【ルフティガルド戦乱/26話】
「……え、クライヴェルグに……行く予定だったんですか?」

国家証を携えたルドウェルからの依頼を受け、出航を明日に控えたその夜。

港町に停泊していた船の中で、レティシスとレナードは改めて目的地を聞かされていた。

「てっきりクライヴェルグに寄らず、リスピアかアズクラに行くのかと思ってた」
「そうしたいのはやまやまだが、個人的に片づけなければならない事がある」

カインの言葉に含まれた真意。

レナードはそれが何であるか理解したようだ。一度頷いたきり口を開かない。

かたや、あまり深い事情を知らないレティシスは、カインさんが決めたならそれでいいと答え皿に盛られた木の実を口に運んだ。

未来が本に書かれていると言っていた恭介は顔色を変えず、カインの話に耳を傾けては周囲の仲間の様子を見ている。

これもまた、あの本の中では『物語通り』なのかもしれないが。

「……それより」

カインは、シェリアの膝上で丸まっている白い猫――いつか見かけた羽猫らしきもの――を指す。

「なんだこれは」
「ここに来る前に、また会ったの。
何度か来てはいけないって言ったんだけど、結局ついて来ちゃって……」

シェリアはそう言いながらも嬉しそうに羽猫の背を撫ぜる。

「旅をするのに飼えないぞ、そんなもの。出航前に野へ放せ。お前は本当に、相談もなく色々なものを保護したがるな」

そう言いながらカインはシェリアからレティシスに視線を移し、意図に気づいたレティシスは不満げに唇を尖らせた。

「ダメだって……ごめんね」
「うにゃー」

シェリアの残念そうな声に呼応し、羽猫は尻尾をゆっくりと左右に揺らす。

「良いではありませんの、猫一匹くらい。重要な倉庫番にもなりますから、わたくしが許可します」

ねぇ? と同意をシェリアに投げかけながら、この船の主であるフィーアが実質的な……本当に誰よりも強い権限で許可を出す。

こうなればカインも反対はできないらしく、悪戯させるなよと言って椅子に背を持たせた。

「変わった猫ですのね。名前はなんと付けるのかしら」
「決めてないから、ゆっくり考えます」

触りの良い毛並みを撫で、嬉しそうに答えたシェリアへ、フィーアも目を細めつつ猫に手を伸ばす。

……が、猫はすぐにシェリアの膝から床へ降り、人のいない部屋の隅へ逃げてしまった。
「あらまあ。嫌われてしまいました……」
「怖い人だって分かったんじゃないかな」

残念そうなフィーアに、レティシスが笑いながら発した言葉は、逆にフィーアに睨まれる事となってしまった。

慌てて視線を逸らすレティシスに噴き出し、恭介が僕も触れなかったよとフォローした。

「シェリアにしか懐いてないみたいだよな」
「最初から懐っこかったの。カインが大きな声を出したから、逃げてしまったけど」

人の言葉が分かるみたいよ、と言いながらシェリアは羽猫を呼ぶが、羽猫は多数の視線を感じたせいか近寄ろうとはせず、にゃあ、と細く鳴いた。

「明日からは暫く海の上。
退屈でしょうけど、酒が欲しければ食堂に、娯楽室でしたら船内にあります。自由に寛いでくださいませ」

フィーアはそう言い、早く寝るからと部屋に戻る。

「私も、ちょっと夜風に当たってくるね……一緒に行こう?」

シェリアも椅子から立ち上がり、羽猫に声をかけると――羽猫はシェリアの足元に駆け寄ってきた。

猫が可愛くて仕方がないのだろう。それを抱き上げ、シェリアは嬉しそうに船室を出て行く。

「……眠れないのかな」

シェリアが出て行った後、レティシスが不憫そうな顔で閉められた扉を見つめると、ラーズも曖昧に微笑んだ。

「心中穏やかではないでしょうね……。かくいうわたしも、クライヴェルグは避けたい気持ちがありましたから」

ラーズの記憶に、陰気そうな顔で母を迎えに来た男――恐らくベルクラフトの一族だろう――が思い起こされる。

美しかった母は、どうしているかをよく考えた。

しかし、いつからか無事であるはずはないのだと感じるようになり、思い出すのが辛い記憶となっていったのか。

「……ラーズ……アルガレス王家がお前たち兄妹を、辛い境遇に追いやってしまった事を……猛省している」

カインは沈痛な表情でラーズを見たが、ラーズは大丈夫ですと笑いかけた。

「勿体ないお言葉。しかし、いつかは片づけなければならない問題でした。
もう二度と、こんな歪んだ話し合いが起きないよう……わたしも彼らと話し合いたい」
「しかし……当主ルドウェル……いえ、マジックマスターの意思とラーズさんの考えが違うのに、ベルクラフトは話し合いに応じてくれるのでしょうか」
「仰る通りですが、欲しいものが我々と共にあるなら邪険には扱えないはずです」

