【魔界で従者を手に入れました/16話】

「あ……お帰りなさい。勝手に浴室をお借りしていました」

部屋に戻ってくると、汚れを落として綺麗になったルシさんが待っていた。

服はそこに置いていなかったから今まで着ていたものでもしょうがないけど、タオルを頭の上からすっぽり被り、髪の毛の水気をとっているところで、私が帰ってきた気配に気づいたらしくタオルの隙間からこちらを見つめている。ちょっと嬉しそうにしてくれるところがなんだか……嬉しいな。

「どうぞどうぞ。お湯大丈夫だった?」

私がニーナと長話をしている間に、どうやらルシさんは入浴をしていたらしい。

マイバッグを適当なところに置いてから改めて拝見すると……おお。

ルシさん本来の色合いは、いかにも『天使!』イメージどおりであり、思わず見惚れる美しさだった。

プラチナブロンドの髪はまだ水分を含んでいるけれど、くすんだところが全くない。

背に生えている天使の証でもある純白の羽は、薄暗い室内でも浮きだして見える。その姿は、穢してはいけないもののようでとても神々しい。

やっぱり私の目に狂いはなかった。何がって聞かれたら困るけど、なんかそういう……勘?
「湯は、バルティノマイランによって汚染されていましたので、湯を張った後、自分で浄化させていただきましたよ」

バル……?


……ああ、魔界草の正式名称かな……。


というか、今! 今ルシさんが凄いことを言ったんじゃない!?

「ルシさん! あなたお水の浄化が出来るの!? この魔界でそんなことができるの!?」

そこに食いついた私の剣幕に押されたルシさんは、目を丸くさせて『はい』と若干引き気味に答えた。

「この部屋程度の空間であれば、瘴気もとり払うことが出来ますよ。ルカさんも、これなら息苦しくはないでしょう?」
……そう言われてみれば、なんだかいつもより空気が淀んでいない気がする。

最近あれが普通みたいになってるから、綺麗な空気って……こんなにいいものだったんだ!!

「僕の浄化能力は自分の為でもありますけれど、少しでも貴女に喜びがあれば嬉しい」

にっこり笑ってすごい事を言っている……!!

なんなのこの人! 神なの?! いや、天使だから似たようなものだ! ルシさんマジ天使!!

ありがとうと何度も言いながら、ルシさんの手をがっしり握ってぶんぶん上下に振る。

ルシさんはちょっと困惑気味だが、いいんだ。感謝の気持ちだ! 遠慮しないで受け取ってくれ!


「……あ。そういえば、ルシさんに錠剤を渡さなくちゃ。これ、気配を抑える薬と、栄養剤」

ペットボトルの水と一緒に、さっきニーナから貰った薬を渡す。

「ありがとうございます……これは、噛むのですか?」
「飲み込めばいいんじゃないかな?」

ルシさんは不思議そうに掌でころころと転がしていたが、やがて意を決したのか口に放り込むと、水でゴクリと流し込んだ。

水が大好きなのか、美味しいのかよくわからないけど、500mlのペットボトルを一気に飲み干して『はぁっ』と大きな息をつく。

「一気に飲まなくても、取ったりしないからゆっくり飲んだら?」
「はい……。ですが、二十日ぶりくらいの水は凄く美味しいです」
……二十日も、水飲んでなかったんだ……。
「そんなに長い間食べたり飲んだりしなくて、平気なの?」

人間的に当たり前の疑問をぶつけてみると、ルシさんは『我等はマナを食べますから、普通の食事は別段取らずとも大丈夫でした』と、意味不明なことを教えてくれた。

「マナ?」
「ああ……ルカさん達は知らないかもしれませんね。甘くて薄い食べ物ですよ……
しかし、一応天から地上へ降りるときには、肉体を持つことを許可されるものも居ます。悪魔との戦いになった時に武器も振るえませんし、人間には見えないことも多いので」

