リスピア城内部、医務室近くの部屋や廊下には――多数の兵たちが倒れるように座りこんで、その順番を待っていた。
看護師や城仕えの女性たちも、忙しく駆けまわって傷口の洗浄や軽い止血などに奔走している。
「――ヒューバート様!」ヒューバートの痛ましい姿を見た一同はざわめき始め、一刻も早い手当てをと、程度の軽い者が道を譲る。
その隣にいるレスターとアヤにも驚きの視線が投げかけられる。
レスターに関しては、皆傷の具合を心配していたということと――アヤのほうへの視線は、こんなところで、噂の黒い姫君を見かけるとは思ってもみなかったためだろう。
「お願いします。ヒューバート様の手当をどなたか! 出血が酷くて、このままじゃ危ないんです……!」アヤの声に反応したわけではないのだろうが、治療のため開けていた客間の一室から、ぱたぱたと駆け出してくるメイドがいた。
枯茶の髪に、同色の服の……アヤも見慣れた少女だった。
「……リネット!!」そう、朝まで一緒にいてくれたリネットだった。
呼ばれてぴたりと立ち止まったリネットは、目を丸くした。
「――アヤ様……! っ、ヒューバート様?! ああっ、酷いお怪我……!」三人の姿を視界に納め、ほっとしたような顔をしたのはわずか一瞬。
ヒューバートの傷を見て、顔面蒼白になったリネットは慌てて医務室に駆け込んでいき、マルティン先生、と泣きそうな声で緊急搬入の許可をもらっているようだ。
「そんなヒューバート様が大怪我って――おや、これは大変だ!! すぐに寝かせて! お湯と清潔な布と……魔法治療師に、即来るようにも言ってきて!」リネットに腕を引っ張られ、疲弊した顔で現れたマルティンですらヒューバートの出血と傷に驚いている。
すぐにヒューバートはベッドに寝かされ、傷口の洗浄と止血に入った。
レスターは椅子に座らされ、足の付け根部分に包帯をきつく巻かれると、傷の洗浄は自分でやると言った。
アヤも手伝うと言ったのだが、多分彼女は傷など見慣れていないだろうから、それもやんわりと断っておいた。
「……アヤ様、ドレスや髪が随分濡れております。お風邪を召される前に、せめてこれをお使いください」リネットから大判のタオルを渡され、アヤはそれを受け取ろうとして……やめた。
「私は後でいいです。まだ、怪我をされている方々も多いですから。周りは、怪我をした兵たちで溢れている。彼らは国を守ってくれた、大事な人たちなのだ。
寒いくらいはアヤも我慢できるし、何より……傷一つない。
優先順位を違えることなど、できようはずはない。
リネットは失礼いたしましたと深々と頭を下げた。
それをすぐに押し留め、リネットの肩に手を置いたままアヤは辛そうな顔で、ごめんなさいと謝罪する。
「……それに、リネット……ごめんなさい。アヤが視た光景は、もっと――凄惨だった。
もう一歩彼が踏み込み、カインに剣を突き刺されて崩れ落ちる光景だったのだ。
背中まで突き抜けていたから、止めなければ――今よりも危険な状態、あるいは……生きていなかったかもしれない。
血の気の引いたヒューバートを心配そうに振り返って見つめ、大きな瞳に涙を堪えているリネットは、辛そうに目を伏せて謝罪しているアヤへ身体を向けると、肩に置かれた手の上に自分の掌を重ねた。
言いながらポロポロ涙を流すリネットは、堪えきれずアヤに抱き着いてすすり泣いた。
その背中をさすり、アヤも彼女の華奢な体を抱きしめて一緒に涙を流す。
最悪の結末を止めることができた。レスターも生きていたことは嬉しい。
それなのに、誰かが傷つくというのはやはり……いいものではない。
こうして、誰かが涙を流すからだ。
「ごめんなさい……!」腕の中で、リネットが頭を振る。腕の中が熱いのは、リネットが泣いているせいだけではないだろう。
消えそうな声で、ヒューバートはリネットを呼んだ。
弾かれたように顔を上げたリネットは、すぐにアヤから離れてヒューバートの側へと駆け寄る。
「僕は大丈夫だから、そんな顔をしないで……。それを聞いたアヤも、そうだよね、としんみりした気持ちになる。
(待っているだけしかできない……リネットも、怖かったよね)自分には、まだ視るだけではあっても――力があった。
だから、ほんの少しの手助けができるぶん、まだ気持ちが紛れていたのだろう。
ヒューバートはリネットを優しく見つめているが、流石に身体が動かないらしい。
暫し黙っていたが、やがて優しい口調でリネットに話しかけた。
「……怖がらせちゃったね。それなら頑張って早く治すね、と笑ったヒューバートの傷口を、駆け寄ってきた魔法治療師が覗き込みはじめた。
優しく微笑むヒューバートとリネットを見ているうちに、アヤには視えてしまったらしい。
「あっ……」小さい声を上げて、ちょっと頬を赤らめると視線を外す。
リネットはどうしたのかと思った程度であったが、ヒューバートにはアヤの心の中が見えてしまう。
「……姫、こんな時に覗かないで」困ったようにヒューバートがアヤに微笑み、アヤも覗いたわけではないんですが、ごめんなさいと謝ると……唇の上に人差し指を乗せて微笑んだ。
こくりと頷いたヒューバートも、まだ言わないでねと照れたような顔をした。