レナードが己の考えを述べ、ラーズは首肯しつつ揶揄したこと――シェリアの存在だとカインは理解する。

恐らくベルクラフトとの話し合いなど、ラーズやカインだけではとりつく島もない。

しかし、手元にシェリアがいるとなれば――彼らは嫌でも招き入れるしかない。

「……ぼくには静観するほかありませんが、何か手伝う事が出来ましたら教えてください」

重い空気に包まれた空間では息がつまるのか、レナードは『それではまた明日』と言って席から立ち上がり、恭介も『明日は寝坊できないから早く寝るよ』と次いで立つ。


雰囲気的に解散となったが、レティシスは暗い窓の外を見て小さく息を吐いた。

「……カインさん、シェリアの様子を見に行ったら?」
「……行きたいのはお前じゃないのか」

カインの問いに、レティシスはない交ぜの感情を押し殺し、むっつりとした顔で『俺じゃなくて』と吐き捨てた。

「あんたじゃなきゃ……駄目なんだよ」

カインはレティシスの苦しげな表情を暫し見つめ、逃げるように視線を逸らすと彼の横を通り過ぎ、無言でドアを開けて出て行く。

足音が遠ざかるのを聞きながら、レティシスはハァと小さな息を吐いた。

「……カインさんは、どういうつもりであんなこと聞いたのかな」

すると、ラーズは自分のことではないのにすみませんと謝罪する。

「父が秘密裏に行っていた事はシェリアにとって、親に裏切られたようなものです。
それに――今回のようにカイン様でさえ知らない重大な事が多々あった。彼は当事者でありながら、被害者でもある。
恐らくシェリアは急な出来事ばかりで混乱しているでしょう。わたしでさえ妹にどう言葉をかけて良いのか悩みます。
カイン様のほうが、シェリアが目に見えて傷ついていると分かっていても……どう慰めの言葉をかけ、どう接していいのか分からないのだと思いますよ。
誰かに背を押して欲しいと、そう願っているのかもしれません」
「そんなに繊細なのかな、あの人。常に人を信用してなさそうだけど」
「……割と細やかな方ですよ」