その時には、食事が必要になるのでこうして水を飲んだりパンを食べたりしますね――と言っている。

「……つまり、今のルシさんには食事は必要なの? 必要じゃないの?」

天界とかどうでもいいし。私どうせ行けないですし。

すると、ルシさんはもう一本手渡したペットボトルを両手で包み込みながら、心なし小さい声で

「…………必要、です」

と俯いた。

「じゃあ、後でご飯作ってあげなくちゃ。一緒に食べよう」
「……ありがとう、ございます……」

照れているのか困っているのかわからないけど、ルシさんってなんか反応が初々しくて、ちょっと可愛い。

こういうからかいたくなる系男子って、いるよね。

しかし、錠剤を飲ませてからこうして暫し歓談していたら……。

ルシさんの顔色が徐々に険しくなっていく。息遣いも、だんだん荒く大きくなっていく。

「あの……ルシさん? どうしたの?」

私の声が聞こえていないのか、それどころではないのか……ルシさんは私を視界に捉えて首を振ると、胸を押さえつつ椅子から転がり落ちた。


「ルシさん!!」

慌てて椅子から立ち上がって彼の側に駆け寄ったものの……荒い息を吐くルシさんは、私を押しとどめて近づかないようにと言った。

「だって、どうしちゃったの……? 具合悪そうだよ……どこか傷が痛む?」
「いえ……違います。なんだか、身体が熱くておかしいのです……」

今まで体験したことのない、高揚とも不安とも違う落ち着かない気持ちなのだという。

「とりあえず、床じゃなくて……ソファでもベッドでもあるから、そこに座って。掃除はしてないから、ちょっと埃っぽいかもしれないけど……」

ルシさんに手を差し伸べるのだが、彼はその手を握るどころか触ろうともしない。

私が近づくと、何故だか拒否するように首を振ってばかりいる。

「ルカさん、お願いです。今の僕には近づかないでください……! なんだか、貴女の香りを近くで感じるだけで、さらに落ち着かなくなります……変な気分になるのです……!」

少々怯えの混ざった目で見つめられるけど、なんか臭いのかな、私……でも、こんなになってる人をほっとくのも……。


「薬、効いたみたいですわね」

困り果てている私の後方から突如、声が聞こえたので振り返ると――先ほど帰ったと思っていたニーナが、戸口に立って薄く笑っていた。

「ニーナ……? どうして……?」
「ルカちゃん。この天使様……ルシエルはね、セラフっていう、偉ぁーい天使様のうちのおひとりなの。
あたしたち悪魔の『敵』なのよ。それを、一旦は必死で捕らえたんだけど……やっぱり天使の力は凄いわね。
身体に拘束具をつけておいた状態だったのに逃げ出したの。
血眼になって探したんだけど見つからなくて。あたしにも捜索依頼が舞い込んだわ。
でも運が良かったのね。ここに連れてこられ、匿われていた。こんなのが魔界でへとへとに弱っていたら……そのまま帰してあげるわけ、ないでしょう?」

だから、ルカちゃんに薬を渡して協力してもらったの……と言ったとたん、脂汗を浮かせたルシさんが私に悲しそうな眼を向けた。

「ルカさん……、貴女はっ……僕を売ったのですか……!」

ルシさんの言葉の意味は、ずしりと重かった。


――……売った? 私が、ルシさんを裏切った、ってこと?

意味を理解し……愕然とした。

違う。そんなことしてない!!


「な……違う! 私は、ルシさんを売ったりなんかしてないよっ!! 信じて!!
私は、ただ……ルシさんが元気になるまでここにいたらいいって思っただけで……!」

必死で説得しようと試みても、ルシさんの表情は晴れない。

信じてほしいと言った私に、ニーナが『お馬鹿さぁん♪』とくすくす笑って私の耳元で囁いた。


「ねぇ、ルカちゃん……『信じる』って、出会ってすぐに出来ることなのかしらぁ?
いくら天使様だって、そこはドライよ。神様に言われたら、可愛い可愛い寵愛されてた人間も見限っちゃうんだから。
ましてや、魔界にいる人間なんて得体の知れない存在……こんなお高く留まった天使様が信じるに値するのかしら?」
「でも、私はルシさんを殺そうとか、誰かに売ろうとか思ってなかったわ!! こんなところで独りぼっちで、しかも悪魔に殺されちゃうのは辛いって思ったから……!」
「ホント? どうせ、人間は傲慢だから『可哀想』って思ったんでしょ?」
「…………」

ニーナの言葉が、心に痛くて私はかぶりを振る。

でも、否定しようとしても言葉が出なかった。ニーナが言った事もウソじゃないから。

こんな話をしてる中、ルシさんは身体を抱えるようにして苦しんでいた。

「ニーナ!! ルシさんを殺さないで! 解毒薬とかを頂戴……!」

ルシさんが死んじゃう……!

でも、ニーナは腕組みして本当に不思議そうに、ルシさんの顔を覗き込む。

「どうしてそこまで、こんな天使に情けをかけるんです? 好きでもないんでしょう?」
「好きとか嫌いとかじゃないの! 助けたいって私が思ってるだけよっ!」

こんな時なのに、ニーナは面白そうに笑った。

「人間は、詭弁を弄してばっかりね……いいわ、自分でも気づきたくないなら――あなたの心の裡を当ててあげましょうか。
ルカちゃんは、本当は凄く寂しいんでしょう?
こんな悪魔ばかりのところで暮らさなくてはいけなくなって、人間は誰もいない。
唯一、一緒にいるヴィルフリート様とはただの肉体の関係だけ。
あなたはね……信頼っていう……心の繋がりも欲しかった。そんな満たされない気持ちで居るところに、天使を見つけて……『一人』というところで、共感を覚えたんでしょ?」
――ここまではっきりと読まれていると、何も言い返せない。辛くて、私は耳を塞いだ。

