【魔界で従者を手に入れました/48話】

欠片から溢れでるすべての光を纏ったような、強い聖光を放つクライヴさんの剣。

渾身の一撃はクドラクの心臓を易々と貫いて、悪鬼の背を貫通していた。


「塵に還るがいい」

クライヴさんはどこか悲しげにそう呟くと、剣を引き抜いて、クドラクから一歩離れた。

彼の眼前には、滅びを迎えるだけの、ひとの形をした『死』がある。

体にできた大きな風穴に手を添えて、クドラクは笑おうとでもしたか、口角を上げる。

だけど、そこから出たのは笑い声ではなくて、青い血だった。

その血ですら、砂のようにこぼれて消えていく。

「終の祈りを唱えるために、堕天使の力を借りるとは……愚かなものだな、クルースニク」
「そうだな。愚か者には愚かなりの方法がある。
力不足を、最善の方法で補っただけのこと。この魔界で、それができるとは思わなかったが――」

そう言ったところで、クライヴさんは突如その場に膝をつき……倒れた。

「クライヴさん!!」

いったいどうしたんだろう。どこか怪我をしたんだろうか?

「終の祈りは、本来一人で行うものです。
神に祈りを聞き届けてもらうため、己の力全てを消費します。クライヴさんも、無事では済まないのです」

と、クライヴさんの変調を平然とした顔でルシさんは告げていた。

……ううん、平然じゃない。ルシさんも、若干顔色が良くない――

――白かった羽は、前より黒ずんで全体が灰色がかっていた。

「ルシ、さん……」

私が羽を指せば、彼は少々悲しげに頷いた。

「我々も人間ほどではありませんが、神に聖なる祈りを捧げるときには力を消耗します。
神の元へ戻れぬ僕に残されていた力も、それなりに使ってしまったようです」

じゃあ、今までルシさんの羽が白かったり、聖水なんかを作ることができていたのは、その力があったから――?

自分の羽を撫でながら『僕の方はいいのですけれど』と言い、ルシさんはクライヴさんたちの方へと顔を向け、眉を寄せる。


「く、くく……。
終の祈りを使ったクルースニクも無事では済まない。
この男、最初から我を道連れにする気だったようだ……。
フフ……死ぬまで貴様と因縁があるとは、それも一興。先にあの世で、待っているぞクルースニク……!!」

言い終わると同時、クドラクの体が乾いた土のように砕け、さらさらと砂になり――その砂も、消えていった。


それよりも。

クライヴさん……。


「――終の祈りは、自らの命を以て力に変える技。
クドラクを討つため、わたしは何年も復讐を胸に生きてきた……」

うつ伏せに倒れているクライヴさんに歩み寄り、ルシさんがそっと抱き起こす。

外傷はないのに、クライヴさんは体を動かすことすら満足にできないみたいだ。

「すまない……ルシエル。君の力を借りなければ、あの吸血鬼を滅ぼすことはできなかったかもしれないんだ……」

クライヴさんの謝罪を、ルシさんは構いませんよと笑って許している。

その笑顔に、クライヴさんも僅かに頷き、良かったと口にした。

「――ようやく……何もかも終えることができる……」

安心しきったような声で、クライヴさんは呟いている。

「だめだよ! そんな――」

私が傍らにやってくると、クライヴさんは困ったように私の顔を見つめ、迷惑そうに眉を寄せる。

「……君に、言われると困る」
「なんでよ……こんな時まで、嫌わなくったっていいでしょ! 本当に、勝手に死なれたら困るんだから……」

半べそをかきはじめた私の頭を、なんか髪の毛が風に煽られてぐっちゃぐちゃになってるヴィルフリートが撫でる。

「別に君を嫌っているわけではなかったが。
そうだな……少し、クドラクの語っていた昔の話でも、しようか……ウァレフォルには話した、けれど」

クライヴさんは静かな口調ながらも遠い日を思うように、語り始めた。



「あれはとても寒い冬――クドラクは、わたしの家族が住んでいた村にやってきた。
もちろん、村人を襲い食料にするために。
わたしの父はそれに気づき、奴が潜伏した住処を特定して昼の内にクドラクを殺すため、着々と準備を整えていた……」
「お父さんもクルースニク……だったの?」
「ああ」

クライヴさんは、ハンターの家に生まれたんだ……。

「だが、当時からクドラクは小賢しく、父が気づいた時には、既に村人を数人魔眼で魅了し……その(しもべ)に加えていた。
奴もそこから、父が狩りの支度を整えているという情報を得ていたはずだ。
そして新月の晩。父が外出すると、奴らは行動を開始した……」

奴ら、っていうのはクドラクとその下僕って事かな?