誤解されやすいので、そう見えますよねとラーズは苦笑したが、親友だから分かることもあるんだろうとレティシスが思った矢先――肩にラーズの手が置かれた。

「カイン様に機会を与えて下さり、ありがとうございます」

それを聞いたレティシスは困ったように眉を寄せると、よしてくれよと頭を掻いた。

「……お姫様を救うのはさ、従者じゃ駄目なんだ。それに、王子様を助けるのも……お姫様の役割なんだろ」

御伽話では必ず、騎士か王子様が救う。

それに、異世界の住人である恭介はここが本の中だと言っていた。

だったら。

「そういう、ものだよな」

レティシスは自分に言い聞かせるように、そう呟いた。



沖からくる磯風は少々冷たいが、腕の中に新たな仲間となった羽猫を抱えていたので、震えるほどに寒くはない。

所々、町の方ではライトが煌々と輝いて美しく夜を照らす。

町から視線を外し、暗い水面を見つめながら、シェリアは今までのこと……自分の人生をぼんやりと振り返る。

幼い自分たちが出会ったあの日。カインが窓辺にいた自分を見つけなければ、今の自分はここにいなかった。

カインが尽力してくれたおかげでベルクラフトに行かずとも良くなったし、暮らしに不便はあったが辛いと感じるような毎日ではなかった。

だからこそカインに多大な感謝と恩義を感じ、彼のために今度は自分も役に立ちたいと思っていた。

それなのに、今の自分は何が出来るのだろう。

カインには国同士で決めたフィーア王女という婚約者がいて、自分はもうカインの婚約者ではない。

愛しい息子のリエルトは、アルガレス王家の者として手放さざるを得ないのか。

それだけではなく、ベルクラフトが――自分をまだ諦めていないこと。それも、自分の父は承諾していた。

一人で居るのは怖い。だが、誰かと一緒に居るのも息が詰まる。

本当に、話し合いの余地があるのだろうか。

「私は……ちゃんと、説得できるのかな……」

ベルクラフトの当主はどんな人物かも分からない。彼らのイリスクラフトに対する執念は、どこから来るのだろうかと思うほどに恐ろしい。

母をどのような境遇に置いているのか……きちんと面会できるのだろうか。

そして自分はまた、仲間と共に旅を続けることが出来るのか。

不安げな表情のシェリアを気遣うように、羽猫は小さな鳴き声を出しながら彼女を見上げていたが――その動きが突如機敏なものとなる。

はっとあらぬ方向を見たかと思えば、シェリアの腕を蹴って飛び出すと板張りの床に音もなく着地し、暗闇を見据えながら細い毛を逆立て威嚇の声を発する。

「どうし――……!?」

強張った表情でシェリアも猫が見つめる方向に視線を向けると――暗闇が動いた。

「こんばんは、シェリア……」

浮き上がるように、夢で見た全身黒いあの女性が姿を見せる。

「あなたは……!」

今まで忘れかけていた全てが、まるで昨日のことのようにシェリアの記憶の中で鮮やかに思い出された。

自分を見て僅かな笑顔を見せたシェリアに、覚えていてくれたのねと言って、自然と女も目尻を下げる。

「ああ……シェリア。皇子の側にいるのは苦しかったでしょう。知りたくないことも……知ってしまった」
「……あなたは全部、知っているのですか」

シェリアがそう投げかけると、女は悲しげに首肯する。

「だから、騙されていると言ったのに……ああ……そんな不安そうな顔をして……大丈夫……?
こちらにいらっしゃい、シェリア。あなたの本心を聞かせて」

言われるままにシェリアは女性へ近づこうとしたが、羽猫がシェリアのブーツに噛みつき、床板に小さな爪を立てて体をぴんと伸ばして踏ん張る。

「……大丈夫、あの人は怖くないわ」

そう言い聞かせるように頭を撫でてやっても、猫は蒼い目に敵意を乗せて女を見つめ続けている。

まるであの女の側には行かせまいとしているかのように。

黒い女はそれを見て一瞬不快そうな顔をしたが、シェリアは気がついていない。

「……ルドウェルはあなたをずっとベルクラフトへ渡したがっていたから……いつか、何かの綻びが出ると思っていたけれど……」
「父の事をを知っている……? あの、あなたは……一体どなたなんですか……!?
もしかして、私の――」

母様なのですか。


半ば祈るような気持ちで告げようとした言葉は、別の声にかき消された。

「――シェリア!!」

行動を縫い付けようとするような鋭い声に、はっと振り返ったシェリア。

すると、自分からそう離れていない場所にカインが立っていた。

「その女……ッ?!」

その彼は今までシェリアが一度も見たこともない――恐怖を覚えた顔のまま、シェリアと黒い女性を見つめていた。

「カイン、この人は……」

シェリアはそれ以上告げることが出来なかった。

「――貴様ぁあああッ!!」

恐怖を見た顔はみるみるうちに憎悪を滾らせて歪み、カインは雄叫びを上げながら剣を引き抜く。

「カイン!?」

恐ろしい殺意が、自分を通り越して後方の女性に向けられている。

シェリアがカインの変貌に驚き、立ちすくんでいる間にカインは彼女の側を駆け抜け、女性に白刃を振り下ろそうとしている。

「よくもオレの前に再び顔を出せたものだな!! この日をどれだけ待ちわびたか……! この場で原形も残らぬほど切り刻んで殺してやる!」

女性は危なげない動作でカインの剣を避け続けているが、我を忘れたように剣を振るい続けるカインの様子を懐かしげに見つめていた。

「皇子……【あの日】を覚えている? はじめてあたしたちが会ったあの日を」
「――覚えているとも。我が人生の中で一番の恐怖と絶望を味わった日を、忘れるわけがない!」
「フフ……何もしていないのに大げさね。あなたはそのまま、穏やかに暮らしていたら良かったものを」
「貴様だけは生かしておくわけにはいかん!!」
「ちょっと……待って! 落ち着いて!」

