カインは甲板の手すりに軽く身を預け、髪が風に悪戯されるのを厭わぬまま海を見つめている。
クライヴェルグを出航して、既に三日。航行は順調で、あと十日もあれば目的地に着くだろう、と船長が言っていた。
彼の地では厭わしい様々なことが起こったというのに、今この視界に広がるのは果てなく続く青い水平線。
陽光を受けてまばゆいほどに煌めく水面を見つめていると、それらは全て遠い幻想であったかのようにすら思えてくる。
無論、それは幻想ではなく紛れもない真実だ。だが、イリスクラフトとベルクラフトの間だけではなく、アルガレス王家にとってもクライヴェルグでは何一つとして喜ばしい収穫がなかった――と言ってもいい。
カイン達がデルフィノを引き渡したその日の夜、魔術ギルド内で事件が起こった。
デルフィノは魔術師用の文様が施された手枷――魔法を封じる効果がある――をされ、地下にある個室に拘束されていた。
次男セルージョも同様に別の部屋へ移し、翌日から長い尋問を予定されており、ベルクラフトのおぞましい研究の事実が明るみになるだろうと期待されていたはずなのに。
収監後二時間と経たぬうちに、デルフィノの部屋から突如叫び声が聞こえたらしい。
何事かと駆けつけてみると、胸に短剣を突き刺されて絶命しているデルフィノの姿があり、次いでセルージョの部屋に向かった者からは、苦悶の表情に満ちたセルージョが氷漬けの状態で発見されたという。
一つは武器による殺人、そしてもう一つは魔法。
誰にも気取られぬ急所を狙った刺殺と短時間詠唱が可能である事……その二点と、この一族と強い因縁があるカインとラーズが容疑に上がる。
そのため船の乗員全てを含め、数日に及ぶ取り調べが行われることとなったわけだ。
デルフィノの死因は刺殺によるものと思われたが……僅かに刃先が急所からずれていること・自分の装備品と切っ先が違うことを指摘され、新たに検分が行われた結果、死因は刺されたものではなく刃に塗られた猛毒によるものだと判明した。
かたやセルージョの死因は紛れもなく魔術による凍死であり、否応なくラーズが疑われた。
カインはギルドにベルクラフトを引き渡した後、船から港内に出たことはあったが街やギルドには立ち入っていないこと、ラーズも魔術を使えば必ずギルドに関知されることを何度も説明した。
結果、港湾関係者やギルド員などによる証言から、事件が起こった時間帯はその二人を含め、仲間達の誰一人として港湾外に出ている者はなかったという確証が得られ――関与は否定された。
そして結局、真実は語られぬまま闇に葬られてしまった。
事件の中心であろうシェリアはといえば、勿論何もない等ということはない。
取り調べを受けた後、彼女は【グラナトコープス】を投与された者として、数日に渡って身体検査を受けた。
彼女の身体は魔術師であっても魔力を蓄えられず、魔力を回復させる道具を使っても瞬時に吸収してしまうが、魔力の枯渇は変わらない。
嫌がる彼女から血液を採取し、同じように魔力を与えてみても変化はない。
魔術師は身体全てに魔力を行き渡らせる……つまり、血液にも魔力が含まれるのが確認できるはずなのだが、シェリアの血中魔力濃度は一般の人間よりも低い。
その体内で吸収を阻害している『何か』があるとしか思えなかった。
ギルド側はシェリアを保護――という名目の実験観察――を申し出たが、あの事件の後だ。カインとフィーアから激しい抗議に遭い、それは断念せざるを得なかったのである。
シェリアを取り戻して胸をなで下ろす暇はなく、カイン達は魔術ギルドよりの使者……なんとイルメラとミュリエルの口から、行動を監視する命を受けたと伝えられた。
『殺人を犯さなかったとしても、あなたたちが今回の諍いに何らかの影響を及ぼしたのは事実です。カインの言葉に、ミュリエルはそうです、と隠すことなく頷いた。
『調査と監視。ギルドはその両方を執行させて頂くことに決定しました』カインの強い眼光に気圧されつつも、ミュリエルはイルメラの肩を抱きつつカインと視線を合わせ続ける。
だが、カインは一度頷いただけで了承し、フィーアに説明をするので付いてくるよう二人に伝えるだけだった。
そういう経緯もあって、イルメラとミュリエルはこの船でカイン達の動向を報告し、シェリアの観察と検査を――行っているはず、だったのだが……。
