【異世界の姫君/73話】

「わたしが腹部の怪我を負った日のこと。あれは……忘れることも出来ない日だ。
そして……騎士になろうと決めた日でもあるんだ」

自身の腹部にそっと手を置きながら、レスターはほんの少しだけ笑ったように見える。

「……その日も朝早くから、イネスはどこかに出かけてしまった。
毎日朝早くからどこに出かけていたのか、わたしは未だに知らないが……気分が晴れるようなことだったなら、羨ましいな。
ささやかな朝食を食べ終わり、いつものように……家にはどこの誰とも知らぬ人間たちがやってきて、母に暴言を放っていく。
『出ていけ』などは日常茶飯事だったが……人には聞かせたくないような酷い言葉もよく混ざっていた。
わたしの口からは言いたくない、女性を傷つける汚い言葉だ。
きっと、人々も不安だったのだろう。いつ終わるとも分からぬ戦争。
街の外では魔物や騎士たちが戦い、傷ついた騎士や傭兵が運ばれる姿も多かったようだし、下手をすれば街にも盗人が出たりした。
周囲に気を配らなければならない状態で、唯一のはけ口となっていた――弱い立場の母を使っていたのだろう。
わたしには全てが恐ろしく見えていたが、今なら分かる。彼らがどうしようもなく悪いわけでもない。
皆何かを信じることも出来ず、押しつぶされぬように肩を張らなくてはいけなかった。
だが、彼らだってそんな自分は嫌だったはずだ。でも、どうにも出来ない負の感情があっただけ。
皆弱くて、悲しかったんだ。
とにかく、いつもならその人達は言いたいことを言って帰るのに、今日は何か雰囲気が違った。
『でも、イネスは……!』
『――……本当に?』
時折母親の声が聞こえるが、断片的にしか聞こえない。
そしてようやく彼らが帰って行くと、再び家に静寂が訪れる。
変な話だが、騒がれた後の静寂は心地よさすら感じていて、わたしは安心しきっていた。
室内も……いつも暗かったから彼女の様子には気づくことはなかった」

そこで、アヤはその場面が自分が見た光景であることと、その先を今からレスターが明かそうとしていると理解する。

「母が、わたしを呼んだ。かすれた、覇気のない声で。
『……?』
呼ばれることも珍しいため、わたしは何かと思って振り返ると――……母が、憔悴しきった顔でわたしを見下ろしていた。
『何、母さん』
死んだような眼には、感情が何も籠っていなくて……わたしは少しばかり不審に思った。
……思っただけで、どうこうしようという意志はない。
すると、母は『イネスとレスターは双子なのに、どうしてこんなに違うの?』と問いかける。
『だって、ぼくはイネスじゃないもの』
わたしはその質問が意図するところもよく判っていなくて、でも思ったことを伝えた。
そうすると、母は『そうね、イネスはイネスで、レスターは……レスターね』と、薄く笑っていた。
……気持ちの悪い、歪んだ笑みだった。
まるで、動物が無理やり笑ったように……作ったものみたいに見えて、思わず押し黙ったわたしに、母……の形をした人間は、お願いがあるといった。
『なあに?』
普段、母からお願いなどと言われたことがなかったわたしは、実を言うと……すごく嬉しかった。わたしに何を頼むのかと」

「……」

促す事も出来ぬまま、アヤは息を潜める。

「母のようなものは、わたしの目の前に包丁を見せたんだ。
『レスター……死んでくれる? レスターさえいなくなれば、イネスは生きていられる』……そう言った」
「なんで……! どうして、そんな……っ」
「わたしも母が何を言っているのか分からなかった。
何をどうしたらイネスとわたしが生きるとか、死ななければいけないのか。
どういう意味だったのかは、憶測でしかわからない。
多分、イネスが何かやらかした。それで、きっと罰を与えるだとか、多分そんな話になって。イネスを庇うために、何もしないわたしを使おうとしたんだと思う」

その時の光景が、レスターの脳裏に蘇る。暗い室内も、湿気っぽい空気も、母の声も。

『どうして僕が死ぬの?』
『あたしとイネスが安心して暮らせるから。レスターだって、お母さんを守りたいって言ってくれたわよね』

近づいてくる母親は、幼い我が子の肩を掴んで包丁を深々と腹部へ突き立てた。


「……刺された瞬間、目の前が真っ赤になったと思うと、焼けつくような痛みがやってきた。痛くてどうしようもなかった。
部屋は暗いのに、赤い血だけが鮮やかに部屋を彩っていて……魔族の眼と同じ色だと母は笑った。
そうだ、変な笑い方をしながら、死になさいと何度も言っていた。
荒い息をつきながら、切り裂かれた腹部に触れると……血はべたべたしていて、気持ち悪くて……そしてあたたかい。
痛いと訴えても、笑われるだけで手を貸してはくれない。
『――……ぼくが、悪い事、したの……?』
そう言うと、ぴたりと笑い声は止んだ。わたしを凝視し、突然悲鳴をあげながら、母はわたしを乱暴に掴んで窓に叩きつけ、外に放り投げた」
「なっ……、なんてことを……!」