再びカインが剣を振るおうとするのを、シェリアは腕にすがりついて止めさせる。

「カイン! どうしちゃったの!? なんで……なんで女性に斬りかかったりするの!?」
「離せッ!」
「だめ……お願い、やめて!!」

カインはシェリアの言葉に耳を貸そうとしない。

「……おい、何やってるんだよ!」

騒ぎに気づいたレティシスやラーズが駆けつけ、腕にすがりつくシェリアと、剣を振るいながら殺すと言い続けるカインを驚きの表情で見つめる。

すぐに二人がかりで羽交い締めにして動きを止めさせたが、カインは離せと叫び、激しく身を捩って縛めを振り解こうとしていた。

「今のうちに、あなたはここから……あれ?」

シェリアが女性を逃がそうとしたが、あの女性は忽然と姿を消していて、肩で荒い息をつくカインが激昂しているだけだった。

激しい怒りを見せていたカインも、女性が姿を消したと分かると余分な力を抜き、やり場のない怒りを抱えて拳を握る。

「カイン……あの女性を、知っているの……?」

カインと面識があるのなら、一体どのような人なのか。

ましてや殺意を抱くほどの出来事があったのか。

シェリアの疑問に、カインは苦しげな顔をし『答えられない』とはっきり告げた。

「どうして!? まだ何かを隠さないといけないことなの?」
「これはオレの問題だ。シェリアには関係が無い」
「……ある。あの人、私の夢に出てきた。カインがフィーア様と婚約者だって教えてくれたもの」

すると、カインは驚いた様子でシェリアへ向き直る。

「いつ、それを……!?」
「カインと兄様とフィーア様が、内密の話をするとき……あの日、私は夕方まで眠ってしまったの。
その時……夢に出てきて。あたしの可愛いシェリア、って言うから……もしかして母様なのかなって……それだけだけど……なんだか暖かい感じがして……」

シェリアの話を聞きながら、カインは首を左右に振り、違うと弱々しく否定する。

「騙されるな。お前達の母親は銀髪だと聞き及んでいるぞ。
あれは……お前の母親などではない。そうか……あの女は、ついにそこまで」

カインは呻くように呟き、レティシスにもう離してくれと告げると、剣を収めた。

「ねえ、一体何があったか話して……?」

教えて欲しいと懇願するシェリアの顔を見ないようにして、カインはもう一度『答えられない』と拒絶した。

「……もう、寝る」

絞り出すような声でそう言い残したカインに、シェリアは悲しみとますます深くなる溝を感じるのだった。



「……これは、良くないなぁ……」

それを二階の船室から眺めていた恭介は、難しい顔をして首を傾げたが――そのまま視線を隣の部屋へ向ければ、その部屋の主、レナードも同じ光景を見ていたようだった。

ほぼ真下で行われている喧噪が聞こえないわけがない。視線に気づいたレナードがこちらを振り返ると、恭介は肘を手すりにかけたまま下を指す。

「……皇子はどうしてしまったのかな」
「それが、よくわかりません。途中から見たもので」

そうレナードは頭を振ったが、恭介は意地悪く眼を細める。

「……本当は全部知ってるんだろ、君」
「何をです」

含みのある口ぶりに、レナードの声は自然と硬さを帯びる。

「何って、全部。君はカイン達の近くに居るのに、ぼくの本に全く載っていない人なんだ」
「……それがなんだというんです。僕はただの密使で……」
「頼むから、本当のこと教えて。知られてはいけない秘密なら守るよ」

恭介はレナードの言葉を遮り、抜け目ない猫のような顔で彼を見据えた。

「本には【アルガレスの密使が行動を共にしている】なんて記述はない。ぼくも最初から本には載ってなかった。
でも、言ったよね。あの本は記述が変わってきている、って。ぼくの事もね、数週間前初めて本に名前が出て来たんだ。
でも――君は、アダマスを追い払うほどの活躍を残しながらも、あの本に載らない。
……君は【誰】で【何が】目的なの?」

レナードは恭介の本心を見定めるように彼を見据えていたが、急に『バカバカしい』とため息をつきながら答えた。

「……その本に載るか載らないかは、僕の裁量ではない。
目的は皇子達の行動を依頼主に報告することだと前にも話しました。いちいちそんな事で問い詰められるのは迷惑です」

棘を含む言い方にも、恭介は動じない。

シニカルな笑みを見せ、『表向きそういう設定になってるんだね』と呟いた。

「……あの黒い女性の正体も、皇子の態度がおかしい理由も、本当は知っているのでは無いの?」
「――いい加減にしてください。当てずっぽうで物事を語ろうとしない方が良いですよ」

