【ルフティガルド戦乱/31話】

手入れの行き届いていない、埃まみれの薄暗い廊下。

花と蝶をあしらった壁掛け燭台はいつからその役目を受けていないのか、白い蜘蛛の糸が張り巡らされ、羽虫の死骸がぶら下がっている。

荒れるに任せるままである屋敷の奥――とある一室に、粗末なベッドに横たえられたシェリアがいた。

彼女はまだ目を開かない。それも当然である。彼女の身体は徐々に死へ近づいているからだ。

カイン達がシェリアを救出するためにクライヴェルグを奔走している頃、当のベルクラフトの屋敷内では……彼女に一つの【治療】が行われようとしていた。

「チッ……。意識がなくても、ベルクラフトの魔力はお断りってコトか……? このクソアマ……!」

そう毒づきつつ魔力を幾度か送り込んでみたのだが、シェリアの身体には遠縁の魔力など馴染まないらしく、オルフェオは彼女の魔力抵抗に弾かれてしまう。

これはシェリアが自分の意志で行っているわけではない。体内に病原体が侵入すると抗体が反応するように、魔術師の身体も、魔力の質が著しく違うものが流れようとすると排除しようとする。

「怪我さえなけりゃ、ぶん殴ってやるところだぜ……」

オルフェオはシェリアの頬に手の甲で触れ、二度ほど軽くぴしゃぴしゃと叩く。

言葉の通りシェリアが瀕死でなければ、恐らく手加減せずに殴っていただろう。

叩かれてもやはり反応はなく、紙を口元に当ててようやく分かるような呼吸のみを繰り返している。それも、いつまで自力で行えるかは分からないが。

勿論ベルクラフトとしても、むざむざ見殺しにするようなことは考えていない。

「おい、アレッサンドロ。アレを」

オルフェオは後方を振り返らず声をかけ、手招きするような仕草で寄越せと催促すると、シェリアの服に手をかけた。

「あっ……はい……!」

アレッサンドロと呼ばれた少年は反射的に椅子から立ち上がると、手にしていた小さな硝子瓶を兄であるオルフェオに渡すため、小走りで近づいてくる。

「ひゃあっ!?」

露出が多かったにもかかわらず、服を裂かれたため胸を露わにしたシェリアの姿に、アレッサンドロは小さな声を上げて目を覆う。

「なんだ、これくらいで照れて……この女の傷が癒えりゃ、もっと良いところも恥ずかしいことも見せてやるよ」

弟の初心な面を見て笑っているのか、シェリアが目覚めた後のことを想像しているのだろうか。

思わず顔を緩ませるオルフェオの顔を指の間から見つめ、アレッサンドロはどう答えて良いか分からず蚊の鳴くような声を上げるだけだ。

手渡された硝子瓶の中には赤茶色の粘液が封入されており、オルフェオが金属製の蓋を開けると、漂ってくる異臭に顔をしかめた。

「うぷっ、相変わらず臭せぇな、これ……腐ってんじゃねえのか」
「そ、そんなことないと思う……さっき、採ったばっかりだし……ほ、ほんとにやるの?」
「しょうがねーだろ。親父が知ったら怒られるかもしれねえけど」

