リスピア王国の首都から西に向かった先にある緑が豊かなルドテルズ高原。
多種多様な植物が生い茂る場所として有名であり、今日もそこには夜も明けきらぬうちから採取目当ての薬師や地元民などのまばらな人影があった。
山中なので薄暗いことに加えて朝靄がうっすらとかかっており、視界も決して良好だとはいえない。
そんな状態であるにも関わらず、皆足下ばかりに視線を落とし、僅かな日銭を稼ごうと熱心に山野草を探す。
その山中にどんな者がいたとしても……そう、例えば魔族とすれ違ったとしても――誰一人とて気がつくはずもなかった。
霧に溶け込むような白いマント。
すっぽりと頭から足首までを覆った出で立ちの男は、嫌悪を滲ませながらそう口にする。
その呟きは誰にも聞かれることはなかったが、よしんば誰かの耳に届いたとして真の意味を理解する事は出来なかっただろう。
たとえ事件が起きてもリスピアには優秀な女王と騎士団が居る。
魔族との小競り合いは多くとも、己の身に決して厄災が降りかかることはない――。
それを疑問に感じることなく暮らしているのだ。
彼らは束の間の平穏がいつまでも続くと思っている。
そう、いつまでも、だ。
男は精神的な不快感を覚えながらも、近場の樹木に手をついて山道からリスピア城の方角を見つめる。
小指の先ほどに見える城の周りには、ちらほらと街の光が灯されているのがわかる。
あと一時間もしないうちに夜明けが訪れ、あの街の光はひとつ、またひとつと消えて新しい朝を迎えるのだろう。
口元をフェイスマスクに覆われているため、男の詳細な素顔は確認できないが……唯一晒されている赤い眼がきつく細められ、憎しみが煌々と燃えているのがわかる。
「クソ……何もかもが忌々しいんだよ」強い感情は、ついに口をついて発された。
肚に留めておけぬ憤り。
棘のある言葉は、リスピアの民……だけではなく、己に任務を告げた女に向けられているのだが、男自身、それに気づきはしない。
玉座の側に立ち、愛おしげに天幕を撫でる【呪われた黒】を持つ女――アイオラ。
『無礼な!! アイオラ、その薄汚い手を王の側より退けろ!』自らの主君への敬意すら感じられぬアイオラの振る舞いに、カリュプスも声を荒げざるを得なかった。
『王自らのご命令? ふん、また貴様の勝手な思惑から発しただけだろうが! 驕るのもいい加減にしろ!』そういってこんな仕事を、誰もが羨む魔王の近衛に任せた、あの黒い女。
無論、このような下らぬ仕事を押しつけられたことに憤っている――だけではない。
全ては魔王様のため、だと嘯いているが、あの女はティレシア王家の厄災。
何かを狙っているに違いないのだ。
幾度手にかけてやろうか数えるのを止めたほどに強い殺意が芽生えている。
それはきっと、他の近衛達も一度は思ったに違いあるまい。
それを実行に移すことができないのは、あの女は相当の実力者であったからだ。
身のこなしもさることながら、ましてや魔術に関したことになれば、魔族の中でも最上位クラスであるカリュプスと互角か、それ以上。
そしてますます腹立たしいことに今回の任は王の命令にほぼ等しい。
そう、あの女の口からではなく、王直々に命をくれたものであれば、カリュプスの心境は全く違うものだったろう。
たった一言『行け』と命じてくれる、それだけで良かったはずだったのだ。
先刻のことを思い出すカリュプスの指に自然と力がこもり、尖った爪は樹皮を削り鋭い爪痕を深く残す。
過程はどうあれ失敗は出来ない。
男は傷つけた樹木を掌で数度優しく撫でると、目を閉じた。
「……アルガレスの皇子が出立する日を探れ。男がそう告げると、ゆらり、と自身の影が揺れ……その一部が切り離される。
『それ』は、蛇のように地を這っていたかと思うと、蜥蜴として木に登り、鳥に変化し枝先を蹴って空に翼を広げた。カリュプスは使い魔を暫し見つめていたが、やがてその輪郭はぼやけ、溶けてしまったかのように霧散した。
半ば強制的にリスピアで滞在することとなったシェリアには、護衛という名の監視者が一人つけられることになった。
ヒューバートという容姿端麗な男性――恭介らと共にセルテステに向かった彼――であり、いつも微笑をたたえたような優しい顔つきをしている。