すごい、あの無口な人がいっぱいしゃべってくれているよ。


「――父を数人が引き付けている間に、家にクドラクが入り込んできた。
直前に異常を察した母は咄嗟にわたしと姉を床下へ隠し、クドラクの牙を受けてしまった」

当時の記憶は、まだクライヴさんの心に深く残っているんだろう。

十数年経った今でも、当時を思い出して彼の表情は、苦痛に歪んだ。

目の前で、そんな悲劇が起こっていたなんて……。

「そこで、クドラクは母の血液を吸い、父や村人が駆けつける前に姿を消した。
その夜はそれ以上の出来事はなかったが――被害に遭っていない村人たちは、当然我々への接触を避けた。
吸血鬼に噛まれた者、いや、母が助からないことは誰の目にも明らかだった。
母も己が異形の者になっていくのを感じ取り、死にたくないという恐怖はあっただろう。
それでいて、クルースニクである父に、最後の情をかけて欲しいとも願っていた。
父もまた、クルースニクだ。頭では母を殺さなくてはいけないと分かっていたのだろう。しかし……」

クライヴさんは、そう言って唇を噛みしめる。

「――殺せなかった?」

クライヴさんの言葉から予測をしてみると、彼は『ああ』と同意した。

「父の苦しみはわたしでは推し量ることはできない。
一日一日、人間ではなくなる母……殺さなくてはいけないとわかっていても、母はまだ人間だと言って、父はその剣を振るうことはできなかった。
その末路は、吸血鬼となった母親が奇声を上げながら、村人の喉笛に牙を突き立てた――あの絶望と悲しみは言葉にできない」

その時の事を鮮明に覚えているらしく、クライヴさんは記憶を振り払うようにゆっくりかぶりを振った。

「結果、父はクルースニクとして自分の妻だった女を、僕と化した村人たちを屠った。
雪の降る夜、倒れた母の体は白く、雪上に散った血は紫色だった。
塵と消えていく母に、雪が降り積もるような、母が雪となっていくような……どちらとも思える悲しい光景だったのは、今でもはっきりと覚えている――が、当然クドラクの楽しみはそれで終わらなかった」
「え……」

まだ、陰鬱な話があるみたいだ。


「クルースニクが吸血鬼から人間を守る、と多少理解して居る者もいたようだが、自分の愛する者を奪われる悲しみは、たやすく人を狂わせるものだ。
吸血鬼によって最愛の者を奪われた村人の一部は、父が『クルースニクではなく吸血鬼なのではないか? クルースニクならば、人間を助けてくれるはずだった』と……実に自分たちへ都合のいい、身勝手な言動をするようになった。
愛する者を奪われたのは父も同じだったが、反論はしなかった。
言っても無駄だと思ったのかどうかはわからない。ただ、父はわたしに剣の手入れをしておくようにと、愛用の剣を渡してくれたのみだった。
今思えば、父はそのとき既に決めていただったのだろう……。
それに、事態はどんどん悪い方向へと向かっていき、村人の雰囲気もすっかり変わってしまい、例え父が何か言ったとしても収拾がつかなかったに違いない。
妄執にとりつかれた村人はどうしたと思う?
父は殺された。憎悪にとりつかれた村人に……」
「うそ……」
「それも、クドラクが一部扇動していたようだ。わたしと姉は、村人の捜索をかいくぐり必死に逃げた。
父の託した剣を持って逃げたんだ。
降る雪の冷たさが心身に染みて、何に対しての恐怖かはわからないものが氷のように心に張り付くような苦しい日だった」

クライヴさんの目には、悲しみが宿っていた。

その剣は、クライヴさんのお父さんの……形見みたいなものでもあったんだ。

クドラクのやつ、そんな酷いことを昔っからやってたんだね。なんだか、怒りがフツフツと沸いてくるよ。


「どこをどう通っていっただろう。わたしと姉は互いを励ますようにしながら、幾つかの村や街を転々として逃げた。
一カ所に留まるのは怖かったんだ。
そして、わたしと姉は山を越える途中、たまたま同じ方向へ行く旅楽団の一員と巡り会う。
みすぼらしい子供二人がろくな荷物も持たず、山を越えるなんて普通じゃない。
好意で馬車に乗せてもらい、クドラク関係のことは伏せたが……言葉を交わすうちに同情されたのだろう。
少しの間下働きとして共に暮らすことを提案された。
わたし達も、とりあえず一カ所に留まらない生活は続けるつもりだったし、満足な食事と暖かい寝床は魅力的な条件だったから、一も二もなく了承した」

おお、よかった。ずっと指名手配犯みたいな逃亡生活じゃなかったんだ……!

