およそ二十日ほどの日程をかけて、ブレゼシュタットから海路でクライヴェルグへと到着したカイン達。
早朝に入港したが、入国許可が下りたのはその日の昼下がり。
その際、フィーアやカインといった王族が勤めとして希望していたクライヴェルグ国王との面会は、先方より『多忙なので当分叶いそうにない』との通達を受ける。
外交としてその態度はどうかという非難よりも、イリスクラフトの兄妹が共に来たという事で、ベルクラフトとの諍いをクライヴェルグ王家に警戒されているのは想像に難くなく、ある種の理解さえ感じられた。
それに、あらかじめこの国の王族に面会を申し込んだブレゼシュタットの王女もアルガレスの皇子も、全く気に留めた様子はない。
面会を不要とする見返りに、本当にある程度行動を黙認してくれるのなら一番助かるのだが、ともカインは呟いていた。
とうとう、クライヴェルグ王国へとやってきてしまった。
感慨深いような、諦観めいた心境のような……ラーズの表情は穏やかではあっても、その心は不安や懸念を抱えている。
この国には本当に来たくもなかった。出来ることなら今すぐ離れたい。
しかし、ラーズの父親ルドウェルはシェリアを渡さないのならば自分たちで決着を付けろといった。それが、国家証――アルガレス皇帝陛下の代弁者――という権限。
ルドウェルは、一体皇帝陛下にどのような甘言を持ちかけて国家証を賜ったのだろうか。
『父親が娘をどこへ渡そうと、構わないのではないかな。全ては家のためだ』家長であるルドウェルの言うことは……この社会では否定できない。
イリスクラフトであろうとも家を存続させるためには、他の家とも繋がりを得て家の力を強くすることが望まれる。
それゆえラーズの妻は名門貴族の令嬢であり、その婚姻でイリスクラフトはアルガレス帝国内でますます強い人脈と影響力を手に入れている。
何よりも――リエルトが王家との絆を作ってくれていた。彼が無事に成人し、王位を継承することが出来れば……もう怖いものなど何もないのだろう。
だからこそ、ルドウェルはベルクラフトとの最悪とも言っていい関係を軟化させることに目を向けたのかもしれない。
それはラーズだけではなくシェリアも同じだろう。
いつも明るくあろうと努めているシェリアの顔は憂いを帯び、羽猫をぬいぐるみのように腕に抱え城下町を見つめていた。
その有様は迷い子となった幼い少女を彷彿とさせ、それを見ていたラーズの胸は切ない痛みを覚える。
一歩足を踏み出そうとした矢先、彼の横をフィーアが通り過ぎて、安心するようにといいたげな笑顔で振り返ったではないか。
「貴方にとっては可愛い妹ですもの。心配するなとは言いません。すると、フィーアはラーズの言葉を可笑しそうに聞き、手を軽く振ってシェリアの方へと足を進めていく。
当のシェリアは、そんな話も知らずに見たこともない街の姿を見て、気分を変えようとしているらしかった。
肌に伝わるのは潮風だけではなく、数え切れないほどの精霊の気配。アルガレスにも精霊はいるけれど、こんなに多くは町に入ってこない。
城下町――あるいは国中を飛び回り、人々と密接に関わっている様子。
実際、馬を操る御者は風精霊の力を増幅するような術符を馬車の屋根に張り付けていたり、水辺には水精霊を呼びやすくする魔法文字が施されていた。
なるほど、魔法国家はこんなにも生活に魔法が密接に関わり発達している、とシェリアは感心する。
これがアルガレスに普及されていたらどれほど便利なのだろう? とも考えた。
が、ラーズは風の魔法を使用し馬が駆ける速度を上げていたし、父の弟子やアルガレスの魔法アカデミーでは、こういった応用技術を教えているかもしれない。
泣いて頼んだ回復魔法以外学ばせてもらえなかったシェリアにとって、クライヴェルグの文化は第一印象から多大な衝撃となった。
