【ルフティガルド戦乱/40話】

掌を上に向け、壺を宙に浮かせたまま薄暗い室内に現れたのは――あの黒い女。

カインの表情はみるみるうちに険のあるものへと変わり、シェリアの肩に置かれた彼の手には力がこもる。

女は妖艶な笑みを浮かべながら今までランシールが存在していたはずの場所まで歩み寄り、焦げた匂いを発する床の煤を足裏で擦って小さく息を吐く。

「母は家族のために身を捧げ、娘を守るために魔獣となり、最期は愛しい子に殺される……。
ほんと、親子共々可哀想ねぇ……特にシェリア。人でない身体になって、これからはどうしようというの?
貴女もそこの皇子様に騙され続けながら、母親と同じこんな悲惨な末路を辿るつもり?」
「オレはシェリアを騙してなどいない! 貴様がここに何をしに来たかは知らんが……とっとと失せろ!」

激昂するカインを一瞥し、女は『勘違いしないで』と冷たく言い放つ。

「すぐ突っかかってくるんだから……いい? よく聞きなさい。
『あの時』瀕死だったアルガレスのカイン皇子を助けたのは、このあたし。
よくも何の恥ずかしげも無く、命の恩人に唾を吐きかけるような真似ができるわね。田舎の皇子様は礼儀を知らないのかしら」

罵られたカインは憎しみを露わにしたが睨み返すに留める。それすらも女は気に入らないらしかった。

「生意気ね、その反抗的な顔……本来の半分も能力が出ないくせに、何でも出来る気でいるの?
あたしを殺すだなんて思い上がるのも大概にしなさい」
「例え力の半分が出ないとしても、貴様の思い通りにさせるわけにいくか……!」
「だったら試してみなさいよ。あたしはいつでもいいわ……貴方が手も足も出ずに死ぬだけだから」

女は喉奥で小さく笑うと、疲弊しているシェリアへ再度言葉をかける。

「もうそんな身体では旅を続ける事は出来ない。
例えそこの皇子に愛されていると分かっても、自分で自分が違っていくと認識する日々。
食べ物も、体つきも、精神も……日に日に何かが変化していくのよ? 仲間が息を呑む瞬間、弱い貴女にそれが耐えられる?
皇子だって、いずれ怖れて触れなくなるわ。その末路は……言わなくてもわかっているわよね?」
「貴様……! シェリア、その女の言う事に耳を貸すな! オレはお前を――」
「守る、なんて軽率に言わない方が誠実よ。
貴方自身……平穏があるなんて思わない方がいいんじゃない?
あたしがその気になったら、いつだって殺せるのよ」
「そんなことはさせません」

ラーズがカインの隣に並び、恭介やフィーアも黒い女を睨むが、一同の反応を見た彼女は可笑しそうに笑った。

「ばかね! あなたたちはほんとうにばかだわ!! ラエルテ純粋の血統ではないアルガレス王家なんてまだ守る価値があるっていうの?!
この皇子はラエルテの純血じゃないのよ……それを守る? ほんとうに面白いわ!
目的を達成できる力もないくせに、赤毛の剣士さんも、貴方たちももはや滑稽でしかない!」
「赤毛の剣士……、って、あなた、レティシスに何かしたの!? 彼はどこに……」

周囲を素早く見渡したシェリアはレティシスの姿がないことを認めると、黒い女へ尋ねる。

「邪魔だったから、ちょっと大人しくして貰ったの。上で、泣きべそをかいたおちびさんに介抱をされているでしょう……彼はとても優しい子ね。大事にしてあげるといいわよ」
「……彼を傷つけたの? 私を助けたいとも言ってくれたのに、どうしてあなたはカインや仲間を傷つけるの?」

介抱と聞いたシェリアは傷だらけのレティシスを想像する。傷を負わせたのが女だと理解し、わき上がる怒りを抑えようとするが、声音と手の震えは隠せない。

「ああ……シェリア、憎しみも怒りも爆発させてはいけないわ。貴女の魔族化を早めてしまうのよ……。それはまだ早いわ?
レティシスといったかしら。彼はね、身の程を知らないおちびさんを守ろうと自らを盾としたの。
別に殺してしまっても良かったのだけど、この壺に免じて許してあげたわ」