「それって、クライヴさんが何歳くらいの時なの?」
「6、7歳程度だと思う」

げっ。超子供じゃないか。そんな小さいうちから苦難の連続とか……それ朝のテレビドラマ化されたら、日本中の奥様の涙を誘うよ。視聴率50%越えてしまうよ。

そんなテレビドラマ怖くて朝から見たくないのはともかくとして。


「姉もわたしも、懸命に働いた。掃除や洗濯、興行後の片づけが主な仕事で、時折楽器を教えてもらった。
毎日忙しかったが、それでも……音楽は好きだったし、違う街に移動する暮らしは楽しかった。
そうだな……楽しかったんだ。
過去を振り払うことはできなくても、悲しみが薄れるくらいにはなった。ようやく笑うことが出来る生活を送っていた」

やばい、子供クライヴさんの笑顔って絶対かわいいんじゃないの。

今がこんな風になっちゃってるからよけいに貴重っぽい。

クライヴさんのお姉さんともども、見たかったな……どんな人なんだろ。この弟さんを見た感じ、姉も美人っぽいよね。

と、クライヴさんはそこで何かの痛みを感じたのか、顎をのけぞらせる。いっぱい喋ってたし、無理をさせてしまったかも……!

「クライヴさん、もう喋らないほうが――」
「もう少し、だけ……喋らせてくれないか。
わたしの事は、構わなくていい。多分、もう持たない」
「な、なにバカな事言って……! 勝手に死ねるわけないでしょ!」

動揺する私を見て、クライヴさんは何かを諦めたような、哀愁ある表情になる。

「――わたしの最たる願いは成就したんだ。
祈りは届いた。もう、クルースニクとしての力もなくなる」

でも、ルシさんやヴィルフリートも何も言ってくれない。なんで、クライヴさんはすぐ命を投げ捨てるかな……!

「だったら、もうこれからは何かに縛られることなく生きていけばいいじゃない! 死んだら許さないから!」

私の怒ったような声に、クライヴさんは寂しげに笑った。

「懐かしいな、その言葉。姉と最後に交わした言葉が、それだった」
――クライヴさんのお姉さん。
「そうだ、クライヴさんのお姉さんは今どうしてるの……?」
「死んだ。楽団で行った先の街で、再びクドラクと出会って……襲撃を受けてしまった」

じゃあクドラクが、クライヴさんの家族を全て奪ってしまったんだ……。

私が黙ったのを見て、クライヴさんは再び話してくれた。


「また、あの夜が繰り返された。既にクドラクの僕となった者が、人を噛み、爪で切り裂く。
突然の事に混乱した街の人は、恐慌状態に陥った。
殺される前にと鍬や鉈を手にし、逃げまどいながら目につく者を攻撃していくという、地獄のような……いや、地獄だった」

目が合えば殺されるかもしれない。それはさぞ恐ろしい光景だろう。

「幼いわたしには、どうすれば村人たちが落ち着くかなどわかりもしなかった。
わたしは、その時……逃げるか戦うか迷っていた。
吸血鬼と化した人間は助からないと、自分の村で嫌というほど学んだ。
だが、わたしは剣術もろくに知らず、体格はもとより力でも、一般の人間にすら立ち向かえなかっただろう。
いつ自分が殺されるかと思うと、恐ろしくて涙が出そうだった。
死にたくない、助けて欲しいという気持ちで、父の遺した剣を握りしめていた――そんなとき、私の肩を誰かが掴んだ」

誰だとか、逃げようとか、そんな些末なことはその恐怖の衝撃で一気に吹き飛んだと、辛そうに語るクライヴさん。

今はこんなに勇敢なのに、というか、そんな小さいうちでは臆病でもしょうがないよ。

「わたしは、恐ろしくて振り払おうと、剣を振るったんだ……しかし――父は、身勝手なわたしを死してなお許さなかったのかもしれない。
剣は、わたしの肩を掴んだ人物に刺さってしまった。
フードをかぶった人間が、ゆっくり崩れ落ちたのを見て……わたしは叫んだ――『姉さん』と……」