驚きと悲しみを覚えながら、あわあわとアヤはレスターの身体を上から下から眺め、口をぱくぱくさせる。

「平気だ。結果的に今生きているから」
「それは、そうかもしれませんけれど……!」

まあ本当に、死ぬほど痛かった事は事実だ、とレスターは言って……苦しげに眉を寄せた。

「もう痛くて堪らなかったから……割れた窓ガラスが体に突き刺さろうともよく分かるはずもなかったが、外は眩しかった。
空が雲ひとつ無い真っ青なもので、綺麗だったと……記憶している。
土の上に転がされたまま、徐々に冷えていく体を抱え……わたしは死ななければいけないのだと悟ったんだ。
わたしは誰にも必要とされていなくて、挙句に人間としても見てもらえない。
だから、生きていても仕方がないのだと――ゆっくり眼を閉じた時のことだった。」

心配そうな顔をしたアヤに、そこからが大変だったんだとレスターは肩をすくめた。


「女性の声がしたんだ。
『おい、子供。目を閉じるな。泣くなり怒るなりしろ』
こつ、と背中を軽く蹴飛ばされて、わたしは……死ぬ機会を奪われた。
うっすら眼を開けると、そこには女性が立っていた。
白いフードを頭からすっぽり被っていたにしても、そこから金髪がはみ出していたから……母ではないのは分かった。
その女性は、わたしの前に屈んで『死にたいのか』と聞いてくる。
男みたいな喋り方だが、威厳に満ち溢れた声だった。
『ぼくは魔族の子供だから、母さんとイネスが生きるには、死ななくちゃいけない……』
『ほう? それは難儀だな』
本当に他人事のように話を合わせる女性は『だが』と話を切って、わたしに訊いた。
『ではおまえは死にたいのだな? 死にたいなら放っておく。生きたいなら泣け』
――変な質問だった。
だが、わたしはその言葉を聞いた時、涙がこぼれて止まらなかった。
『生きたい。ぼくは、死にたくない。騎士になるんだ……!』
騎士になってどうするかという夢は消えてしまったが、そう言ったのは覚えている。
それが限界だった。気を失ってしまって。あの妙に偉そうな不思議な女性のおかげだ……」
「……うん?」

妙な既視感を感じ、アヤは思わず頭の上に疑問符を浮かべたまま首を傾げる。

「ん? なぜ眉を寄せてそんな顔を」
「いや……どうも、私もそういう感じの応答を……されたようなされなかったような……」
「まさか。もうわたしが子供の頃だ」

まだ納得し切れていないようなアヤをそのままに、レスターは気がつくと病院の中だったと先を勝手に話し出した。

「体自体が弱っていたので、起き上がることは難しかったが……。
自分を助けてくれた人は、もう消えていた。
包帯を替えに来た女性に聞いてみれば、恐ろしく高いはずの治療費も全てその人が払ってくれたらしい。
わたしには何も返すものがないのに、と言えば、その人からの手紙を預っているというので、読んでもらったんだ。
『レスター・ルガーテ。
この手紙が開かれたということは、おまえは生きているのだろう。重畳だ。
道を歩いていたら子供が放り出されたので事情を聞けば、おまえは魔族との混血だそうだな。
それゆえ様々な困難もあるのだろうが、おまえは確かに生きたいといった。
引き取って育ててやっても良かったが、騎士になりたいということを口走ったおまえの気持ちが本当であれば鍛錬を積むがいい。
さすればいずれ、再び会うこともあるだろう。
子供は変な気を使わず、そこで傷が言えるまで養生しろ。
治療費請求は、おまえが英雄になるまで待ってやる』
……そして、わたしは名も知らぬ恩人のため、自分のために鍛錬を積んで騎士になろうと思ったんだ」
「……ぜったい、それ……ルエリア様では……」
「いや、まさか。恩人が陛下のはずがないだろう。それであればわたしは王子になっていたかもしれないじゃないか」
「……似合うのでは」
「自分で言っておいておかしいが、滅多なことを言うな。そんなことになっていたら大変だ。
まぁ、とにかく……傷を癒して、家に帰った時にはすごくイネスが心配してくれたな。
母が喋らないとか何とか言っていた。
わたしは少々家と距離を置くようになり、騎士になるため学校へダメ元で行って……運が良かったらしく士官学校も通うことができた。
ただ、あれ以来血を見るとそのことを思い出すので気分が悪くなったりはしたが……ちゃんと生きているし、今に至るというわけだよ」