そういってレナードは部屋に引っ込んだが、恭介は『つつきすぎたかな』と苦笑して、悲しげな表情を浮かべた。

変えたい日時、変えたい場所。その原因と結果は一文字も変わらない。

カインがクライヴェルグ王国に行くと言った時、恭介は驚愕より落胆の方が大きかったのだ。

「――ぼくには、変えたい未来がある。でも、ぼくにもカインにも――変えられない事なんだ……」

クライヴェルグ王国に行くことは、当初から本の記述にある。


そこで――ある人物を失う内容も、変化がないままだ。



――あのキョウスケという人物は危険だ。

部屋に戻ったレナードは窓を固く閉めたまま動きを止め、動揺する心を静めようと努めた。

『本当のこと、教えて。秘密は守る』

恭介の言葉がまだ耳に残って、レナードを苦悶させる。

本心ならば――とも思う。しかし、レナードの心の奥で、強く『否だ』と叫ぶ自分も居る。

彼の言葉は好奇心から出ているだけなのだ。信じてはいけない。そう自分に言い聞かせ、深い息を吐く。

この落ち着かない気持ちから逃れたくて兜を脱ぐと、蒸れた肌にひんやりとした空気が心地良く感じる。

人前では外さない銀の兜。

持っていなければカイン達の前に姿を見せることはできなかったし、表情が読まれやすい自分にはこれがあって良かったと心底思う。

こうして素顔でいられる時間は少ない。カラーチェンジの腕輪に触れ、効力を解除しようとして……止めた。

タオルを手にして汗ばんだ肌を拭き、兜をベッドの上へ放り投げると、机の上に視線を向けた。

そこには使い込まれた革製の手帳が開かれていて、あちこちのページには付箋代わりに紙が挟まれていたり、角が折られている。

ただ、今開かれているページだけは他の箇所よりも折り癖が強く、何度も読み返した証に、紙は外も内側も大分汚れていた。


【何がいけなかったのか!】
【どこにいる】
【返してくれ】
【許さない】


走り書きで乱れる文字を見て、レナードは唇を噛んだ。

この文字列を見る度、そして、あの出来事を思い出す度――苦しいほどの焦燥と憎しみが彼の胸を焼き、落ち着かない気分にさせる。


――もうすぐ終わる。

手帳を閉じ、レナードは拳を握る。

思い浮かべたのは、記憶の中で薄く笑うシェリア。

『私、カインとリエルトと一緒にいたい。それだけが望みなの』

そのささやかな願いも、もはや許される立場ではないと、彼女はもう知っているはずだ。

カインも一国の皇子として国を思うなら、フィーアのことは拒否できないだろう。

それでも、カインは幼い頃に交わしたルドウェルとの約束を守っていたし、そしてわざわざシェリアの為にクライヴェルグに赴くのだ。

レナード本人も、あの二人が一緒に居ることを快く思っていない。だから、こうして徐々に溝が深まれば結果的に良いのだと――そう感じている。


「――あの人の保護なんて、ただの義務でしかないくせに」

レナードはふと、思った言葉を口にした。

ラーズ以外の誰に対しても、心を開かないカイン。

シェリアに様々な事情を説明しないのも、内情を話すに値しないからに相違ない。


なのに、なぜ二人は共に居ようとするのか。それがレナードには分からなかった。


――どうあれ、クライヴェルグに行くのなら。ベルクラフトと決着をつける前に、あのひとを殺さなければなるまい。

その結果、自分は叔父とのもう一つの約束も破ってしまうし、計画を知られたら自分はカインに殺されるだろう。

惜しみない協力を施すフィーアにも、嫌悪の視線を向けられるに違いない。

だが……自分の計画を実行するにしても、恭介に露見してはいけない。あの男は未来が視える。

自分に見えた未来を変えることはできないと言っていたが、それも果たして本当かどうか怪しい。


それでも。


「それでも、僕は……あのひとを殺すんだ……!」

それで、アルガレスもイリスクラフトもベルクラフトも――全てが丸く収まる。

レナードはそう信じ、鞄に手帳をしまう。




一人一人の想いを見守るように、満天の星が漆黒の空に散りばめられている。

それらはこれから先、近い未来に起こる惨劇を見たくないというように――静かに瞬いていた。



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