フィーアがカイン達と共に行くと告げてから四日が経ち、恭介が受けた傷もほぼ癒えてきた頃。
中庭から外の景色を眺めていたカインは、あれは何かと荷運びの列を指し示す。
「何って……物資ですわ」ベッドに腰掛けてシェリアに魔力安定の術を施していたフィーアが当たり前のように口にした言葉へ、カインは思わず冷たい突っ込みを入れてしまった。
なぜカインと同じ部屋にシェリアとフィーアがいるのかといえば、カインとシェリアを一緒の部屋にして、フィーアが昼夜問わず毎日遊びに来ている……いや、入り浸っているからだ。
その甲斐あってか、フィーアとシェリアは少しずつ親しくなり、カインとしても安堵しているところ……なのだが、肝心の本人がフィーアと距離を置いている事には気づいていない。
「当然、わたくしたちが使うんですのよ。ブレゼシュタットは、海を隔てて国が南北に分かれている。
北側の首都エガムトやここリフラムは非常に栄えているが、海を渡った南側のペレンスポートやパーヴァストゥはこちらほど栄えてはいない。
それに、ペレンスポートには犯罪者を収容する施設……いわゆる刑務所がある。
塀に囲まれている場所だといっても産業は漁業か交易程度しかなく、海を渡るもの以外はあまり好んで近寄ろうとしない。ゆえに寂れた場所なのだ。
「操舵や航海士が必要とはいえ、他に何を詰め込もうとしているのか」内容をすらすらと答えてまだ足りないかと言わんばかりのフィーアに、カインは渋面を作る。
「少人数で忍んで旅をするのも理解できますが、人々への説得力に欠けるのです。カインにもフィーアが言わんとする事の意味は分かるし、自分が理想を掲げ、ラーズ達に付き合わせてしまっている事も理解していた。
「……オレのやっている事は、偽善でしかないのだろうか」カインがそう漏らすとフィーアとシェリアは顔を上げ、カインを見つめる。
「民が絶望を抱き、疲弊していくのは見たくない。他国でもそれは同じこと。フィーアは悪戯っぽく笑うと、ご安心くださいませと言った。
「まずは魔王を引きずり出す事からです。同卓に着かねば何もできません。そうして見つめ合うカインとフィーア。シェリアもそれを微笑ましく見守るが、そこへ丁度女官がやってきた。
「フィーア様。アルガレス帝国より、ルドウェル・イリスクラフト様が参りました。女官の告げた通り、国家証というものは各国の王より賜るものであり、王の言葉と考えても差し支えない命令を運ぶ。
その折、国境や手続きなどの手間や時間を省くため作られたものだ。
それを持って現れたルドウェルの要件とは何なのか……。
「……わかりました。すぐ参ります」フィーアは女官にそう告げ、扉を閉めるとカインとシェリアのほうへ歩き、大丈夫ですかと声をかけた。
フィーアはちらとシェリアを伺ったが、彼女は先日のカインと王の会話詳細を知らない。
「カイン様、申し訳ありませんが、ラーズ様を呼んでいただけますか」カインは即座に部屋を出て行ったが、シェリアはルドウェルの名前が出てからずっと困惑した様子である。
「カインやフィーア様だけではなく私達まで呼ばれるのは、一体……」シェリアの手を包むように握ると軽く手を叩き、わたくしがついていますから大丈夫ですわ、と微笑んだ。
応接の間に通されていたルドウェル・イリスクラフトは、フィーアの後ろに三人の姿が見えると、革張りのソファから腰をあげる。
「こうしてお会い出来るのは嬉しい事ですな、カイン様」暗になぜ来たのかというカインに、ルドウェルは忠告と助言を持ってきたという。
「では早速……先日からベルクラフトより、早くシェリアを引き渡して欲しいという旨の催促が止みません」理由を知らないシェリアを前に、ルドウェルはそう話すが、カインは話し合いを拒絶しようとする。
だが、シェリアが驚きの声を上げたのをルドウェルは聞き逃していなかった。