柔和な表情で不快感を与えるような印象も持っておらず、騎士として非の打ち所がない女性受けしそうな男だったが、シェリアは彼の美しい風貌を気にした風もない。
「失礼ながら、常に誰か側にいるのは苦手でしょうか」そんなシェリアの態度にも、ヒューバートも気を悪くすることなく……むしろどこか喜んでいるようなそぶりがある。
「……忘れてるようだけど、俺もシェリアの護衛として一緒にいるんで」後方からジト目でシェリアとヒューバートの会話に参加するレティシス。
シェリアは慌てて頷いた。
「うん、そうだよね……ごめんレティシス。ヒューバートがにこやかな笑みでレティシスにそう告げたのだが、レティシスは『あんたに聞いてないよ』と冷たい返答をする。
レティシスもここに残ることになったのだとヒューバートに説明したが、それでも女王からの命がある彼は引き下がるはずはなく、そうですか、と答えただけだった。
勿論、ヒューバートはレティシスがここに残ることは聞いていたし、彼が現在実力不足とシェリアの事で軽い焦燥を抱えていることにも気づいていた。
「僕の他に護衛がもう一人いても良いかと思っていたので、見知った彼なら安心でしょう?」その自身を蔑ろにしているような反応が面白くなかったレティシスは、ヒューバートの前に進み出ると、年端もそう変わらない男を見据える。
「……あのさ」そう問われて、ヒューバートは思わずレティシスの顔をまじまじと眺めてしまった。
真っ直ぐな緑瞳には、挑戦的な好奇心と隠しきれない苛立ちが見えた。
強いのかと尋ねられたヒューバートも相手の態度に気分を害した様子はない。
「あなたの『強い』……という基準が分からないですが。にこにこと悪びれもなく言い放ったヒューバートに一瞬驚愕したものの、彼の言葉を理解するとゆっくりとレティシスは目を細め、口角を上げた。
「――そうかい。おどけるように肩をすくめたレティシスは、ヒューバートへと背を向けてシェリアの方を見る。
そのシェリアは座ったまま、レティシスを諫めるように見つめていた。
「レティシス。そう言われ、シェリアも表情を曇らせる。
そんな顔を見たレティシスは、内心激しい動揺が渦巻いたが、何を言えばいいかわからず視線を泳がせるだけだった。
「軟禁なんてとんでもない。ヒューバートは柔らかい笑顔を二人へ向ける。
「早ければ今日の夜、遅ければ明朝にでも女王はこちらに顔を出すと思われます。レティシスは怪訝そうな顔をした。
が、ヒューバートの方もレティシスを困り顔で見つめている。
「明朝……まで? え? なんかあんの?」冗談か本気なのか判別がつかぬまま、シェリアなら何か知っているのかとレティシスは彼女の方を見たが、シェリアも知らないと首を振る。
「……何も、聞いていませんか? 本当に? お二方とも?」やや声を潜めながらヒューバートはレティシスに尋ねたが、レティシスに思い当たるところは特にない。
「聞いてないっていうか……だから、何の事だよ。はっきり教えて」あんたの悪い癖だよ、と毒づきながらレティシスはカインに苦々しい顔を見せる。
ヒューバートの言葉を聞いてから、レティシスは急いでカイン達の元へと走ってきたのだ。
「シェリアだって……あっ!?」そういえば、ヒューバートから待ちなさいと焦った声をかけられた気がしたが、カインへの確認を優先したあまり振り切って出てきている。
あいつとシェリアを二人きりにしてしまった――ヴォレン大陸では一つの部屋に男女二人きりにするということはそういった仲だと噂されてもおかしくない――ということにたった今気づいて、全身から冷えた汗が噴き出るような思いがしたが、今ここで戻っても、カインとヒューバートの二人から(もしかするとシェリアからも)猛烈な文句を浴びることになるだろう。
「なんだ? シェリアがどうした?」後々のことを覚悟しながらも、自分のやらかしたことをカインに伝えることは……できなかった。
言った途端、首を掴まれ窓から放り出されるかもしれない。
八つ裂きにされるかもしれない。
そうなったらリスピア城が大騒ぎになる。
アルガレスとリスピアの外交が悪化するかもしれないのだ。
だが、放っておいていいのか。
今頃ヒューバートがシェリアに手を出しているかもしれないというのに……!