混乱の中、弟が立ち尽くすのを見つけたお姉さんは、クライヴさんと一緒に逃れるために近寄ったのだろうか。

それなのに、不幸な事故が起きてしまった。

「泣きながら何度も姉を呼ぶわたしに、彼女は大丈夫だと微笑んだ。
そして……もう吸血鬼に縛られずに生きろと。
死んだら許さないと告げて、彼女は息を引き取った。
また、雪の降る日に、わたしは家族を失った。
しかも……自分が助かるために、自らの手で家族を殺してしまったんだ」

クライヴさんがそんな重く悲しい出来事を淡々と語っている。

雪が嫌いだと語ったのは、大切な誰かが死んだ日を思い出すからなのかも。

守るべきものもなくなって、憎悪だけでクライヴさんはここまで……雪の降らない魔界にやってきたのかな。

「――魔界で、姉の面影をみるとは、思わなかった。
君は全く姉とは違うのに、なんというか……魂の質がとても似ている」
「?」

魂の質。

また難しい単語が出てきたけど。

「詳しく説明してやってもいいが、ざっくり言うとオーラだ」

私が困りきった顔をしているのが分かったようだ。

黒髪を指で梳きながら答えるヴィルフリートの言葉は多分説明をものすごく省いているん、だよね。


「クライヴは、お前が自分の姉の転生体かとも疑ったそうだ。
ま、仮にそうだとしても、必要以上に近づきたくはなかったんだよ」
「私が? お姉さんの?」

なにそれ。クライヴさんのお姉さんって――……。

「姉に魂の質が似ていると言っただけだ。姉はもっと慎ましい」
……一緒にされたくないのは分かるけど、地味に傷つくな。その言葉。
「だいたい……私たち住んでた世界も違うでしょ?」

すると、ルシさんとヴィルフリートは、それはさしたる問題ではないのだと言った。

「魂は次元を越える。それに、こっちの世界でお前がこうして生きていられるのは、この世界にお前がいなかったからだろ?」

前聞いた理屈じゃそう、いう、ことに……なるんだろうけどさ。

「……急に私より年上の弟ができても……」
「だから違う! 気の迷いだっただけだ!」

クライヴさんが語気を強めて反論したが、急にがくりと体が揺れ、ルシさんの腕の中に倒れ込んだ。

「すまない……。もう、限界のようだ……」

弱々しく答え、クライヴさんはルシさんやヴィルフリートに、ありがとうと告げた瞬間。

クライヴさんの愛用していた剣が、粉々に砕けてしまった。

衝撃で飛び散った破片は砂粒のように細かくて、きらきらと白く輝きながら宙を舞う。

まるで、それは――雪のように。


「最後の雪は、自分のために見るのも……悪くない」

フッと笑ったクライヴさんは、少しずつ瞼を閉じていく。

「ちょっと、クライヴさん……!」

やだ。死なないでよ!

慌てて彼の手を握ると、ほんのわずかだが、その手を握り返してくれた。


「ありがとう……姉さん……」

クライヴさんは瞼を閉じたまま、そう告げて――……。

ずるりと、その手から力が抜け落ちた。


「――クライヴさん!!」

私が大きな声を出すと、ルシさんは人差し指を自分の唇の前へと持ってきて『シーッ』と私を宥めた。

何言ってんの! シーじゃないよ! クライヴさんが死んじゃっ……――た、わけではなかった。


小さな、寝息が聞こえた。


凄い死亡フラグ出しといてクライヴさん――生きてる?

「死んだわけではないです。クルースニクの力を失ってしまったんですね。力を出し切って、疲れて眠ってしまったようですよ」

その言葉に安堵と疲れがどっと押し寄せてきて、私は大きな息を吐きつつ、すやすや眠るクライヴさんの肩に頭を乗せた。

「びっくりさせないでよ、もう……本当によかった……」

間近で見たクライヴさんの寝顔は、とても穏やかで。

「クライヴさんにとっても、憑き物が落ちた、みたいな感じなのかもね」
「そうかもしれねぇけど、目標が無くなった人間ってのも結構面倒くさいぜ。
何せやりたいことがもうないからな。ましてやこんな何にもない魔界だ。知らねえぞ、俺ァ」