「皇子はこの話を御存知のようですが、うちの娘は知らないようですな」そう言いつつ、ルドウェルはシェリアに視線を向ける。すると彼女は怯えたように肩を震わせ、父親の意味ありげな表情を見つめた。
「当人が知らないのはおかしなことだ……シェリア、お前はベルクラフトへ行きなさい」日頃穏やかなラーズが怒鳴るように荒い声を上げるが、シェリアは衝撃に声も出ない様子で、そのまま立ちすくんでいる。
「おや、ラーズも知らなかったのだったか?リエルトを素直に王家の者だと認めてくださっているのだ、それで十分だろう。
淡々としたルドウェルの語りは、より一層の生々しくシェリアの心に刺さり、抜けない。
「父様」僅かな可能性に縋るような表情でシェリアはルドウェルに話しかけたが、その言葉は無理矢理に絞り出したかのように細く震えていた。
「最初から……私はベルクラフトの元に『行くようになっている』の……?ルドウェルの断定的な言葉は、シェリアの心から希望を奪い去っていく。
フィーアはそれを歯がゆく見つめながら、このような父親もいるのだと苛立ちを覚え、怒りや侮蔑の言葉を発さないよう努めるために掌へ爪を立てた。
シェリアはそれ以上言葉を継ぐことなく俯き、力なく項垂れる。
ラーズは真っ青な顔をして立っているシェリアの側へと寄り添うと肩を抱き、父親を責めるように見つめた。
「……父上、シェリアは道具ではありません。わたしたちの大事な家族です。しかし、ルドウェルは『知っているよ』と告げ――だから、とも続けた。
「だから、父親が娘をどこへ渡そうと、構わないのではないかな。全ては家のためだ」そこにカインが割って入り、ルドウェルにあからさまな怒りを見せる。
「先ほどから黙って聞いていれば……よくも抜け抜けと。ベルクラフトの件も、シェリアの婚約破棄も貴様が全て父へ吹き込んだだけだ!弁明もなく肯定したルドウェルに、カインは更なる怒りを覚えていた。
僅かな静寂の合間を縫い、シェリアは囁くような掠れ声で『どうして』と漏らす。
「どうして……父様もカインも、そんな大事なことを黙っていたの?」と問うが、ルドウェルは鼻で笑い、カインは答えない。
いや、答えることができなかった――というほうが的確だろう。
シェリアに知らなくて良いことだと言って、黙ってきたこと。むしろ、知って欲しくなかったからだ。
だが、ここへ来てルドウェルが全て話してしまった。
シェリアがどれほど心に傷を受け、自分たちへの信頼を失ってしまったのか――その可視できぬ痛みは考えるにも恐ろしいほど、深いはずなのだから。
婚約者――『だったはず』のシェリア。そして唇を噛むカインの表情を見ながら、ルドウェルは一人ほくそ笑む。
「……シェリアをこのまま引き渡して頂けるなら話は早いのですが、まだ今後も連れて行こうという気があるのでしたら、クライヴェルグに赴いてベルクラフトと話し合うが良いでしょう。貴方にそれが出来るのならばとルドウェルは言い、カインは憎々しげにルドウェルを見据えた。それは敵意と言い表しても良いほどに鋭く、強い。
「……わかった。クライヴェルグに向かおう」その決断に、反応を示したシェリア。はじかれたように顔を上げ、はっきり行くと言いきったカインを見つめる。
「オレは、シェリアを自らの意志で選んだ。だったら――オレはその問題に向き合う必要がある」すると、ルドウェルはなぜか神妙に頷いた。
「……つまり、シェリア自身もその信念に至る過程の一端でしかない。それならば良いのです。カインの鋭い口調に、失礼いたしましたとわざとらしく頭を垂れるルドウェル。だが、言葉とは裏腹に反省した様子は伺えない。
「……父様。クライヴェルグには……ベルクラフトの屋敷には、母様もいらっしゃるのですか」シェリアがそう尋ねると、ラーズはハッとしたような顔をして腕の中の妹を見つめる。
だが、表情一つ変えず、まるで興味が無い様子でルドウェルは『恐らくな』と告げただけ。
ラーズはそんな父親の様子を見て悲しいとは思わなかったし、心が徐々に冷えて硬くなっていくような感覚に陥る。