レティシスの脳内ではいかがわしい妄想が浮かびつつある。
「う、う……」汗をだらだらと流すレティシスに、カインは気持ち悪いものを見るような顔で一応体調を案じる言葉をかける。
「どうした、本当に何かおかしいぞ。もしや……シェリアに何かあったのか!?」カインの顔に緊張が走り、レティシスの肩を掴んだ手に力が込められたのがわかる。
「まさか……シェリアを残してきたのか?」ぎゅっと目を瞑り、覚悟を決めたレティシスが口を開く。
ヒューバートの声が背後からかけられた。
慌てて振り返れば、憮然とした顔のヒューバートと、手を引かれるまま走ってきたらしいシェリアがいた。
「カインのとこ行くなら……声、ちゃんとかけて……」もう少しばかり恨み言を言いたげなシェリアに、レティシスはごめんと小さくジェスチャーを込めて謝る。
ヒューバートの機転がなければ、大変なことになっただろう。
第二の命の恩人……いや、もしかすると国同士の仲を救ったようなものだ。
「……君はバカなんですか? シェリア様も僕もあらぬ疑いが掛かるのはごめんです。小声でヒューバートはレティシスに伝えたのだが、その小声の幾らかはカインに聞こえたのだろう。
事情を察したらしいカインは、本当に至らぬ男が申し訳なかったと一介の騎士へ深く謝罪し、レティシスに突き刺すような視線を向けた。
「……ごめんなさい……もうしません……」ため息をついたカインに、背を丸め小さくなっていくばかりのレティシス。
「と……とにかく、カインと出立前にお話ができて良かった。シェリアが間に入ってくれたおかげで気まずい雰囲気はだいぶ和らいだが、今度はカインの表情が曇った。
なぜ教えてくれないのかと詰め寄ったところで、毎度の『シェリアには関係ない』という、突き放されるような言葉が出るのはレティシスも織り込み済みだった。
きっと、シェリアもそう思っているに違いないだろう。
「――すまない」予期しなかった謝罪が返ってきて、レティシスは面食らって返答とも言えぬような声を出してしまった。
カインの表情を伺えば、いつもの彼とは違うような……苦しげな表情のままシェリアを見つめている。
「シェリアとあいつを……蔑ろにしたつもりはないんだ。たどたどしく返事をしたレティシスの脇腹を、ヒューバートが肘で突く。
言い返そうとするレティシスを『しっ』と指を立てて制するヒューバート。
彼の言うとおりで、カインが見ているのはシェリアである。
恐らく……いや、確実にカインはシェリアに話しているのだろう。
「……忙しかったの気づかなくて、こっちこそごめんね……でも、レティシスにも言ってないってのはちょっと……だめだよ」たどたどしい返答をしながら、シェリアは心配そうにカインの頬に手を伸ばす。
差し出される冷たい手に頬を自らすり寄せるようにしながら、カインは寂しげな目を向けた。
「そうだな……気が回らなかったのは言い訳になる。だめだな、こんなのは」ラーズ達にはどうなのかは分からないが、カインがこんな弱々しい表情を人前で見せるのは初めてではないだろうか。
いや、弱々しいというよりは――力を持たぬ少年のような……そう、別人のようにも感じる。
「……カイン?」思わずそう呼んだシェリアに、カインは心苦しそうな表情を向ける。
「……ん?」聞くけど、と言いかけてシェリアは口をつぐむ。
悩んでいたところで、自分にはカインを慰めてやることも、光明を与えることもできないのではないだろうか。
だが、カインの瞳は、より一層寂しげな蒼い色を湛えている。
