突如、僕に話しかけてきたのはラムリエルだった。
先日と全く変わらない気の性質。天使独特の清浄な気配は、この城の外から感じている。
「ラムリエル……」僕は気が流れてくる方向の天井を見つめ、ラムリエルに問いかける。
『どうしました? 今すぐにでも泣き出してしまいそうな顔をしていますよ、ルシエル。悪魔たちがそのような顔を見たら、さぞかし大喜びでするのでしょう』半べそをかいていると指摘されたことに、情けない気持ちと恥ずかしい気持ちも混在し、僕ははっとして自分の顔に触れる。
そのように触れずとも、自分の心と表情が歪んできているのは、既に分かっているはずだったのに。
恥ずかしいと思ったのは、何故なのだろうか。
そんなことはないと否定したかったけれど、僕はルカさんに躊躇なく心根の汚い部分を見せていた。
それなのに、天使として近しい存在であったラムリエルには隠したいと思って――確かに己の心を、存在を恥じた。
ひとつ、またひとつと、僕は己の狡猾さを露呈していく。
その事実ですら辛くなり、僕は身を丸めるようにして己の身を抱き、きゅっと目を閉じる。
『貴方を咎めに来たわけではありません。ルシエル……少しお話しませんか? 先日よりは、貴方の心も安寧を望んでいるのではないでしょうか』僕とは正反対の落ち着いた態度を崩さず、対話を望むラムリエル。
その言葉は、僕の頑なな心にゆっくりと沁みてくる――温かいとか冷たいという事は感じずに、ただじわじわと染み込んでくるだけだったけれど。
恨みがましい事が、口をついて出ていく。
ラムリエルがこなければと言っても、僕は遠くない未来にこうして悩んだかもしれないのだ。
「僕は天使としてでもなく、完全な悪魔ではない。そんな僕を連れ帰る? ――ではなぜ、今になってここへ来たのです!! 来るというのなら――」そこで、僕は言葉を切る。
言い過ぎたと思ってそうしたわけではない。
来るのなら『僕が完全に穢れる前に来て欲しかった』と、一瞬とはいえ思った事が身勝手で辛かったせいだ。
ルカさんは、操られていたとはいえ確かにあのとき僕を汚したけれど、彼女なりに傷ついた僕を匿い、助けようとしてくれていた。
でも僕は、ニーナさんが言っていた通り、もしもあの場で神に人間を殺せと言われたら、善意で僕を救ってくれたルカさんを殺せるほどに忠実な天使だった。
汚される前に助けて欲しかったなんていうのは、今の生活も、ルカさんへの気持ちも、ヴィルフリートの素直ではない親切も、クライヴさんの苦しみも、僕には全く必要ないと言っているに等しくなってしまうからだ。
僕が沈黙したため、ラムリエルはこちらから問いかけてよろしいでしょうかと許可を求めた。
無言で頷くと、先日と同じように、彼は【父】の事を僕に話して聞かせる。
『【父】は、ルシエルに戻ってきてほしいと願っています。僕と近い能力を持った、異なる存在であると指摘した。
しかし、ラムリエルは少しも動じる気配は無い。
『そうでしょうか。魂を拾い上げて少しばかり眠りにつかせ、聖なる力を蓄えるだけです。僕らには、病気・年月・寿命の概念は希薄だった。確かに僕も、一体いつから生きていたのかは覚えていない。
「前回も申しあげましたが……帰る気は、ありません」その【父】が戻って来いと言ったのならば、僕は天界史上初である、堕天からの帰還になるだろう。
望みを叶えてくれるなんて言われても、僕がかなえてほしい一番の願いは何なのだろうか。
もし僕が魔界からいなくなっても……ルカさんは……変わらないのだろうか。
ルカさんはもうどこへも帰る場所が無いから、ヴィルフリートやクライヴさんと、このまま暮らし続けるしかないだろう。
クライヴさんとルカさんが怪我をした時が心配だけれど、きっと……ヴィルフリートが、なんとかしてくれるはずだ。
ルカさんを想うと、胸が痛い。
この胸の痛みも、あの人が僕に与えたもの。
――そう、あなたは様々なものを僕に下さった。あなたがいなければ、僕はこんなに苦しまなくて済んだに違いない。
あなたもここに来なければ、死にたいと思う度に流した涙は、減っていただろう。
帰らないと言った矢先だというのに、僕はそんなことを口走っていた。
『どのような事ですか』心なしか、ラムリエルの反応も明るく感じる。
【父】の意向を僕が聞いてくれるかもしれないという期待を抱いたためだろう。僕の受けた穢れの罪を、ルカさんにも未来永劫背負って貰うという、ある意味呪いでもある印。
贖物の印のせいで、僕とルカさんは互いに近い場所にいなければ、彼女は魔界の瘴気をより多く吸収してしまうこともある。
この屋敷の中にいる程度なら安心だけれど。
しかし、ラムリエルは『贖物を消去すればいいのですか?』と訊ねてきたため、僕は首を横に振った。
天へ戻れるなら――それでも構わない気がします、と口にした。
できるわけがないのだ。そんなこと。
その言葉に、僕は心臓を握られるような思いがした。
僕は分かっているはずなのに、失念していた。
天使には、いえ……天界は、時間軸どころか――時空の概念すらも無い事を……!!
