※最終話はほぼ全編ルシエルの視点でお届けします。
心からの祈りを捧げても、僕の犯した罪は消えない。
天へ戻る資格もなくなった僕が、朝夕の日課としている神聖な時間。
この魔界で、誰一人として【父】に祈りを捧げるものなどいないのだろう。
祈りを終えて瞼を開くと、職人の手には遠く及ばない出来映えであっても、自らが心を込めて作成した祭壇が眼前にある。
これは大悪魔であるヴィルフリートの居城の一室を利用し、許可も得ず勝手に改修をしてしまったけれど、ヴィルフリートは文句を言っても撤去しろとは言わなかった。
輝かしく偉大なる【父】を模して作った偶像を見つめると、心が痛むと同時に天での暮らしを懐かしくも思う。
もう、僕には戻ることのできない場所なのに。
祈りを済ませ立ち上がると、毎回の事ながら寂寥感が湧いてくる。【父】の像を見つめ、再び過去を思い出した。
【父】は、僕をお作りになってから、とても深い愛情をくださった。人間たちがいう愛の在り方ではなく、過酷な試練を授けられたり、時には血や涙を流すほど苦しい出来事もあるような、存在を成長させ見守る愛だったのは分かっている。
僕がこの魔界に足を踏み入れてから今日に至るまで、本当に様々なことがあった。
その結果、僕は天へ帰還する権利を失い、愛する女性……ルカさんを得て。
この魔界にいて、命を狙われているかもしれないというのに、不自由はほとんどと言っていいほど感じていない。
僕は自らの翼を広げ、羽に手を触れて灯りに透かしながら見つめた。
羽の根元はまだ薄い灰色だが、先端に向けて徐々に黒くなってきていた。
堕天使とはいえ僕の翼は完全に黒化したわけではない。残り少ないとはいえ、まだ天使である部分も残っているようだ。
これが闇を纏うような黒になったのなら、僕の何かが変わるのだろうか。
そんな事を考えている僕は、自分でも滑稽な存在に思えた。
きっと、羽が黒くなってもこうして祈りを捧げることは止めないし、ルカさんを愛することも止めない。
僕は相変わらず中途半端な存在のようだ。
突然僕の脳裏に、何者かが語りかけてきた。
しまった、まさか敵だろうか。存在を悟られ、語りかけられるほどに僕の心に隙があったという事だろう。
「――誰だ!!」羞恥を押し隠し、僕は姿形を見せぬ者へと問う。
この感じはヴィルフリートではない。もっと、別の存在……そう、天使に……いや、もっと大きな存在だ。
『ルシエル、武器をしまいなさい。戦いに来たのではありません』僕は先ほどと同じ言葉を呟きながら、聞き覚えのある声の主を記憶から辿る。
『ルシエル。わたしを忘れてしまったのですか? ラムリエルです』僕はその名に懐かしさと親しみを覚え、ラムリエル、と口に出した。
そう言われてみると、この声は僕の記憶の中にあるラムリエルのものに相違無い。
ラムリエルと僕は、同じ日に【父】より生み出された天使。いわば……兄弟にあたるものだ。
生まれて暫くの間は生活を共にしたが、やがて僕らは別々の任へとつき、あれ以来ほぼ顔を合わせていない。
堕天した場合、その天使は神々の敵として認識されるため、天界にはすぐに堕天使の情報が伝わる。
だから、僕の事も当然敵として認識されているはずだった。
僕が考えたのは、本当に安易だけれど一番考えられる事。
僕に語りかけてくるラムリエルの神々しい気配は、城外より感じる。
流石に大悪魔のいる城内には入ってこられなかったようだけれど、外にいるほうが多数の悪魔に気取られて危険なはずだ。
そんな状態で、ラムリエルは僕へ『重大な用件があるのです』と返す。
僕を消すのではなく、他に用事……?
先を促す僕の気配を感じ取ったようで、ラムリエルは話を続行する。
青天の霹靂とはこのことだろう。
ラムリエルが淡々と口にした内容はとても衝撃的で、僕の思考を奪うには十分だった。
咎めるでもなく、純粋な疑問としての響きを乗せてラムリエルは尋ねてきた。
どうして信じないのかと。
すると、ラムリエルは何故なのですかと僕を責めるように告げる。
きっと、僕がラムリエルの立場であれば、同じように憤ったはずだ。何故戻ろうとしないのかと。
「……僕は、人間を愛したからです。例えその女性の魂が穢れても、僕は寄り添って共に歩み続けたいと思っているのです」その言葉は、誰に言われなくとも自分がよく理解している。
ルカさんには、人間の悪いところも良いところも理解しているヴィルフリートがいる。
クライヴさんも、同じ人間としてよく理解してくれるだろう。
この中で人間と一番関わりがなかったのは、僕だけなのだから。
『いいですか、ルシエル。人間は、愛する家族と共に過ごすことが一番良いと思います。ラムリエルの言葉を遮るように、僕は大声で拒絶の意を示していた。
ぴたりと押し黙るラムリエル。礼拝所には、怒りと悲しみに肩を震わせ、荒い息を吐く僕しか感じられない。
僕の返事を待たずに、ラムリエルは一方的に告げて帰ってしまったようだった。
気配が消えた後、僕はその場に膝をついた。
祭壇に祈りを捧げようとしたわけではない。僕の胸中には、無力感や絶望、そして……困惑が混ざりあい、自分でも抑えきれそうになかったのだ。
どうしてほしいとも考えられず、どうしたいのかも分からずに声を押し殺して、僕は泣いた。