船上で、恭介達が騒いでいた頃のこと。
レナードとシェリアの二人は既に下船し、クライヴェルグの美しい町並みを足早に進んでいた。
「どこへ行くの?」時折急かされつつ、シェリアは小走りになりながらもレナードの背中を懸命に追う。
質問には沈黙だけが帰ってくる。彼が発する言葉といえば、早く、という言葉だけだった。
――どうしたんだろう。レナードの話によれば、カインは準備中で合流が遅れるとのことだが、それならみんな一緒に出発すれば良かったのに。
確かにカインは国の要人だから守備を固めておく必要があるにせよ、急ぐとはいえ、レティシスが凄く心配するだろうから声くらいかけておくべきだったのでは……とも感じていた。
「場所は既に決めてあるんです。近道をしましょう」訝しみ始めたシェリアの様子を見て取ったか、振り返ったレナードは『こちらです』と言って狭い路地へと身を滑らせる。
「えっ……こんなところを通るの?」怪訝そうな表情を浮かべたシェリアだが、彼らに見つかってしまっては大変ですからと返されては従うほか無かった。
レナードの言う『彼ら』というのはベルクラフトを意味するのだと思っていたし、それについて疑うことを忘却していたシェリアは、渋々薄汚れた路地に足を踏み入れる。
潮風のせいか、生臭さが漂う湿り気のある路地は陽の光も満足に差し込まない。苔か泥か判別もつかないぬめる感触をブーツ越しに感じ、シェリアは嫌悪に顔を歪めた。
路地を幾度も曲がり、進む。たまに浮浪者が寝そべっているのを見る程度だが、目を合わせても居ないのに彼らから顔を背けるレナード。
彼の指示を聞きながら道を進むだけなので、突然進路を変えられるとすぐに反応できない。
「そっちじゃないです。ここを来て」レナードが通り過ぎようとするシェリアの肩に突然触れたため、彼女は驚いた様子で振り返る。
その反応が、通常の驚きでは無く信じがたい何かを見た様子だったので、思わずレナードも反射的に手を引く。
「急にすみません……もう行きますよ」シェリアは立ち止まって彼を見ていたがもう一度急かされ、迷いながらも頷いた。
再び路地を曲がる、細い道に入るを数度繰り返し――着いた先は建物と建物の間、つまり行き止まりだった。
こんなに昏く、道幅は人間二人がなんとか並べる程度しかない場所で待ち合わせ、だというのか。
シェリアが来た道を振り返って首を傾げていると、レナードは『不思議そうですね』と言いながら袖口をまくり、自らのブレスレットに視線を落とす。
ブレスレットには小さな翠色の宝玉が嵌まっていて、暗い路地の中で静かな輝きをたたえている。
「だってこんな所、土地勘の無い人が説明されても見つけるの難しそうだなって……」説明しながらレナードはシェリアの隣に並ぶと壁に背をつけ、自然な動作で周囲を伺った。
暗い路地には幸い誰の姿もなく、何者の気配もない。
シェリアは周囲を気味悪げに見ているが、レナードは気にせず口を開いた。
その言葉に、シェリアは今度こそ不審さを露わにして眉を顰める。
「僕は、カイン様が今現在悩んでいる理由は分からない。でも、あの黒い女の事を見たことがある」その言葉に、シェリアは息を呑んだ。
「教えて。あの人とカインは、一体どんな……」レナードはそう告げるとブレスレットの宝玉に触れ、中から銀色の剣を引き出した。
シェリアは知る由もないが、このブレスレットはアダマスと対峙したときに銀の銃を取り出したものである。
銃の他にもう一つ収められていた武器……シェリアはそれを見つめ、息を呑む。
自らの身に危険があることよりも先に、彼が握っている剣に見覚えがあったからだ。
滑らかな白地の鞘から抜き放たれた、先端の三分の一ほどが両刃である細身の長剣。それは、この世に二つとないはずの物だ。
レナードが布に包んで所持していた『今は使えない剣』は、あれからすぐここに納められている。
「……それは、カインの……なぜ、それをあなたが」平然と返すレナードに、シェリアは信じがたいことだと首を振る。
「……カインはそれをいつも帯剣している。だからその剣をあなたが持っているはずはない。困惑に満ちたシェリアの言葉を怒鳴り声で消し、レナードは自分が犯した失態に思い当たったようだ。当惑する銀髪の女を睨みつける。
「そういえば、素手で貴女の肩に触れてしまったんだ……迂闊でした」魔術師は素肌の触れ合いで、魔力の質や属性などをある程度見極めることが出来る。
だからこそ、レナードに触れたシェリアは何か――この場合、レナードにとっては正体を掴まれたのと同義――を感じ取ってしまったのだ。
「私も一応魔術師だから触れた相手の魔力の質に特徴があれば、間違えたりしない。ましてや……」言いながらレナードを見つめるシェリアの瞳は、こんな時だというのに慈愛の色が浮かんでいた。