アレッサンドロが不安そうな顔をするが、オルフェオは口元を手で押さえつつ、シェリアの上へ蓋の開いた硝子瓶を移動させ、ゆっくりと傾ける。

その色はまるで凝固した血液のよう。シェリアの胸上に粘着質の液体がどろどろと滴り落ちて、白い肌を汚していく。

腐敗物のように鼻をつく異臭が室内にも漂うが、シェリアは眉一つ動かすことはない。

アレッサンドロの鼻腔にも匂いが届いたようだ。彼はハンカチを口元に当て、匂いを緩和しようとしている。

液体はシェリアの胸を滑り落ちて、胴やシーツを汚すかと思われたが――驚いたことにぴたりと動きを止めると小刻みに揺れ、やがて重力に逆らって胸の上へと戻っていく。

血の臭いか、魔力の放出を感じているのか……シェリアの胸の中心、小さな傷口を目指し、粘液が意思を持ったように中央部に集まり、うぞうぞと蠢いている。

「……気色悪りぃ」

思わずそう言い放って顔を顰めたオルフェオだったが、回復魔法を使用することができない彼らにとって、これに頼るしか術がない。

シェリアの傷口を覆うように粘液が胸元に溜まり、微弱ながら赤く明滅していた。どうやら……この液体は、シェリアの身体に定着する気のようだ。

「アレッサンドロ、後はお前に任せる。ルドウェルの娘はそのまま寝かせて、何か異変があればすぐ知らせろ」
「は、はい」

まだあどけなさを残した少年……三男のアレッサンドロはこくこくと何度も頷きながら返事をし、長男を見送った。

この異臭の漂う部屋に一人で残されるのは嫌だったが、兄に逆らえるはずもない。

アレッサンドロは自分が何をされているのかも分からずに、昏々と眠り続けているシェリアに再び視線を向ける。

粘液は傷口を内側から埋めようと、徐々に体内へと入り込んでいた。

本当に意識が無くて良かったのだと、アレッサンドロはシェリアに僅かな憐憫を示す。もしも彼女の意識がはっきりしていたら、どのような悲鳴を上げ、どのような態度を示しただろうか。


――しかし、こんなことをされてまで、この人は生きるのか……。

いずれ身体に馴染むのだとしても、この粘液がどんな生物から出されているのか――その姿を思うとおぞましさに嘔吐感がこみ上げてくる。

自分が怪我をしようとも、絶対にこの粘液を使うのだけは嫌だった。その感情はどうやら、兄達も同じらしい。自然治癒できないものは金を払って治療師に頼んでいる。

昔、ベルクラフトはクライヴェルグの皆が羨むほどの魔術一族だったそうだ。

それが、今は中級魔術師程度の魔力しか持たず……治癒魔法は扱えない。家柄もないような魔術師に見下され、嘲笑を受け、それでも下級術士に治癒を頼む。

その屈辱と憎悪の全てはイリスクラフトへと向けられ、今回こうしてシェリアを手に入れたことで悲願……復讐と、魔術師としての繁栄の兆しを見せている。

アレッサンドロ自身、一族の妄執ともいえる負の感情が、やがて自分にも受け継がれているだろうとも認識していた。いざこうして『イリスクラフト』を目にすると、黒い感情が渦巻く。

助けないでこのまま、殺せばいい……と考え、アレッサンドロは慌ててかぶりを振って、その考えを打ち消す。

自分がイリスクラフトの生死を決定することはできない。当主が決めたことに従うのみだ。

「……ふぅ」

父や兄は、粘液を使った治療処置がどれくらいで終わると思っているのだろうか?

兄は既にアルガレスの皇子には顔を見られているそうだし、数時間も経たないうちに皇子達がこの屋敷に感づく可能性は極めて高い。

感づかれても不都合ではない手筈を整えてあるのだろうか。それとも、イリスクラフトの当主は皇子に話を通して、了承させたのか。

どちらであっても、まだ成人を迎えない子供の自分には誰も何も教えてくれない。

再び丸椅子に腰掛け、ゆっくり呼吸を繰り返しながら真っ暗な天井に視線を移す。

陽の光も届かない部屋。掃除はいつ行っただろう。

そんなことも思い出せない部屋だ。この床には、魔法金属で出来た手枷足枷、縄、拷問器具、針……そのほかいかがわしい形をした器具が綿埃まみれで無造作に転がっている。

今日からここは彼女の部屋となるだろう。

「……目が覚めたらどのみちあなたは、『彼女』と同じになるんだよ」

シェリアに聞こえていないことを理解しつつ、アレッサンドロはそう言い放って――目を閉じる。脳裏に思い出すのは、シェリアと同じ銀の髪を持つ女性のこと。

『お願い、わたしはどうなっても構いません! でもどうか、どうかあの子にだけは手を出さないで……!』

そう言って、父や兄に縋って涙を流した。

緑の瞳は、いつも悲しみに濡れていた。誰に縋っても、その後は決まって同じ。

シェリアも、いつか――……いや、そう時間を掛けず、同じ運命を辿るのだろう。

「ばかみたい……」

時が止まったような小さな部屋の中、アレッサンドロは独りごちて膝を抱え頭を乗せた。



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