「……レティシス。話がある」急に名を呼ばれて思わずたじろいだレティシス。
ボコボコにされるのではないかという懸念が一瞬脳裏をよぎったが、ヒューバートはシェリアに『奥の部屋で皆さんと話でもしましょう』と、彼女を伴って席を外す。
妙に空気読みスキルが高い男だなあとレティシスが思っていると、ヒューバートは彼の心の声が聞こえたかのように肩をすくめた。
二人が奥の間に消えると、カインは逡巡しながらも口を開いた。
「お前、オレが――いなければいいと、そう思ったときはあるか」何を言われるかと戦々恐々としていたレティシスだったが、その意外な言葉はレティシスに強い衝撃を与える。
『カイン様がいなければ、もっと楽しい……と思った事はありますか?』以前、迷いの森で見たラーズの幻影――自分の弱さが作り出した魔物が囁いた言葉を瞬間的に思い出す。
あの時、即座に否定したものの……自分は心のどこかで、そうだったら良いなと思った事もあったのではないかと、レティシスはあれからずっと己を恥じていた。
それが、いま現実として……本人の口から投げかけられている。
「なに、言って……」喉の渇きなどなかったのに、口の中が乾いたように感じてうまく声が出せない。
懸命に次の言葉を探す中、自分は今どんな顔でカインに向き合っているのだろう。
図星を指された顔だろうか。
泣き出しそうな顔でもしているのだろうか。
そうぼんやりした自分の思考がよぎる。
カインはレティシスの言葉を待っているように、じっと見つめたままだ。
「……なんで、そんなこと考えたんだよ。必死に言葉を探し続けるレティシスに、カインは本当に寂しそうに……ちょっとだけ笑った。
「お前も、シェリアを……愛しているんだろう」無言で視線をそらすレティシスに、カインはすべてを理解したような深い頷きをする。
「オレは、正直に言うとお前が……最初から嫌いだった。絶句するレティシスを見て、カインは『すまなかった』ともう一度詫びた。
「オレ自身の感情と、出立を教えそびれたことに何も関わりは無い。混乱させたことに対しても、申し訳なく思う」素直に返事をするレティシスだが、引っかかりを感じて首を傾げる。
「フィーア……?」すると、カインは涼しい顔で奥へと向かっていこうとする。
そうしてレティシスから離れるカインの表情は、既にいつものカインのものだった。
「お、おい……! なんでフィーア王女が!!」その背を見送りながら、レティシスはラーズが『カインはああ見えて繊細』だと言っていたことを思い出していた。
自分の行動ひとつで国内外の関係を左右する立場の話など、レティシスには分からない。
素直に感じたまま言動を行っているのが妬ましいと、本人を見据えながら伝えてくる彼のどこに繊細さがあるのかは分からないが、いつもその胸中は何を思っているのだろう。
「……フィーア王女も残るのか……うん、安心したような、そうでないような……」脱力のあまり暫しそのまま佇んで、よろよろと窓の手すりにもたれかかりながら外の景色を眺める。
陽はまだ高いが、リスピアの兵士達はそろそろ交代の時間なのだろう、姿は見えないが何処か遠く……城内から挨拶を交わす声が渡り廊下に響いて聞こえる。
視界の隅で、近くの枝から飛び立つ小さな鳥影が見えた。
反射的にそちらに目を向け、揺れる枝葉をぼうっと眺める。
鳥や獣も食事にありつこうと移動を始めるのだろうか。
逆光のせいなのか、そのなかの一羽の姿が、影絵のように【黒く】見えた。
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