこらえようとしたが、終わりの見えない苦痛は僕を急速に蝕んでいく。どうにかなってしまいそうだ――……!!
遠慮がちなノック音と共に、扉を挟んだ向こう側から静かに僕の名を呼ぶルカさんの声に、苦悩が和らいだ気がした。
「寝ちゃった、かな?」僕はベッドから上半身を起こすと、そっとライトの魔法を唱える。
お邪魔しますと言って部屋の中へと入ってきたルカさんは、僕の様子を見て鳶色の目を見開き、言葉を詰まらせた。
「ル、ルシさん!? なんか腕から血が出てるよ! なんか汗もかいてるし!」駆け寄ると、僕の手に触れて、痛々しい表情を浮かべて二の腕に指を滑らせた。
ルカさんが指摘した通り、僕の寝間着には転々と血が滲んでいる。丁度、指をくいこませたあたりだ。
そして、自分が汗を……背中がしっとり濡れるほど汗をかいていたことも今更実感した。
「本当ですね」リスカ、とは……確か手首を切る自傷行為の略語だっただろうか。ルカさんの世界の辞書に載っていた単語だ。
なるほど、手首ではないけれど、自傷には違いない。
僕の部屋の勝手が分からないルカさんは、きょろきょろと辺りを見渡し、何かを探している。
恐らくこの状況では、救急箱のようなものを探しているのだろうと思われた。
「心配なさらずとも大丈夫です。傷は跡形も無く癒えますから」救急箱もないです、と出来る限りにこやかに答えると、ルカさんは何故か怒ったような顔をする。
「なんで、こんな事……しちゃったの? 嫌なことがあったの?」答えづらいことを率直に聞いてくる方だな、と思いながら僕は苦笑し、どうなんでしょうねとはぐらかそうとした。
「ちゃんと答えて! ルシさん、今日は少し変だよ。そうして、僕の首に手を回して、身体をすり寄せるようにして抱きしめてくれた。
ルカさんの匂いと温もりに涙が出そうになったけれど、今の僕に『寄り添ってくれることが嬉しい』と思う事は――出来なかった。
「…………ルカさんに……僕の悩みは、解決できるのでしょうか。びくりと、ルカさんの身体が動いて……そっと、僕の表情を伺うように身体をずらす。
「ルシ……さん?」僕は自分が今、どんな表情をしているのかもわからない。
心の中に、言いしれない澱みがある。どんなに掬っても、棄てる場所は無く溜まっていくだけ。
僕の顔を見つめるルカさんの表情は、何を言われるか分からない恐怖に強張っている。
「ルカさんは過去を懐かしく思ったり……元の世界に帰りたいと思ったりはしませんか?」彼女もまた、それは聞かれたくない事のようだった。
ルカさんは家族の話をすることも好まない。家族という単語を口に出すと、一瞬悲しそうにするのを僕も知っていた。
「毎日毎日、精を受けなければならない暮らしなど、耐え難いのでは?」もうこんな話やめて、と首を振って拒否を示すルカさん。
僕も、このくらいで拒否されるようでは話にならない気がしたため、ゆっくり頷く。
「わかりました。ルカさん、この話はもうやめましょう……傷つけて申し訳ありませんでした」そっと自分の身体からルカさんを離すと、当分一人にしておいてください、と告げる。
「ゆっくり気持ちを整理する時間が欲しいのです。こうして誰かと話すと悲しくなる」ルカさんに、僕を救えない事が分かってしまったから。そして、話せば話すごとに僕も少しずつおかしくなってきていることを理解した。
「でも、一人で抱え込んだらますますおかしくなっちゃうよ……ヴィルフリートとかクライヴさんに――」万が一、怪我でもされてしまったら治癒は出来ないかもしれないのだから。
そうしたら、僕は不必要とされてしまう。そうなるのも嫌だから。
「……どうしちゃったの、ルシさん……」おやすみなさい、と僕は告げて、ルカさんが部屋を名残惜しそうに出ていくのを見送った。
扉が閉まった音を聞き、僕は再びベッドに身体を沈めた。
ルカさんを傷つけてしまった。このままでは、みんなを傷つけて怒らせてしまう。
もうラムリエルの事も忘れたい。そうすれば、僕は治癒力が下がったことを悩むだけで済むのに。
ルカさんやクライヴさんに正直に打ち明け、話し合いを素直に行うことができるのに。
悲しみに打ちひしがれる僕に、再びあの気配が訪れた。