「レティシス様ぁ〜? お腹空いてません?」レティシスの腕に自身の手を回し、抱きつくような格好で甘えた声を出すイルメラ。
それを引き剥がそうとするミュリエル。だが、イルメラは邪魔されるまいとレティシスへ取り縋る。
「やめてよー! ミュリエル、あたしとレティシス様の間を邪魔しないでっ! 二人は強い絆で結ばれてるの!」後方でぎゃあぎゃあと騒ぎ立てた三人に、カインは煩いと言いたげに眉を顰め、ひと睨みする。
が、彼らはカインの事を気にせず騒ぎ続けていた。
船室から苦笑交じりにそれらを眺めているのは、恭介とリエルト。
「まさか彼女たちが同行するなんて思わなかった」そう説明しつつもイルメラとミュリエルを見つめるリエルトの顔は半ば呆れている。
「あの二人は監視って事だけど、何かあればギルドに報告……するんだよね。恭介の投げかけた言葉をぞんざいに返すリエルト。それを聞いて、恭介は嬉しそうな笑みを向ける。
「なに」ぷんとむくれるリエルトの顔を見つめながら、恭介はシェリアがリエルトに話しかける姿を思う。
会話自体は本当に他愛ない……季節がどうだの、今日の食事は美味しかったかとか、そんなことばかり。
それに対して彼は一言二言素っ気なく応じると、シェリアは朗らかな笑みを見せる、ほんの些細な触れあい。
以前のように彼女の事を拒絶はしないだけ、彼も成長したのだろうと恭介は思っている。
それが勘違いだったとしても、あんなにもシェリアは嬉しそうなのだ。
「あ。そういえば、シェリアさんは?」そう言いかけて、恭介はリエルトの答えに疑問を抱いた。
「……魔術式?」言葉自体は聞いたことがあるが、それが何かというのは門外漢である恭介には分からない。
リエルトに訊いてみると、本人にとって効率的な魔法の発動術のことらしい。
「僕らは精霊の力を借りて術を行使するのですが、精霊に『自分が今から魔法を使うので、自分が持っている魔力と引き替えに力を貸して欲しい』ということを知らせるわけです。流石に、一流の師によって魔術の経験があるリエルトはさらっと答え、恭介は感心のあまり『へぇー』と声を漏らす。
「ですが、あの人は今自身の魔力を媒介に使えない。だから、どうするのかは興味がある」だけど、未来の方が技術は進んでいるだろうしあれを応用すればこの式は変わるかも、などと独り言のように呟くリエルト。
――そこまで考えているのは、手伝うことを考えてるからじゃないの?そう口にしてしまえば、リエルトはへそを曲げて恭介と話してくれなくなるかもしれない。
それは寂しいことでもあるので、恭介は別の話題に触れることにした。
「……『本来の』リエルト皇子も無事のようだった。ラーズさんの奥様のところに居るんだってね」そうして難しい顔をするリエルトは、御爺様と父があんな話し合いをするなら聞きたくなかったし、あの人の耳に入れなくて良かっただろう、と寂しげに漏らす。
カインがフィーアの水晶を借り、アルガレス帝国のアレス6世に通信を行ったとき、皇帝は何事もなく元気そうで、ホッとしたのだが。
皇帝はカインとフィーアが共に居ることを喜び、カイン達の活躍を労っていた。
ベルクラフトが殺害されたことは知らないらしい。
ギルドが漏らすわけはないのだから、普通はそれが当然であるにせよ、カイン達は足止めされていたのだ。
だからこそ耳に入っていると思っていたから、違和感を覚えずには居られなかった。
シェリアをベルクラフトに引き渡したかどうかを尋ねられると、フィーアは『彼女は諍いに巻き込まれ、重傷を負いました』と答え、皇帝は予想し得なかった答えに驚いたようだった。
『イリスクラフトの娘は、して、どうなった……!』思わず身を乗り出した皇帝の眼を、フィーアはじっと見つめる。
『……危険な状態です。できれば、他国の医者に頼りたいのですが』そう辛そうに話すフィーアに、皇帝は低く唸る。
『フィーア王女……ッ』シェリアは生きている。何を言うのか――と反論しかけたカイン。フィーアは黙っていろという意味を込め、座卓の下でカインの足を踏みつけた。
暫し遅れてカイン達の元へやってきた恭介とリエルトは、その瞬間、ついにフィーアが他国の男の足を粉砕したのだと思って軽い目眩を覚えたほどだ。
『クライヴェルグを離れて、一番近い国は……リスピアになるのだったか……かの地は医療も進んでいるかは分からぬ。止せ』カインは声を荒げて皇帝に詰め寄ったが、水晶の向こうで険しい表情をした父の姿が見える。