「魔法をこんなに浸透させているなんて……」側へとやってきたフィーアが腕を上にあげ、だるい身体を伸ばすようにしながらこの国の特徴を説明する。
「そのおかげで、人々は更に生活の利便性を向上させる。魔術の基礎が出来ているから、教えることを省いて高度な魔術や研究を行える。生まれ落ちたところから、既に精霊との交流準備が整っているところは世界規模で探しても難しいはずなのに、この国は教会で洗礼を受けるよりも気軽に行える。
「……では、どうして……」国民の多くが魔力に興味を持ち、量の差はあれど魔力を有しているということにシェリアは新たな疑問を覚えた。
フィーアもシェリアの考えに気づいたか、彼女の横顔を観察するように見つめながら口を開く。
「この国……いえ、ベルクラフト……のことをお考えに?」今日明日中に会うかもしれないベルクラフトはイリスクラフトの分家。
イリスクラフトがアルガレスに居を移しても親密な交流があったはずだが、とある事件……クライヴェルグの王女がイリスクラフトへ嫁いでから、両家の関係は急速に悪化した。
親交はぷつりと途絶え、音信不通とも言える状態になったのだ。
分家といえど、ベルクラフトは旧くから歴史連なる魔術師の家柄であることに間違いは無い。
イリスクラフトはほぼ何もない場所から魔力の汲み上げ方や放出の方法など様々な研究を重ね、ベルクラフトはずっとこの魔術的に整った国に根を下ろしている。
それも十年、五十年という期間ではない。二百年も昔のことだ。
結果、イリスクラフトは更なる成長を成し遂げ、ベルクラフトは――どういうわけか没落の一途を辿っていった。
一族の経験と身体に刻まれた魔力は、血を分けた子供に受け継がれていくのだと聞いた。
だからこそ同じ【イリスクラフト】でも、碌に魔法を教えて貰えなかったシェリアですら普通の魔術師が抱えきれぬほどの魔力を備えているし、幼い頃から魔法の勉強ばかりしていたラーズは、将来父の称号を受け継ぐに相応しい魔術師へと成長を遂げている。
本来なら、ベルクラフトも同等程度の力があるはずだったのではないか。
一体、ベルクラフトには何があったのか……どうして自分が必要なのか知りたいとシェリアは純粋に考えていた。
「わたくし、魔術師の家系のことはあまりよく分かりませんが、魔術師だからこそ血族の保護を一層大事に考えていることもあるのでしょうね……」フィーアはそうしてシェリアの肩へ手を置き、目を細める。
「この話し合いさえ終われば、貴女を縛り付けるものももうなくなる。良い成果を出しましょうね」荷物の搬入場所について船夫より声をかけられたフィーアは、一瞬だけ嫌そうに眉を顰めたものの、指示を出しながら彼らのほうへと向かっていく。
私を一番縛り付けるものは、一体何なのだろう。
ルドウェルだろうか。ベルクラフトだろうか。それとも――シェリアは甲板に佇むカインの様子をちらりと伺う。
カインは険しい面持ちのまま、クライヴェルグの美しい街並みを睨むように眺めていた。
彼のことを見つめるだけで、心がきゅぅと痛む。
『騙されているのよ』あの女性――船上に現れた黒い女――とカインは、相手を信用するなと同じことを吹き込んでくる。
あの女性と出会ってからというもの、この国に近づくにつれ、カインの口は次第に重くなって互いの会話は減った。
カインの微笑を見たのはいつだったか、一番最後に何を話したのか、それすらはっきりと思い出せない。
そのカインが身体ごとシェリアの方へ向き直ったかと思うとこちらへとやってくる。シェリアは懸命に話しかける内容を考え、慌てはじめた。
「あっ……あの……」とだけ伝えると、シェリアの側を通り過ぎた。慌てて振り返ったシェリアだったが、問いかけようとした唇はすぐに閉じられる。
一体何を話せば良いのか、分からない。
話したいことや聞きたいことはたくさんある。
