アンジェラに見惚れながらも、部屋の左側に配置される騎士たち。
魔術師たちは杖を握りしめ、イネスに指示された事をいつでも行えるよう、タイミングを待っていた。
そのイネスはといえば、部屋を半分に分けた右側で、着けていた布製の白い手袋をするりと外す。
机の上にそれを置き、右手首へ金色のバングルを装備すると指を握り、魔力を集中させた。
金環には青い宝石がはまっていて、魔力を吸収しているのか共鳴しているのか、淡く光り輝いている。
輝く宝石を眺めながら、イネスは精神を平常に保つ為に目を閉じた。
(……本当はね、あんまり使いたくないんだよな)この技術を身に着けたきっかけ……最初は本当に、ただの悪戯からだった。
自分たちは魔族の混血……しかし、その血を自分たちに遺した父親のことなど知らない。
知りたいとも思わなかったし、生きていればきっと、積年の苦労と恨みから迷わず殺すだろう。
その思いは子供の頃から変わらない。
イネスとレスターの母親は、非常に若くして彼らを産んだからか――そこそこ綺麗な女性だった、と思う。
しかし、闘争の歴史により人々に根付いた憎悪というものは消えないものなのだろう。
よりによって魔族との混血児がいた事もあって、家に押しかけてまで母に何か強要しようとしたり、自分や弟に心無い言葉を投げかけたり暴力を振るおうとする奴等が多かった。
それがとても嫌で、イネスはレスターに見つからぬよう、やってくる訪問者を驚かせて追い払うことを思い立ち、草を揺らしたり転ばせるだけの罠を飽きることなく張っていた。
家にやってきた奴が一目散に逃げていく姿を見るのは爽快だったし、たまたま見つかって追いかけられても、次の罠に誘い込む手はずも覚えた。
その内に効率よく追い返す方法などを編み出したりと、才能を開花させていくのだが――イネスが望んだのはそんな罠の上達ではない。平穏な生活だっただけだ。
『どうして母さんは人間なのに、こんな酷い目に遭わされるんだよ? 母さんだって被害者なんだろ!』確かに愛情もあるのだろうが、イネスはその言葉の中に含まれた『嘘』を見た。
――母さんは、幸せなんかじゃない。この人は、幸せなんてわからないんだ。だって幸せを識る前に、こうなってしまったのだから……。
気づいてしまった時、心が軋んで苦しかった。戦いの澱が溜まった場所での被害者なのだ。
だがそれを指摘したら、母もレスターもどうなってしまうのか。
きっと、母は自分たちを産んだことを呪い、罵りながら手を上げるだろう。
今まで我慢してきたことが一気に溢れて、止められなくなったら誰かが死ぬかもしれない。
それをレスターには気づかせたくなかったから、イネスは心の痛みを抑えながら、家にも偽りの糸を張って、危うい綱渡りのような【家族】が壊れぬように演じ続けていた。
そのため苦しい顔を見せないよう、愚か者のように振舞った。
結果母は自分の気持ちに気づかず、大きくなったら騎士になりたいと無邪気に語るレスターには白い目を向け続けていたが、家族が壊れないのならとイネスはそれを無視し続けた。
世界の混乱、そしてリスピア国内での魔族襲撃事件もあったせいで、彼ら一家は長いこと苦しみ続ける。
だけれど、そんな環境でもイネスは『大丈夫』だと思っていたのだ。
母や弟にさほど被害が及ばないのであれば、と思って道化を演じていたのに、少しずつ自分も家族も壊れていたのに気づけなかった。
彼らの母親はいつしか笑わなくなって、他者はもとより家族の言葉にも反応しなくなる。