「陛下からはベルクラフトとシェリアの関係を、これ以上王家に波及させぬよう完了させろとの仰せ。ルドウェルは一礼し、険しい表情をしたままのカインと無力感に苛まれるシェリアを一瞥した後、その姿は光の柱に覆われ――消える。
転移魔法を使用してここまで来たのだから、帰りもその魔法で帰還するのは分かっていたのだが……フィーアは暫くルドウェルが立っていた場所を見据えていた。
「……フィーア王女、我々のことで……不快な思いをさせて本当に済まないと思っている」黙って立ったままのフィーアが怒っていると思ったのか、カインは彼女へ近づくと軽く頭を下げた。
「だが、もう少しだけわがままを許して貰えないだろうか。オレは、やらねばならないことがあり――」カインの言葉を遮り、フィーアは強い語調で告げる。
「わたくしの国で、あのような振る舞い。そして……なんて不甲斐ないのでしょう。わたくし、腹が立って仕方がありません」一息でそう言い切ると、フィーアはキッとカインやシェリアの方を向き直り、貴方達の事です、と指を突きつけ指摘する。
「……黙って聞いていれば。カイン様、貴方は皇子です。まくし立てるような剣幕に、カインは曖昧に頷くのがやっとだった。
しかし、フィーアはそれで終わらない。その矛先は、シェリアにも向けられる。
「シェリア様、貴女は一体どうされたいの? 貴女はカイン様を愛しておられるのでしょう。突然そう言い放ったフィーアにカインは抗議の声を上げかけたが、フィーアは片目を瞑って合図を送る。
それを見ていないシェリアは、雷に打たれたかのように全身を大きく震わせたが、言葉と涙を堪えるように掌を強く握り、口を固く結ぶだけ。
三人のやりとりを見ているラーズは、眉を顰め、行き着く先を見守るしかないようだ。
「カイン様も最初はわたくしとぎこちない新婚生活を送るでしょうが、まぁどうということはありません。嘲笑するような言葉に、シェリアは全身を震わせて耐えている。妹の肩が震えだしたのを見て、ラーズはもうこれ以上は、と声を発した瞬間。
シェリアはぽつりと呟き、ラーズが彼女の耳に声を傾けようとしたが……シェリアはラーズの手をふりほどき、絶対いや、と吐き捨てた。
「私だって、カインの側にいたい。リエルトの成長を見守りたい……!涙と共に思いの丈を告白するシェリア。フィーアは肩をすくめ、それでいいのですわと笑った。
「ほら、きちんと貴女にも自分のしたいことがあるではないですか。シェリアの側へ歩み寄ったフィーアは、相手の頬に流れる透明な涙を指で拭い、ぎこちない動作で謝罪する。
そしてシェリアもこちらこそ、また助けて頂きましたねと恥ずかしそうに笑ったが、フィーアはそれを艶っぽく見つめて、こう言ったのだ。
「本当を言いますとね、わたくし……カイン様の婚約者なのですが、男性に触れるのがたまらなく不快ですの。シェリアの涙が付着する指先をぺろりと舐め、とんでもないことを告白するフィーア。
「え……」それを聞いて、カインもシェリアも――思わずこの王女を凝視する。
ラーズはなんとなくだが、そうではないかと感づいているようだった。こめかみを押さえ、小さく息を吐いている。
「だから、シェリア様に居なくなられると、凄く困るんですの。汚らしい男しか居なくなってしまいますでしょう。どうしたらいいのかとカインの方を見つめるシェリアだが、カインもこの状況にどう対処するか思案しているようだ。
「安心しろ、シェリア。フィーア王女は完全にお前の味方だ。心強い」弾む口調でカインに笑顔を向けるフィーアだが、よく見ればその顔はシェリアに向けるほどに輝いていない。
「シェリア様、ベルクラフトに怯える必要はございません。けれど、油断召されてはなりません。シェリアは素直に頷き、フィーアも頑張りましょうね、と優しく言葉を掛けた。
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