レスター、アヤと服を替えて入れ替わり、月の離宮に残ったイネスとアンジェラ。
二人は今、囮として身代わりになったためレスターとアヤ、ということになっている。
「怖くはありませんか?」レスターが残した髪の束をどういう技を使ったのか――自身の髪に取り付けたイネス。
トレードマークと呼ぶべき白銀の鎧も着ているので、外見上はレスターと寸分違わない。
口調もやはり真似ているようだ。
「はい。イネスさんと一緒なら怖いですけど、レスター様なら大丈夫です」にこりと微笑むアヤ……の外見をした聖騎士アンジェラ。
こちらも、変化の魔法を使っているので、髪色以外は本当にそっくりである。
アンジェラに微笑まれつつ、イネスはやれやれと肩をすくめた。
「イネスだって、本当は誠実な面があるかもしれないですよ……多分」ぎくりとした顔をしたイネスは、頭を掻いてから、後で奴に注意しておきます、と背を向けた。
そして、ワゴンの中からフィッシュナイフやバターナイフ、ミートナイフ、あまつさえフォーク……そういったものが入っているバスケットを取り出すと、極力音を立てないように掴み取ってはなにか魔法をかけている。
「……レスター様?」イネスはバターナイフを空中に放り投げると、面白い事にナイフはそのまま静止している。
アンジェラは不思議そうにそれを見つめて、何か、というように指で示した。
「せっかく二人でいるのに、会話なんて必要ないと思うのですが……」気弱な声を出しつつ、イネスをジト目で見つめながら『魔法使えるの?』と同じように口パクする。
伝わるかどうか失念していたが、どうやらイネスには読心術の心得があるようだ。
頷きつつ、失礼いたしましたと形だけの謝罪をしている。
イネスは次々ナイフに魔法をかけて放り投げては、空中で制止させている。
自身が作業を続けている間、喋りつつ読心術を使うのは集中が途切れるような作業だったが……
それでも器用にこなし、ナイフを配置し終える頃には、アンジェラには概要が伝わっていた。
日常魔法の一時利用だった。
一時固定、という魔法があるのだが、それを使って制止させている。
これをどう使うのかまでは教えてくれなかったが、確かに侵入者が飛び込んでくれば、かなりの脅威に映るだろう。
『ふぅん……応用をうまく考えたわね』口では他愛ない話をしつつ、アンジェラと読心術での疎通も図っているイネス。
普段もこれだけ頑張っているところを見せれば、皆の評価も変わるのに、とアンジェラは思う。
イネスは決してバカではなく、そう見せているのだと知って、アンジェラはイネス・ルガーテという男のことをよく知らなかったのだと、本当にすまなそうな顔をした。
「姫、そんな切ない顔をしないで。あなたが悲しいと、わたしも苦しい……」アンジェラが座っている横にやってきて、屈むとそっと頬に手を当てた。
『ちょ……、イネス、何するのよっ、このバカ!』真面目なときに、そのヘラヘラ笑う顔を見ているとムカムカする。
以前レスターが嫌そうに話していた言葉を思い出し、まったく異論はないとアンジェラは身を持って理解する。
アンジェラの表情に怒気が浮かんできた。これ以上からかうと、ビンタが飛んできかねない事を察知するイネス。
スッと立ち上がると、姫は罪なお方だ、とワケの分からない言葉を残して、先程食器が入っていたバスケットを手に取ると壊し始めた。
「……あの、傷つけたのなら謝ります……」バスケットに八つ当たりをしているのではないのか。
なぜかハラハラしてしまうアンジェラをよそに、イネスはバスケットをバラしながら、細い針金を引っ張りだした。
それをまっすぐ伸ばしながら壁づたいに窓辺へ近づき、針金の端を壁に【固定】させ、窓に自分の影が映らぬよう匍匐前進して反対に移動する。
窓の端にたどり着くと、針金を目いっぱい延ばしてぴんと張る。
調度良さそうな高さに調節し、もう一方の端も【固定】させた。
戻ってくるともう一つバスケットを壊し、左側の窓にも同じように取り付ける。
その作業をしているうちに、扉が叩かれ、陛下より命じられたという騎士たちがやってきた。
アンジェラは髪色に気をつけながら扉を開き、すぐに影になっているところへ入る。
「あっ……姫様……! わ、我々は、陛下の……」アヤがアンジェラの事を全く知らないように、アンジェラもアヤの事は知らない。
騎士や従者たちが話している内容を聞いただけだった。
だから、いかにも【姫様】というような、慎ましやかで、か細く、男が好みそうな子なのだろう――というのを演じてみた。
すると、男どもは鼻の下を伸ばしながらお任せ下さい、必ずやお守りいたします、と息巻き始める。