『愛している? なんということを……カイン、お前は【亡国の呪い】を発動させるつもりか!!真摯に気持ちを告げるカインに、皇帝はだからこそだ共に居られぬと冷酷に告げる。
『愛する者を失うか、国が滅ぶか。それが【呪い】だ。皇帝のそれではない冷たい声音が水晶から届き、カインはグッと表情を引き締める。
皇帝に許可を得たのか、痩せぎすの男……ルドウェル・イリスクラフトが姿を見せる。
『【亡国の呪い】……お話はラーズが産まれる以前から伺っておりました。それを聞いたカインは、愕然とした表情をし……拳を強く握りしめ、水晶の向こう側へ激しい怒りを乗せた目を向ける。
『王家のため? 違う。貴様は……ランシールやシェリアを、ただの道具としてしか見ていない!諦めろ。棄てろ――そう一国の帝が言うのは簡単なことなのだろう。恭介は悲しげに眉を寄せ、成り行きを見守る。
歴史というのは、綺麗なものばかりではないだろう。血生臭く、陰湿で、理不尽な行為も行われてきたのだろう。
人の屍の上に成り立つ王座もあっただろう。こうして、その土台が築かれるかもしれぬ瞬間に立ち会っている。
『利用価値がある者を……死なせるには惜しいと思うのです』冷えた声音でフィーアは告げる。いつも優美な笑みを浮かべていたはずの彼女の顔が、今はまるで陶磁人形のように無表情だった。
『彼女は何故か高位の魔族に狙われているのです。そうではありませんか? とルドウェルに投げかけるフィーア。
ラーズとシェリアの父であるこの男には、二人のような優しさと温かみを感じられない。つくづく父に似なくて良かったとすら思う。
『フィーア王女。あなたが皇子を愛してくださるなら、シェリアの存在は疎ましいのでは』フィーアはカインに視線を向けながら、そう答えるとアレス皇帝は大仰に頷いた。
『フィーア王女……こんな愚息に理解を示してくださっている事をありがたく思う。にこやかに微笑むフィーア。そして、そういえばと再びルドウェルを見つめた。
『ルドウェル様。この間我が国においでになりましたが……まだ国家証はお持ちですの?』我が父にもそのように申しておきます、とフィーアはその場でブレゼシュタット王家式の礼を行い、別れの挨拶をすると通信を終えた。
そして母の名も顔も知らぬ、リエルトという皇子が出来上がる――そう考えて、彼は思い出に引き込まれそうになった自分に気づく。
「……今のリエルト皇子が成長したら、母のことを疑問に思わなくなるだけでしょう」その身体に膨大な魔力と【呪い】を受け継いで、将来どんな人間になるのだろうか。
アレス皇帝のように全てを割り切れるのか、カインのように全てを否定したくなるのか。
「……今の僕に出来ないことを、リエルト皇子は出来るようになるのかな」即答する恭介に、リエルトはなぜそう言い切れるのかと言いたげな顔で彼の言葉を待つ。
「君の心根は、シェリアさんと同じく優しい人。むしろお人好しだ。僕の勘は当たるよ、とにこやかに笑う恭介に、リエルトは泣きたいような気持ちになって口を噤むとそっぽを向く。
「泣き虫なところも受け継いだんだね」恭介の気になるカインの手記の話を振ると、彼の目は期待に輝いた。
「どうだった?」意外そうな声を上げる恭介の黒い瞳を見つめながら、リエルトは視線を逸らさずにもう一度同じ言葉を告げる。
「父の日記は、あの人を失った日も……リスピアに着いてからの問題も、記述は全て変わらない。直接頭に響いてくる声。二人の視線は迷うことなくこちらにゆっくり歩いてくる羽猫で止まった。
羽猫は笑うように眼を細めてから、くるくると喉を軽く鳴らす。
『リエルトが持つ手記は、いわば一個人の主観のみ。ただの日記や詩と同じだと思えば良い。世界の流れには何も影響しない。一呼吸置いてから、ルァンは更に言葉を重ねる。
『……シェリアがこうしてカインの側に存在しているという結果……それは運命が変わったから起こったことだ。リエルトも恭介も言葉を失い、ルァンは二人の反応を確かめるようにじっと見つめている。
『運命は幾重にも原因と結果が組み合って出来ている。一つの綻びでさえも、それが要であれば形にならなくなる。コメント
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