掌を上に向け、壺を宙に浮かせたまま薄暗い室内に現れたのは――あの黒い女。
カインの表情はみるみるうちに険のあるものへと変わり、シェリアの肩に置かれた彼の手には力がこもる。
女は妖艶な笑みを浮かべながら今までランシールが存在していたはずの場所まで歩み寄り、焦げた匂いを発する床の煤を足裏で擦って小さく息を吐く。
「母は家族のために身を捧げ、娘を守るために魔獣となり、最期は愛しい子に殺される……。激昂するカインを一瞥し、女は『勘違いしないで』と冷たく言い放つ。
「すぐ突っかかってくるんだから……いい? よく聞きなさい。罵られたカインは憎しみを露わにしたが睨み返すに留める。それすらも女は気に入らないらしかった。
「生意気ね、その反抗的な顔……本来の半分も能力が出ないくせに、何でも出来る気でいるの?女は喉奥で小さく笑うと、疲弊しているシェリアへ再度言葉をかける。
「もうそんな身体では旅を続ける事は出来ない。ラーズがカインの隣に並び、恭介やフィーアも黒い女を睨むが、一同の反応を見た彼女は可笑しそうに笑った。
「ばかね! あなたたちはほんとうにばかだわ!! ラエルテ純粋の血統ではないアルガレス王家なんてまだ守る価値があるっていうの?!周囲を素早く見渡したシェリアはレティシスの姿がないことを認めると、黒い女へ尋ねる。
「邪魔だったから、ちょっと大人しくして貰ったの。上で、泣きべそをかいたおちびさんに介抱をされているでしょう……彼はとても優しい子ね。大事にしてあげるといいわよ」介抱と聞いたシェリアは傷だらけのレティシスを想像する。傷を負わせたのが女だと理解し、わき上がる怒りを抑えようとするが、声音と手の震えは隠せない。
「ああ……シェリア、憎しみも怒りも爆発させてはいけないわ。貴女の魔族化を早めてしまうのよ……。それはまだ早いわ?女が示す壺というのは【グラナトコープス】で満たされていたあの壺だが、当のシェリアはおろか、カイン達にその中身など分からない。
勿論懇切丁寧に説明することなどなく、女はシェリアに『来なさい』と誘いの言葉を投げかける。
「シェリア。貴女はもう人間たちと一緒には暮らしていけない。疑問を口にしてなおその姿が不明であるというように首を傾げたシェリアへ、女は頷きを返す。
「ええ、この世界を統べるために存在するかたよ」この世界を統治しようとする者。それは――……まさか。
「……魔王、カリヴンクルサス……?」その名を口にすると、女は『そうとも言うわね』とはっきり頷いた。
「あちらこちらの男性から欲しがられるなんて凄いですわね、シェリア様は魔性の魅力でもお持ちなのかしら。まあ扱いやすそうですものね……」感想を口にして驚くフィーアを小声で窘める恭介だが、その会話も当然聞こえたらしい。女は愉しげに眼を細める。
「魔性……フフ、そうね。フィーアの疑問を受け、女は普通はそうね、とあっさり応じる。
「例え彼女に魔力が無くても全く構わないのよ……他に有用性があるの。何かは教えてあげないけど。聞いた名である気がしてカインは何度か口の中で呟き、暫くの後、理解したのか目を見開いて女を見つめた。
カインの顔には諦めの様相はないものの、青ざめているようにも見え、まさか、と呟くのがシェリアも聞こえた。
ルァンは動じた様子もなく、女の姿を見つめている。
「ねえ、あなたのいう……【全てが収まる】って一体どういうもの?シェリアの問いかけに、女はそうよと明るい口調で返す。
「人間と魔族は共存共栄をせず、互いの領域で暮らせばいい。それだけのことなのよ。恭介がそう述べると、女はそういうわけでもないわと答えた。
「待遇はきちんとするし、うわべだけの気安い慰めもかけられない。シェリアの身に何が起こっていくのか。本人ですらわからないことを、この女は熟知しているようだ。
「迷うことなんてないでしょ? 否応にも、貴女は変わっていく。引き際も肝心よ」女は優しい口調で告げ、シェリアを諭す。
「……シェリア」唇を噛んだシェリアを見つめ、どうか頷かないでほしいとカインは思う。
カインの意を察したか、シェリアは彼の手の上に自分の手を重ねて置く。
このまま手を振りほどき、黒い女と共に行ってしまうのではないかと危惧したカインに、シェリアは『心配しないで』と告げた。
「もう人間じゃないってことを受け入れるには……まだ時間が足りない。すると、意外にも女は目を細めて、そう、とあっさり受け入れた。
「ばかなんだから……でもいいわ。女は耳触りな笑い声を発しながら、転移魔法でその場から瞬時に消えた。
まだどこかにいるのではと周囲を探ったラーズだったが、女の魔力は建物内のどこからも感じない。
「……レティシスを探してくる。ラーズ、フィーア王女、シェリアを頼む」ラーズのほうへ行くようシェリアの背を軽く押し、カインは階段を上る。
リエルトにはここに居るよう目配せし、恭介は自らカインの後ろへ付いていった。
おずおずとラーズへ歩み寄るシェリアは、兄を上目遣いで見上げ、ごめんなさいと口にする。
「また、迷惑かけちゃって……」わたしこそ、と言いかけたラーズの前にフィーアが現れると、言葉より先にシェリアへ平手打ちを見舞う。
「あっ」驚きに思わず声を発したリエルトだったが、次の動作でフィーアはシェリアに抱きついていた。
「もう……こんなに頬が腫れてるじゃないですか……」張られた頬は痛かったが、フィーアの肩が震えているのを見る方が痛みを感じる。
自分のために心を砕いてくれたのだと思うと、胸に熱いものがこみ上げてきて、シェリアはごめんなさいと言いながらフィーアの背に手を回した。
「兄様も、ありがとう……でも……」シェリアは頷くと、その後方で視線を合わせようとしないリエルトの姿を見つめる。
「……レナード、さん……」え、と驚いたのはシェリアで、兄も戸惑いながらも頷きを返し、フィーアもさっき知りましたと答える。
「そうなんだ……ごめんね。私、こんなふうになるって思ってなくて……」リエルトの悪びれない口ぶりに怒りを覚えたフィーアは勢いよく振り返るが、でも、とリエルトは続ける。
「……でも、本当に貴女が魔族になったというなら、父や義母の命を奪ったなら、原因はここに存在する『僕』のせいではないはずです。そう説明しながらも、リエルトですら素直に受け入れられないでいる。
「話し合いは落ち着いてからにしましょう。外のミュリエルさん……も、長時間一人きりで術の展開は流石に疲弊されているでしょう」ラーズはシェリアに自分の外套を着せると、船に戻ったときのことを考える。
全てが片付いたわけでは無い。今日は長い夜になりそうだと思い、心身共に更なる疲弊が増した気さえした。
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