弟は自らの存在を厭うことによって、人の役に立とうとした。
そうして母が精神を病み、肺病で亡くなった後――レスターは騎士になるからという口実の元、家を出た。
そこに残されたのはイネスだけ。
温もりも生活の匂いもなくなった……いや、もともと――そんな優しいものなど最初からきっと、なかった。
あれだけ煩かった『人間』を主張する住人たちも、もう来ない。
どうせ止めるなら、もっと早く止めてくれればよかったのに。今それを思おうとも、刻は戻らない。
――どうして、守ろうとするものは消えるんだろうな。そう思ったら、何もかもがどうでもよく思えてきた。
暫くは『かわいそうな自分』を演じることによって女性を惑わせたりしていたが、やはり何も面白くはない。自分も相手も相手が必要だなんて『嘘』をついているのが分かるから。
(守る前に消えるなら、何もいらないじゃないか)だったら、もうみんな消えてしまえばいい。
自暴自棄になって、実際に戦場にも立ったことがある。
そこで効率と殺傷力を高める工夫をした結果がこれだ。
ルエリアにも皮肉られた技術。
そのとき、イネスはこう答えた。
『あなたと同じさ。号令ひとつで駒は動く。命じるのに良心は不要で、その後は何もかも同じ。目の前には敵と味方の屍が等しく転がるだけ。その言葉に、ルエリアは楽しそうに笑った。
その後、反論を許さぬような鋭い視線がイネスを射抜く。
『そうだ。我々は役割を演じ続けるただの殺戮者に過ぎん。だが、死ぬ前に覚えておけ。ルエリアの言葉は、衝撃的だった。
それ以来、イネスはどうすれば自分自身を救えるのか、強くあるとは何なのか考えていた。
何時まで経っても答えは出なかったが……つい最近、それが判った。
『姫をむざむざ危険な場所に晒すわけにはいかないだろう!』セルテステに行くといったアヤを、いつまでもレスターが反対していた時のことだ。
『怖がるな。お前にしかできないことを、陛下は託されたんだ』何気なく言ったその言葉。
そのときに見せた苦しげなレスターの表情は――まるで自分自身だった。
イネス自身も、ようやく分かった。
もしも自分が『怖い』と漏らしていたら、母やレスターは『大丈夫』だといってくれただろう。
家族はもっと、強くなったのかもしれなかった。だが、誰も怖いと言わなかった。
いや、イネスがそう言わせないようにしていたのだ。
(バカだよなぁ……まあ、失敗はつきもの。二度と繰り返さなければいい……)長いようで短い過去を思い出しているうちに、集中はうまくいったようだ。
右手のバングル全体に淡い光が灯っている。
それから、もうひとつ、今日わかったこと。
レスターはアヤを愛していると言っていた。
アヤも同じように愛しく感じているようだが――
「――なくなっては困るものは、欲しいって言うしか無いんだよなぁ……」後で教えてやろう……余計なお世話だと言われるだろうな、と想定したイネスはフッと笑って、背をぴんと伸ばしてまっすぐ立つと、窓の向こうを見据えた。
そのとき、パシッ、と、ガラスにヒビが入る音がする。
その音を聞きつけた騎士たちの気が張り詰め、アンジェラをかばうように立つ。
「そっち側、お願いね。なんだったらこっち側に敵さん放り込んでいいから。君等は来ないで――死ぬよ」口調に気を使う事は止めたようだ。
すうっ、と指を下にして右手を頭上に構え、腕の動きを追うように光の粒子が舞う。
「――来る」そう言った途端、窓ガラスとアンジェラが張った結界を破壊して、革鎧姿の男たちが乗り込んできた!