女が示す壺というのは【グラナトコープス】で満たされていたあの壺だが、当のシェリアはおろか、カイン達にその中身など分からない。

勿論懇切丁寧に説明することなどなく、女はシェリアに『来なさい』と誘いの言葉を投げかける。

「シェリア。貴女はもう人間たちと一緒には暮らしていけない。
だから、あたしと一緒に安住の地へ行きましょう。
あのかたの側に居れば、すべて収まるところに収まって……世界だって悪いようにならないはずよ」
「あのかた……?」

疑問を口にしてなおその姿が不明であるというように首を傾げたシェリアへ、女は頷きを返す。

「ええ、この世界を統べるために存在するかたよ」

この世界を統治しようとする者。それは――……まさか。

「……魔王、カリヴンクルサス……?」

その名を口にすると、女は『そうとも言うわね』とはっきり頷いた。

「あちらこちらの男性から欲しがられるなんて凄いですわね、シェリア様は魔性の魅力でもお持ちなのかしら。まあ扱いやすそうですものね……」
「しっ。ややこしくなるから、フィーア様はちょっと黙ってて下さい」

感想を口にして驚くフィーアを小声で窘める恭介だが、その会話も当然聞こえたらしい。女は愉しげに眼を細める。

「魔性……フフ、そうね。
その子はお兄さんと違ってマジックマスター、ルドウェル・イリスクラフトの野心のために産まれた子なのよ。
若く瑞々しい身体には親譲りの膨大な魔力と素質がある……今はアレが魔力を吸収しているから枯渇したようだけど……身体が安定すれば魔力も戻ってくるわ。
ただ、今までのような手段で魔法を使うことは出来ないわね」
「あら、貴女のお話は少々おかしいのではありませんか?
シェリア様が清らかな乙女ならば、確かに利用価値は多くあったでしょう。
しかし……もうご存知でいると思いますが、二人の間には子供がいる。お互いの魔力も大いに受け継がれた。
よって、次代の魔術師を育む『母体』としての価値は大きく下がったのでは?」

フィーアの疑問を受け、女は普通はそうね、とあっさり応じる。

「例え彼女に魔力が無くても全く構わないのよ……他に有用性があるの。何かは教えてあげないけど。
そして、アルガレス王家への間接的な復讐のためでもあるわ。フィファーシュを殺したアルガレスをあたしは絶対に許しはしない……」
「フィファーシュ……?」

聞いた名である気がしてカインは何度か口の中で呟き、暫くの後、理解したのか目を見開いて女を見つめた。

カインの顔には諦めの様相はないものの、青ざめているようにも見え、まさか、と呟くのがシェリアも聞こえた。

ルァンは動じた様子もなく、女の姿を見つめている。

「ねえ、あなたのいう……【全てが収まる】って一体どういうもの?
人々の悲しみが癒えて、笑顔になって、魔物も苦しまず、食べ物も困らない。誰も犠牲にならない世界が来るとでもいうの?」

シェリアの問いかけに、女はそうよと明るい口調で返す。

「人間と魔族は共存共栄をせず、互いの領域で暮らせばいい。それだけのことなのよ。
だけど、人間達は魔族を殺す。だから身を守るために、仲間を守るために魔族も手を出すわ。その繰り返し。
そこの皇子に、魔族の長と粘り強い話し合いなど出来るわけがない。
だからこそ、その皇子様がどれ程の覚悟を持って臨むのか? 魔族が何をしているのか?
丁度人間と魔族の中間にいるあなたに見て貰おうと思っているのよ」
「そうは言っても、体の良い人質……ってワケですよね」

恭介がそう述べると、女はそういうわけでもないわと答えた。

「待遇はきちんとするし、うわべだけの気安い慰めもかけられない。
辛いところもみっともない姿も見せなくて良いんだもの。仮に見せたとしても――貴方たちといるよりはずっと気が楽になるはずよ」