薄暗い部屋に、天井を突き抜けて一条の光が降ってきた。
光は収縮し、小さな結晶となって床で煌めく。
光の結晶となった透明な丸珠の中には、青白い輝きが明滅する。
銀河の星々を閉じ込めたような、淡く美しい輝きだった。
過ち、とは……一体どこからが僕の過ちだったのだろう?
悪魔と天使の戦争で、僕が燃え盛る紅蓮の炎の中に、穢れた人間を多数投げ込んだこと?
悪魔を追って天界に来たこと?
ルカさんを愛してしまったこと?
悪魔との暮らしも悪くないと、馴染んだこと?
きっと、僕ら天使は正義の名のもとに、多数の罪を犯したのだろう。
「……僕の罪は、一体何なのでしょうね……」僕は時の雫に歩み寄って、屈むと床から拾い上げた。手にしただけで息苦しくなるような高い魔力を感じる。
『床に叩きつけて、その宝珠を割るのです。時間は勝手に、巻き戻るでしょう……』さぁ、と叩き割ることを薦めるラムリエルだが、僕に動く気配がないのを悟ったようだ。
『自分で出した条件だと言うのに、決断する時間が足りませんか、ルシエル……? それならば三日だけ待ちましょう。それでもまだ貴方が迷うようであれば……』その時は、貴方の意思に関係なく強制的に連行します――と言い終わらぬうちに、僕の部屋の扉が大きな音を立てて開かれた。同時にラムリエルの気配も消失する。
音に驚いて反射的に扉のほうに視線を走らせた僕が見たものは。
憤怒に顔を歪ませたヴィルフリートと、無表情のまま僕を見据えるクライヴさん。そして――……。
事情が呑み込めず、おろおろとうろたえながらも僕にルシさんだよね、と問いかけてくるルカさん。
そんなルカさんへ『黙ってろ』とぶっきらぼうな口調で言って、ヴィルフリートは室内に足を踏み入れた。
血を思わせるような赤い瞳を向けてくるヴィルフリートは、努めて声を荒げないようにしながら僕に訊ねてくる。
しかし抜身の剣のような鋭さを帯びた声は、それだけで僕の身を硬くさせるに十分だった。
「…………」僕は、さしたる理由もなしに視線を背け、ラムリエルの事も伏せようとしたが……ヴィルフリートには通用しなかった。
大きく一歩踏み出したヴィルフリートは、僕の胸倉を掴むと乱暴に引き寄せ、手の甲で僕の右頬を打つ。
久々の痛みに僕は小さく呻き、唇を結んだ。
「答えろ!! お前は何考えて行動してんだよ!!」業を煮やして怒鳴り声を上げるヴィルフリートは、僕を掴んだまま数度揺さぶった。
「ちょっと、ヴィルフリート! ルシさんを殴ったりしないでよ!」ルカさんが僕とヴィルフリートの間にやってきて、ヴィルフリートの手を掴み引き剥がそうとする。
しかし、どんなにルカさんが力を込めても、ヴィルフリートの力は緩むことが無い。
昏い瞳でヴィルフリートはルカさんを見つめ、何やってんだか、と自嘲まじりに笑った。
「……ルカ。お前も本当になんにも分かっちゃいねぇバカな奴だよ……。ヴィルフリートの視線は、ルカさんから僕の手中……時の雫に落とされている。