しかし、それは自分かベルクラフトに関することなのでカインは答えてくれないだろうし――今、仲間の中で自分とは一番話したくないのだというのも肌で感じ取れる。
嫌われたくないという感情が、心に悲しみと溝を広げる。カインに手を伸ばせば、その手は払われるのではないかとも思わされた。
羽猫を抱きかかえながら自らの手を強く握り直し、シェリアは小さな友人の柔らかい毛に頬をすり寄せる。
「にゃー……」小さく鳴いた羽猫にごめんねと謝り、ぎこちなく微笑んだ。もしも行動に音が伴うのなら、その笑顔はきっと軋んだ金属のような音がするはずだ。
「そんなところで、ボーッと立っていると通行の邪魔になりますよ。ただでさえ貴女は浮いているようですから」辛辣な言葉がかけられて、シェリアが困ったように主を探すと、声の主は不機嫌そうに口をへの字に曲げて倉庫の中から顔を出す。
「レナードさん……なんでそんなところに」そう言った彼の手には、シェリアのコート――あまりのダサさに驚いたフィーアが仕立て直させたもの――が握られていた。
「えっと……ありがとう、ございます……」シェリアがぺこりと頭を下げて、彼の手からそれを受け取ると……羽猫はとん、と床に着地して、仮面の男を見上げる。
素性の分からないこの男は、しきりに周囲を気にしているようだった。
コートに袖を通しているシェリアはそれを何とも思っていない様子だし、周りにはカインやフィーア達もいない。
「――カイン様はまだ準備があるようですので、僕が外までお連れします」緊張に固くなるレナードの声を聞いたシェリアは、意外な誘いに一瞬ぽかんとした表情を浮かべたが……すぐに頷いて『よろしくね』と無理に声を弾ませた。
仮面の男の纏う雰囲気が強張っていくのに、シェリアは気がつかない。
「じゃあ、行ってくるから……留守番お願いね」頭を撫でられた羽猫は、シェリア達を見送るようにその場に座り込むと、にゃあと一つ鳴いた。
背を向けたシェリアとレナードを見送ってから、羽猫はゆっくりと立ち上がり……青い瞳を船室に向け、解き放たれたように疾走した。
その方向にはカインの船室があり、運が良ければラーズがレナードを探して歩き回っている頃だろう。
はたして誰かに知らせたとして――どうしようというのか。
ちょうどその頃、恭介も自らの部屋で支度を整えていたが……左目に激痛が走ったため、目を押さえて呻く。
「痛った……!」脈動する痛みを堪え、恭介は肌身離さず持ち歩いている書を手に取る。
透かしのある銀色の栞を挟んでいた箇所――丁度今日の記述が始まるあたり――を開き、書かれている内容に変化が無いかを読み取ろうとする。
毎日何回も行っていることだが、この目の痛みはただ事では無い。
嫌な予感は的中するもので、びっしりと書かれていたはずの文字列は徐々に消えていく。
「そんな……!」慌てて次のページ、その次のページ……とめくっていくが、既に何十ページも白紙が続いている。
そして、白紙のページは一斉に文字が浮かび上がっていき……恭介は再び栞を挟んだページへと戻り、読み直した。
そこに書かれている内容は、元の記述よりも悪く……はっきりと事の次第が書かれていたため、恭介は信じたくないというように首を横に振った。
本を抱え、恭介は船室を飛び出す。大声で仲間の名前を呼び、誰でも良いから早く顔を見せて欲しいと願った。
恭介の本に書かれていた元の話としては、シェリアは……この地で、明日行方不明になるはずだった。
それなのに――――その記述は消えて、新たに書かれているのは【レナードはシェリアを殺す決意を固め、彼女を誘って船を下りた】という出だし。
――まさか、彼自らそんなことを考えていたとは!!特異である存在が出来事を変える。恭介が変えたいと思っていた歴史は、悪い方向へ変わろうとしていた。
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