シェリアの身に何が起こっていくのか。本人ですらわからないことを、この女は熟知しているようだ。

「迷うことなんてないでしょ? 否応にも、貴女は変わっていく。引き際も肝心よ」

女は優しい口調で告げ、シェリアを諭す。

「……シェリア」

唇を噛んだシェリアを見つめ、どうか頷かないでほしいとカインは思う。

カインの意を察したか、シェリアは彼の手の上に自分の手を重ねて置く。

このまま手を振りほどき、黒い女と共に行ってしまうのではないかと危惧したカインに、シェリアは『心配しないで』と告げた。

「もう人間じゃないってことを受け入れるには……まだ時間が足りない。
もしかすると、今よりは明日のほうが理解を得て、魔族化も進行するかもしれない。
私が相手の言う事を聞いて、全部丸く収まるならそれでもいい――って思った。
それが運命の一部だって言い聞かせて。そう考えるとね、ちょっと楽だった。そうなるんだからどうにもできない……って。
でも、私分かったの……全て収まる、なんて事はない。
何度も何度も諦めて。その度に、しょうがないって……それで済むならいい、って。
だけど、一度もなにかが収まった事なんてない。むしろ悪化するばかり。
収めようとすれば何かが軋んで、ひしゃげてしまう。増長すれば何か問題が消える。
ひとつ大事なものが生まれたら、何かを失ってしまう……その繰り返し。
私の中にあった魔力はもう何もない。魔術師としての私はもういない。きっと、いつかは自分すら失ってしまう。
だけど……ううん、だからこそ……今更だけど、私はもう『全部上手くいく』なんてそんな言葉をいいながら近づく人を信じない。
――私は自分で、誰を信じるか決める!
あの時、私を『シェリア・イリスクラフト』として存在させてくれたカインを……私は信じる!」

すると、意外にも女は目を細めて、そう、とあっさり受け入れた。

「ばかなんだから……でもいいわ。
束の間の幸せと……カイン皇子と共に在りたいと願う気持ちを汲んであげましょう。
でも、たった今自分が放った言葉はどういうことに繋がっていくか――いずれ明らかになる。
またいろいろ教えてあげたとき、貴女とそこの皇子様がどんな顔をしているのか楽しみだわ」

女は耳触りな笑い声を発しながら、転移魔法でその場から瞬時に消えた。

まだどこかにいるのではと周囲を探ったラーズだったが、女の魔力は建物内のどこからも感じない。

「……レティシスを探してくる。ラーズ、フィーア王女、シェリアを頼む」

ラーズのほうへ行くようシェリアの背を軽く押し、カインは階段を上る。

リエルトにはここに居るよう目配せし、恭介は自らカインの後ろへ付いていった。

おずおずとラーズへ歩み寄るシェリアは、兄を上目遣いで見上げ、ごめんなさいと口にする。

「また、迷惑かけちゃって……」
「シェリア……」

わたしこそ、と言いかけたラーズの前にフィーアが現れると、言葉より先にシェリアへ平手打ちを見舞う。

「あっ」

驚きに思わず声を発したリエルトだったが、次の動作でフィーアはシェリアに抱きついていた。

「もう……こんなに頬が腫れてるじゃないですか……」
「ちょっと、抵抗しててね……でも今フィーア様がぶったのも……」
「もう! なんてお馬鹿さんなの、貴女は!
女の子がこんなボロボロになって、怖い思いをさせられて!
どれだけわたくしたちが心配したか……!
迷惑かけたなんてものじゃないです、これに懲りたらもうどこかに行ってしまわないで!」
「フィーア様……」

張られた頬は痛かったが、フィーアの肩が震えているのを見る方が痛みを感じる。

自分のために心を砕いてくれたのだと思うと、胸に熱いものがこみ上げてきて、シェリアはごめんなさいと言いながらフィーアの背に手を回した。

「兄様も、ありがとう……でも……」
「……今日はもう疲れたろう。レティシスの事も心配だから、カイン様が連れてきたら我々も船に戻ろう」

シェリアは頷くと、その後方で視線を合わせようとしないリエルトの姿を見つめる。

「……レナード、さん……」
「……レティシスさんとカイン皇子とギルドの人以外はみんな僕の正体を知っています」

え、と驚いたのはシェリアで、兄も戸惑いながらも頷きを返し、フィーアもさっき知りましたと答える。

「そうなんだ……ごめんね。私、こんなふうになるって思ってなくて……」
「本当です。でも、魔族化した結果があの未来なら納得できます」
「貴方、いい加減に……」

リエルトの悪びれない口ぶりに怒りを覚えたフィーアは勢いよく振り返るが、でも、とリエルトは続ける。

「……でも、本当に貴女が魔族になったというなら、父や義母の命を奪ったなら、原因はここに存在する『僕』のせいではないはずです。
身体はどうあれ、貴女はここで……すぐに見つかった。僕の知っている未来とは違う」

そう説明しながらも、リエルトですら素直に受け入れられないでいる。

「話し合いは落ち着いてからにしましょう。外のミュリエルさん……も、長時間一人きりで術の展開は流石に疲弊されているでしょう」

ラーズはシェリアに自分の外套を着せると、船に戻ったときのことを考える。

全てが片付いたわけでは無い。今日は長い夜になりそうだと思い、心身共に更なる疲弊が増した気さえした。



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