「もう――そこまでにしてください」レナードはシェリアを拒絶するように早口で言い切り、剣先を向けた。
「貴女はどこに行っても……不幸しか連れてこないのだから、ここで終わりにしましょう」レナードの言葉の意味は分からないが、シェリアはレナードの指が剣の柄を強く握り直したのを見た。
「このまま誰にも知られず……誰にも見つからないこの場所で死んでもらいたい」レナードの重い声がシェリアの耳を打つが、以前ブレゼシュタットの宮殿内で、レナードの放った言葉を思い出していた。
「理由を教えるとき、私を殺すかもしれないって……言ってたよね」レナードも何かを掴んでいるようであったが、感情のままに話しているようで冷静さを欠いている。
「教えて。私とあの黒い女性はどういう関係なの!? どうしてそれによって、カインが苦しまなければならないの!?」義理の母と父のこと。確か、実の母親がやってきて凄惨な最期を迎えたはずだ。
「……確かなの?」レナードはシェリアに歩み寄ると、目を閉じるよう告げる。
「僕は、その目の色……金の瞳を鏡で見る度に苦して辛くて、憎かった。すると、シェリアは苦しそうに目を伏せ、ごめんなさいと呟いた。
「家族として生きることに苦しい思いをさせたのなら……本当にごめんなさい」冷静であろうと努めるレナードを見越したか、シェリアは頷いて『最後に』と口を開く。
「……最後に一つだけ、お願いが」びくりとレナードの身体が動いた。シェリアに見られること……それを一番恐れていたのかもしれない。
そう認識した途端、レナードは息を詰まらせた。
「…………」是も否も答えないレナードに、もう一度シェリアはお願いだと告げる。
「口実にして逃げないから。見せてくれたら……そのまま私を殺していいから……」見せるだけで、この女の覚悟は決まるというのか。
そんなわけが無いと思いつつ、最後の願いというのなら叶えてやっても良いと、そちら側に心が動く。
すると、レナードは剣を突きつけたまま片手で兜を乱暴に掴み、上に引っ張り外すようにして銀の兜を――脱いだ。
それを見たシェリアの顔に、驚きではなく……柔らかな笑顔が浮かんでいた。
髪は薄暗い路地でも輝くのではないかというくすみのない金の髪。
綺麗に切り揃えられているわけではなく、長旅のせいか、やや襟足は全体より長めに伸びていた。
赤みのある金の瞳は、嫌悪のためかやや細められているものの……紛れもなく、シェリアと同じ色。
そして、どこかもの悲しそうな彼の面立ちは――カインに似ていた。
「あぁ……リエルト……カインにやっぱり、そっくりになったね」愛しいその名を呼んでも、もはやレナードと名乗っていた男は反抗しない。
「……貴女に似ているとも言われましたよ。どうせ目元だけでしょうけどね」シェリアは嬉しそうに笑ってから、ごめんね、ともう一度呟いた。
「全然、良いお母さんになってあげられなくて……悲しい思いをさせちゃってごめんね、リエルト」剣をシェリアの喉元にぴたりと突きつけ、レナードと名乗っていた男は苦しげに顔を歪めた。
「お前が死んだら、全て終わるんだ……! お父様も、フィーア様も、僕も家族でいられるのに!!ぐっと柄に力を込めたため、アルガレスの宝剣の剣先はシェリアのチョーカーの革に食い込んだが、それを切断することはできていない。
レナードの肩は震え、俯いているため今から殺す相手の姿すら捉えていない。
「こんなに、私はカインとあなたを苦しめているのね……本当にごめんなさい……。シェリアの頬にも涙が伝い、涙声で謝罪するとレナードの手に触れる。
「――手、こんなに震えてるのね。人を殺したことは……ない?」シェリアはレナードの頭をそっと撫でて、彼の剣に触れた。
手袋越しに伝わる剣の刃は、丁寧に手入れされているのが分かる。勿論――ルァンの作った剣だから、さしたる手入れも必要ないのかもしれないが。
「リエルト、あなたのその手は血に染めないままでいてほしい。困ったような口調で、シェリアは路地に視線を泳がせる。
道に転がっているのは、錆びと泥に汚れた鉄の長釘だった。
レナードの力の入らない手を離し、シェリアは彼の側に落ちていた釘を拾い上げて諦めた顔をした。
「……贅沢は言えない、か……」綺麗な蒼い空を仰ぎ、ゆっくりと目を閉じる。
なぜ成長した我が子が目の前にいるのかは分からない。
カインの苦しみも、レナードの悲しみも、あの黒い女性との関係も、全て――把握することもできなかった。
ただ、カインが毎日のように思い悩むベルクラフトにも自分は渡ることもなく、リエルトの憎しみがこれで晴れ、フィーアの懸念も消えるのなら――
シェリアはざらつく釘頭を握り込み、思い切り胸に突き刺した。
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