ニーナの言葉を私だけじゃなく、ルシさんも苦しそうにしながら耳を傾けている。

「この天使様だってそう。たまたま人間がいて、尊敬の眼差しを向けてもらったり、優しくされたのがちょっと嬉しかったんでしょう?
本来こんなところにいる人間なんか怪しいに決まっているわ。
……だって、人間がこの瘴気の中で平然と生きていけるわけないんですもの。
悪魔の所有物であるとか、そうも考えたけど……『襲い掛かってくるようなら殺せば良い』程度にしか思ってないでしょ?」
「そんなこと、ルシさんが思うわけ――……」
「そうかしら。彼の顔、見てご覧なさいよ」

すると、ルシさんもそういう疚しいところがあったのか……目を閉じて顔を逸らす。

「…………ルシ、さん……ウソでしょ……?」

ルシさんは何も言わない。

「……ねぇ……嘘だって言ってよ」
「…………事実です」

身体の苦しみだけじゃなくて、彼の良心も軋んでいるらしい。

ごめんなさいと謝って、ルシさんはますます苦しそうな表情を見せた。


そんな。


悪魔だけじゃなくて。天使も、私を……人間を信じてはくれないの……?

そんな私たちを見て、ニーナは『二人とも同じなの。満たされたいけど、自分が傷つきたくないのよ』と、嘲笑した。

返す言葉もない私たちに……いや、私に、ニーナは囁く。

「そんな風に思われてたのに、それでもこの天使様を助けて差し上げたいの?」

あなたを殺そうと考えていたのよ、とも囁かれる。

「……殺される前に、殺せ……とでも言うの?」

私の殺すという言葉に……ハッとした顔のルシさんをじっと見つめながら、自分の口から出ていった声が存外に冷えているというのが、わかる。

「あなた次第かしらね。殺したければ殺していいのよ。
あたしたちの好きにしていいなら、このままこれを放っておいて……他の悪魔でも呼んでくるわ」

なんだか、虚しい世界だ、と思った。

信じられる人もいなくて、自分は利用されるだけ。

……それは、ここに限った話じゃなくて人間社会の中でも……同じ事があるのかもしれないけれど。

磨かれた床に、ルシさんのぐったりした身体が横たわっている。

苦しそうに胸を大きく上下しつつ、私から視線を外さない。

今、彼はどんな気持ちなんだろう……。


「ニーナ……私……ルシエルを助ける。
私がそう決めたから。どうせ、ヘマして私が死んだって……ヴィルフリートが翠涙石分、大損するだけでしょ」
「…………」

私は解毒剤をちょうだい、とニーナに右手を差し出した。

「助ける……それで、『どうなっても』構わないのね?」

実を言うと……自暴自棄に陥っていたりする。

なるようにしかならない、そう言うと、わかったと頷いたニーナが何故か私の額に指先を置いた。

その途端。

バリッと電流が額から全身に走るような感覚があった後――私の身体に異変が起きる。

「……っ?!」

ゾクゾクとした、全身が震える感覚。

これは……そう、この感じ。ヴィルフリートに慣らされたから……わかる。

鈍く脈動するというか……身体が、内側から疼いている。

「あ……、あっ、ニーナ、これっ……! ……どういう、こと……?」
「どうって……天使様に飲ませた薬、別に毒じゃないんです。
いくら弱っていても、殺すのはあたしたちレベルの悪魔じゃ肌に触れることすら難しいですから……
さし上げた赤いカプセルは、主に人間に使う催淫効果のある草を鍋に入れて、煮詰めた液体を固めたものですよ」
……あの、お爺ちゃん顔の魔界草のことっ……? あいつ、次見かけたら絶対根こそぎ刈り取る……!!

そして尚、ニーナは平然とひどいことを口にした。

「対処法はひとつだけ。ルカちゃんの身体で、天使様をいっぱい穢して差し上げるの。
あたしは天使に触りたくないし、こんなふうになってもまだ聖なる力が強いから、あたしみたいな悪魔が天使と性交なんてしちゃったら、アソコが焼けただれて使い物にならなくなっちゃうもの」

ニーナは、こんな綺麗な顔をしていても、あんなに甲斐甲斐しくしてくれても……『悪魔』なんだ。

「……あなた……私にまだそんなことさせて……!
自分もヴィルフリートにどう言われるか、何されるか……わかってるわけ?」
「あら。天使を匿うことについては『事がすむまで』と口止めをお願いしたのはルカちゃんの方でしょう?
自分から頼んだことだったら、ちゃんと最後まで面倒見ないと……誰にも信頼されてもらえませんよ?」
「くっ……!! よくもさらっとそんなこと言えるわね……!」

頭に来て腰の剣へ手をかける前に、いち早く察知したニーナが私に掴みかかると押し倒し、ブレードベルトを剥ぐように奪う。

「ちょっと……! やめなさいよっ! 離して!」

ニーナはそのまま馬乗りになったり、私の顔を撫でた。

「そんな危ない事はしないでくださいね。
さ、天使様を助けるんでしょう? 早く始めちゃってください。あたしに、天使様が神から見放される瞬間を見せてください……?」
「やだ、そんなの……! ルシさん、逃げ――」

言い終わらないうちに、私の身体に、再び電流が走った……。



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