(男って、なんでこう……美人にはすぐデレデレするんだ……)これでも精鋭であろう騎士たちのマヌケ顔を見たアンジェラは、情けなさに思わずため息をつきたくなる。
もし、姫が諜報活動に長けた女であれば少々抱きついてやっただけで、こいつらはホイホイ引っかかりそうである。
改めて本当にそういった姫様でないことにも安堵しつつ、あのレスターでさえ陥落したのだから、仕方がないのかもしれない――とも考えた。
(……レスター、か)恋愛感情という意味での【好き】だったわけではない、と思う。
ただ、一度だけ気になったことはある。
五年前に辺境で魔族との戦闘があり、新兵に上がってきたばかりだったレスターやアンジェラもその戦いには当然参加した。
魔族を次々に切り伏せていくレスターの眼は感情すらもなく、表情も苦しそうではない。
人間として割り切っているのだろう、そう思っていたが――……ロベルトが相変わらず魔族魔族と絡んでくると、レスターは感情の見えぬ眼を向けた。
『わたしは魔族ではないと思っている。だが、仲間と思っている人間にも決して同族だとは思われない。あの時の口調は、寂しそうでも苦しそうでも、恨んでいるわけでもなかった。
本当に、自分のことはどうでも良かったのかもしれない。
それ以来、少しだけレスターを気にしていたのだが……時折レスターは、あのような眼をしていた。
だけれど――先程見たレスターは、本当に変わったのだなと認めるしかなかった。
アヤという姫を少しだけしか見ている時間はなかったが、皆が口を揃えて美しいと言っていたのは知っている。
確かに、造形も整っているし可愛らしい。変身してみて分かったが、黒も偽物ではない。
しかし成程、身分の高いものや低いもの問わず頭を下げるので、平等といえば聞こえはいいのだが世間知らずではあるようだ。
レスターの前に立って、姫そっくりになった格好を見せてみたものの――外見に惹かれただけではなかったらしい。
アヤの耳にイヤーカフスをつけてやる仕草ひとつでも、優しげな表情が見えてしまった。
何故かちくりと胸が痛んだが、レスターがもう自分を蔑ろにしないのなら、誰かを大事に思えるのならそれでいいのではないかと――そう思うようにした。
そうして騎士たちにじっと見つめられつつ、ぼんやりしたままのアンジェラを困っていると見たのか、イネスがツカツカとやってきた。
「――姫に変な顔を見せるな」ムッとした顔で騎士とアンジェラの間に割り込んできて、アンジェラを抱き寄せる。
あっ、と騎士たちから非難じみた声が上がったが、イネスは引き下がらない。
「アヤは、わたしの大切な人だ。悪いが、誰にもやらない」それが本当にレスターが言っているように感じて、思わずはっとしたアンジェラ。
しかし、なぜだかぼろぼろと涙がこぼれ始めてしまったので、イネスも騎士たちも驚きを隠せない。
「えっ、ちょっと、アン……アヤ。なにか、わたしは……悪いことを言ってしまいましたか」騎士たちを追いやってからアンジェラを椅子に座らせ、二人は口をパクパクさせながら会話をする。
『アンジェラちゃん……もしかして、きみ、レスターのこと……?』ぼかっ、とイネスの肩を拳で軽く叩いてから、アンジェラは立ち上がる。
それを見送ってからイネスも遅れて立ち上がり、アンジェラと騎士に注意をした。
「こっちからこっちには入らないように……危ないので」と、先程【固定】を施した右半分を指して、左側で行動するようにジェスチャーで示した。
「あの、我々は何を……?」魔術師の一人がおずおずと口を開くと、イネスはライトボウは使えるかと尋ねる。
コクリと頷く魔術師に、満足そうな顔をした。
「では、唱えて」ヒソヒソと会話をする魔術師とイネス。
魔術師が小声で詠唱をした瞬間を狙い、イネスは【固定】をかけていく。
「姫、兵たちを労ってさし上げてください。士気を高めるのもお役目です」作業を続けながら、イネスは左手側の騎士たちを示す。
魔術師たちには悪いけど待機していてと指示。
アンジェラはイネスの言葉に頷き、ひとつふたつと彼らにも言葉をかけてやる。
一体イネスは何をしているのだろう? 食器はおろか、魔法にまでこんな小細工をしてどうするのだろう。
ちらりと彼を伺うと、今度は空中に魔法の霧を発生させている。
視界を覆うという意味では有効だろうが、部屋全域ではなく右側だけだ。
騎士たちもレスター様はどうしたのだろうか、と不思議そうな表情を浮かべている。
こういった不思議な行動の結果が明らかになるのは、それから数分後のことだった。