と、ヴィルフリートが私とクライヴさんを交互に見つつ、また居候も増えたなと肩をすくめた。




クドラクを討ち果たした私たち(ていうかクライヴさんの手柄なんだけどね)は、日々それなりに穏やかな日々を過ごしている。


クライヴさんは、終の祈りを使ってしまったのでクルースニクとしての力を失ったらしく、動物に変身できなくなったと言っていた。

つまり、普通の人間になったという事。

彼の時間はクドラクに噛まれる前に戻しているんだから、クルースニクっていう仕事? も、そのまま継続になるのかと思っていたんだけど……戻している時点から怪我をしたり、力が増えたり減ったりしたらその通りになってしまうらしい。

じゃあ、クライヴさんがまた噛まれたりしていたら、お手上げだったって事なのか。

それはとても危なかったんじゃないか。

で、変身できなくなったクライヴさん、残念ながらというか当たり前っていうか、能力もパワーダウンしちゃったようだ。

筋力や瞬発力だけではなく、五感が全体的に下がってしまったらしい。

あの聴力が落ちたのはありがたいけど、本人にしてみたらかなり遠くまで見えていたものが少し遠くまでしか見えなくなったり、吸血鬼のニオイも嗅げなくなって不便なんだろうな……嗅ぐのかは分からないけど。

で、私の首筋にあった刻印も消えたため、野良吸血鬼が襲いかかってくる心配もほぼ無い。

あったとしても、ヴィルフリートの名前はこの辺では有名だし、クルースニクがいるという噂も既に広まっていたようだったから、それが防犯の役割になっているみたい。

ようやく平和という名の【暇】が訪れたクライヴさんにとって、人生っていうのは復讐という目的を果たすための時間だったので、それを終わらせた今、やることがない。

定年まで働いてきたおじさんみたいに、目的意識が無くて困っている。

専ら暇をつぶすこと――家の掃除をしたり、時々私の食事作りを手伝ってくれたり、訓練に立ち会ってくれたりと、何かと世話を焼いてくれる。

ただ、調子に乗って『お姉ちゃんって呼んでもいいんだよ?』って言うと、クライヴさんは私を殺しかねない恐ろしい形相をする。


――禁句だからもう『お姉ちゃん』ネタは二度と使わないって決めた。


あれは何人か殺してる顔だよ。

それ以外は結構素直にお願いを聞いてくれるし、私やみんなに前よりは心を許してくれたように思う。

ご飯もちゃんと食べてくれるようになったけど、お陰様で少し太ったと言ってあんまり変わっていないと思われる上半身を鏡に映して見ていた。

どうせあれでしょ。クライヴさんの太った、は体脂肪率が数パーセント上がった程度なんでしょ。

それを見ていたヴィルフリートが『明日は霜降り肉の分厚いステーキにしようぜ』といってクライヴさんをからかって遊んでいる。

ルシさんも、僕はお魚の方がいいですとか言って……まぁ、こんなふうに日々を過ごしていたりもする。


「なんでそうやって、ウァレフォルは人の悲しみを煽るんだ!」
「そう嫌がる事無いだろ。家族みてぇなもんなんだからよ」

スキンシップなんだよと言って、つっかかるクライヴさんに笑顔を向けるヴィルフリート。


――家族、って言葉に、私の胸はちくりと痛んだ。

お母さんも、お父さんも今何してるんだろう。

私がいなくなって探し回って、疲れて泣いたり、してないかな……。

私のせいで喧嘩したりしてないかな……。


両親の顔を思い浮かべると、なんだか息が詰まりそうになる。


「……ルカさん?」

ルシさんが椅子に座ったまま、私を注意深く見つめていた。見られていたことにも気がつかなかった私は、今更ハッとした顔でルシさんを見つめ返す。


大好きなルシさんの紫色の目は、いつもこうして私のことを見つめている。

でも、こういうときに私を見つめるルシさんは、私の心の内を探るようで……苦手だった。

「んー? そだね、か……家庭的、で楽しい」

家族みたいだ、と言ってあげたかったけど、ちょっと言葉がすんなり出てこなかった。

ほんの一瞬ルシさんは悲しそうな顔をして……全くですね、と、いつもみたいに笑ってくれた。


私はルシさんも、ヴィルフリートも、クライヴさんも大好きだよ。ずっと一緒にいたいって本気で思う。

だけど、やっぱり……親とも、友達とも一緒にいたかったよ。



そして、また私たちに大問題が降りかかってくるなんて、このときはこれっぽっちも思わなかったのだ。



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