そこまで語り終えたレスターは、微笑みのようにも苦しそうにも見える顔をアヤに向けた。

「レスター様、そんな辛い事を……話してくださってありがとうございました」

アヤは、若干潤んだ目を掌で拭いながら鼻をすする。

「……すまない。笑い話にするには重すぎた」
「いえ、これは泣かずにいられませんから……っていうかそれ笑う人そんなにいませんでしょ」
「わたしの代わりに……泣いてくれる人がいるんだな」

そんな彼女をそっと抱き寄せ、レスターは背をさすった。

「……聞いてくれてありがとう。勝手に喋ってはいたけれど、すごく楽になった気がする」
「もっと、辛い時には辛いって言っていいんです。それに、もうそんな辛いこと……起こりませんから」

アヤもレスターの背に手を回し、もう大丈夫ですと呟く。

もう、レスターは充分苦しんだのだから。


「過去は……本当にお辛かったのだと思いますが、レスター様はこうして生きています。
生きていたから、恩人さんとの約束通り騎士になって……私はレスター様にお会いすることが出来ました。
心の傷は、治りが遅いかもしれません。でも、ゆっくり、嫌なことを和らげて……私も力になれることがあれば喜んでお手伝いしますから……!」

アヤはこんなに辛い思いをしたことはない。だから、かけてあげる言葉もうまく見つからない。

レスターはアヤを見つめることが出来る程度に身体を離し、顔に張り付いた髪を払ってやりつつ、アヤに優しく訊いた。


「こうして親身にわたしを癒してくれるから……嬉しい」
「っ!? ……え、あっ、うう……」

顔をみるまに赤くしたアヤは意味を成さない単語しか出さなくなった。

それを見届けてくすりと笑ってから、レスターは立ち上がる。そろそろ居間に戻って、アヤも落ち着いたと伝えなければ。


「あのっ……!」

ドアに手をかけようとしていたレスターが、アヤの切羽詰まったような声に振り返る。

アヤはベッドの上で、タオルケットを握りしめたまま……俯きそうになる顔を途中で留め、若干上目遣いでレスターを見つめた。

「私、レスター様にだけなら……いつでも、いろいろ、構いませんからっ……!」

レスターはそのまま動きを止めて、たっぷり数秒アヤを見つめた後……

額に手を添え、気を抑えて深呼吸を幾度か繰り返している。

軽い目眩も感じたが、これは体調の不良からではないのも理解しつつ、レスターはアヤを恨みがましく見た。

「――いろいろ、は、良くも悪くも聞こえるから、その誤解を招きかねる言い方は……やめていただきたい」

と言った後、半分ヤケになったレスターはドアノブを掴み、間髪入れずに扉を勢い良く引いた。


しかし、そこにはリネットとイネス、そしてあろうことかアニスの姿まである。


「あっ」
「ほらリネットさん、近づき過ぎなんですって注意しましたでしょうに」

何故かリネットとイネスの眼が潤んでいる。アニスはやや遠くからリネット達を眺めていた。この状況証拠だけで判断すると、黒に近いグレーである。


「また聞き耳を?」

レスターの顔に怒りがありありと現れ、イネスは誤解だと反論した。

だが、リネットともどもレスターに追いかけられることとなって、室内を走り回っている。


「……あの、アニス様。思い通りの夢をみる方法ってありますか?」

そんな彼らを気にしながら、こそっとアヤは控えていたアニスに尋ねる。

「え? はい、ありますよ。レスター様の性的欲求を解消するような夢でいいのです?」

お安い御用ですよとアニスはイキイキした表情で勝手に了承するが、アヤは慌てて違うと止めた。

(さ、流石にリネットのお母さん代理……。恋愛話とか大好きみたいだけど、余計過剰になってる……)

ヒヤヒヤしながらも、アヤは概要を話し始めた。

「……小さいレスター様を、せめて夢で見てみたいなって。あと、がんばったねって撫でてあげたいです……」
「……はい、お任せ下さい。いい夢を見られるよう頑張りますね」

そうしてアニスは短い呪文を唱えると、アヤの額に指を押し付ける。ぱちん、と何かが弾ける感覚があった。

「これで今夜は、ご希望の夢が見られるはずですよ」
「ありがとうございます」

丁寧に礼を言うと、今日の夜が楽しみだと笑ったアヤ。
それを微笑ましく見つめていたアニスは、後でレスターとイネスにもかけてみよう――と、余計な御節介を働かせるのであった。


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