すぐに左手側の兵士たちは弓兵の援護を受けながら迎え撃つ。
敵の数も多くはない。
しかし、家具などのある室内では、大きな剣も振るえまい。
「それじゃ、やりますかね……恨みはないけど、殺す覚悟で挑んできたって解釈だから……死ぬ覚悟をもってね?」右の部屋にも敵は勢い良く飛び込んできたが、霧に隠れて見えづらかった針金が先頭に居た二人の腕や首元に絡み付いて食い込み、深く傷つける。
血しぶきをあげてもんどり打った男たちを見たイネスは、左手で魔術師に合図した。
彼らは氷の魔法を唱え、相手の体温を一気に奪って昏倒させる。
「速く飛べ!」ひとつ指を鳴らすと、最初に配置したナイフの数本が揺らめいた。
イネスの声に反応したかのように、ナイフはまっすぐ窓枠に飛んで、窓枠に手をかけていた人物の手の甲へ突き刺さる。
だが、食器用ナイフなど大した威力ではない。
すぐに掴んで引き抜かれると床へ投げ捨て、相手はイネスを怒りの形相で睨んだ。
「当たって留まれ!」イネスが敵の足元に指を向けると、先程【固定】した、ミートナイフが敵のつま先を狙って射出される。
それを素早く避けた傭兵らしき男は、イネスめがけて走ってくる。
イネスは左手を開いて合図を送ると、それを待っていた二人の魔術師が同時に魔法を唱えた。
一人は氷の魔法を立ちこめていた霧に向かって唱え、氷晶の礫を一気に降らせる。
もう一人が雷の魔法を唱え、痺れさせると同時に相手の体力を奪う。
電撃が当たる瞬間、ぱっと部屋が明るくなった。
広げられていたイネスの手のひらは握られ、拳を勢い良く相手に向かって振るう。
すると、魔術師達の魔法を【固定】させていたロックが外れ、ライトボウという光の魔法が流星のように降りそそぎ、部屋を駆け巡る。
一つならまだしも、無数のライトボウは傭兵だけでなく家具や調度品すら容赦無く穿ち、敵の士気も部屋の耐久度も奪っていく。
しかし、イネスは一本のナイフをミラーがわりに見てからくるりと方向転換して、腕を高く上げた。
「奪え!」今度は窓の外……中庭の方角に拳を向けると、数本のライトボウが腕で示した方向……樹の枝目掛けて飛んで行った。
くぐもった声音が聞こえた後、樹の上から弓兵が血を滴らせつつ落下してきた。
まだ『罠』は余っているが、左側の様子はどうだとチラ見すると……
さすがに兵力の殆どを集中させていたため、彼らの足元には矢が幾本も突き刺さったまま絶命している傭兵だとか、体の一部を斬られて、絨毯を赤黒く染める敵魔術師の姿もある。
「こちらも、敵は片付いたようです」血脂をふるい落として騎士は剣を鞘へと納めるが、アンジェラに『陛下の離宮に何てことするの!』と叱られ、慌てふためいていた。
「ちょっと気配探知使えたら、外を伺ってくれる?」イネスに促されるまま、魔術師は気配探知で周囲を探るが……もう誰もいない、という言葉にイネスは大きく頷き、彼らにご苦労様と声をかけた。
「そんじゃ、終わりかな。全解除」呪文か号令か。
不思議な響きのある言葉を投げかけると、宙に浮いていた食器は固定の力を失い、ガラガラと音を立てて床に落ちていき、行き場のなかった魔法は消えていく。
そして、レスターとイネスを唯一見分ける方法であった長い髪の束は、ぱさりとその場に落ちた。
アンジェラが怪我はないかと来てくれたが、イネスは『もうイネスでいいよ』、と笑う。
「戦い方が違うから、レスターじゃない事はバレたしね。あー、日頃動いてないからこんな事すると疲れるよ」別にわざわざ教える必要もないでしょ、と言いつつ落ちた食器を拾っていくイネス。
「そっちこそ、姫が剣を抜かなくてよかったね」一応まだアヤの代わりなのだから、と続けようとしたが、アンジェラはつまんなかったわ、と立ち上がった。
そしてドレスの裾を掴むと、太ももくらいまでたくし上げ――そこに隠してあった愛用の剣を見せる。
「いつこれを使うか、楽しみにしてたのに」その大胆な行動に、イネスだけではなく騎士や魔術師たちも釘付けになる。
「ちょっ……! まだ一応姫の姿なんだから! なんてことすんの!! しまってそんなもの!」レスターに殺されるから、と彼女のドレスの裾をふんだくるとバッバッと急いで下ろす。
ちなみに、体格も大きく違わなければ、変身すると……変身対象と同じプロポーションにもなる。
「姫様の太ももはどう? イネス」デートに行くときだとか、ちゃっかりミニスカート姿をイネスも見ているのだからレスターはもう少し見ているはずだ。
しかし、騎士たちにとってはアンジェラは未だアヤであり、姫君という高嶺の花の特徴上……太ももの刺激でさえも強かったようだ。
部屋の片付けを行う間、男の絡みつく視線を幾度も受けたアンジェラは、己の悪戯心からそれを引き起こしたことに後悔しつつ、皆が撤収する間イネスの側を離れられなくなったという。
後でそれを知ったレスターが、どす黒いオーラを立ち上らせて二人の前に事情を求めに来たのは、言うまでもない話である。