食事を終えたのが16時を過ぎた頃。
アヤは食事が終わった後、イネスの言いつけで来訪した医師に、何らかの薬(医師曰く、化膿止めらしい)を目に塗られ、再び包帯を巻かれた。
明日になって頭痛も目の痛みもなければ取っていいとのことだ。
医師はアヤに十分体を休めるようにと言いつけて、リネットに見送られて帰っていった。
マルーを気の済むまで食したヒューバートは満足そうであったが、それからしばらくの後、女王の側……本来の持ち場に戻っていった。
イネスはアヤの使用する食器類のチェックへ行ったようだし、リネットは奥の部屋で掃除を行なっている。
レスターは窓の側、入り口とアヤも見えるような位置に椅子を持ってきて座り、内と外の様子におかしな所がないかと目を光らせている。
すっかり静かになった夕暮れ時、アヤは居間で大きめのアームチェアに身を預けてくつろいでいた。
張られた布の肌触りは肌によく馴染み、不快な感触はない。
横に大きく張り出したアームレストも、上半身を傾けて座っても十分な大きさだったため、アヤは身体をアームレストへもたせかけている。
アヤも気を楽にしているようであったから、それを見ていたレスターも穏やかな気持ちになり、ふと自分が微笑んでいるのに気づいて表情を引き締め直す。
医者の言いつけもあり、アヤが部屋を出る気もないため、リネットも安心して自分の業務がこなせているようだ。
向こうの部屋から、彼女の鼻歌らしきものが時折聞こえる。
こうしてくつろいで初めて分かることだが、一日で慣れるはずもない生活に、体が休息を求めていたようだ。
椅子と身体がぴったりとくっついたかのように――離れることも容易ではなく、ましてや立ち上がったりすることすら望めない。
重くなった身体をそのままに、アヤは今日起こった出来事や、今まで知ったことをゆっくり整理していた。
まず、自分はこの世界に『選定されて喚ばれた』らしい過程からだ。
何故選ばれたか? それは、アヤが『召喚書』だった『エルティア戦記』の物語に強く強く惹かれたから。
この世界、『リスピアの物語』を見たいと誰よりも思っていたから。
月の女神エリスが言っていた『全知にして真実』という、この世界中にある『無意識の集合体』のとかいうものとアヤの想いが結びついた結果――こちらへ召喚された。
召喚は一方的に喚ぶものであるらしい。
異世界からの召喚は膨大な魔力と引き替えだったのだろう。
エリス曰く、空に溜まった膨大な魔力(聖域と呼ばれる場所もあるらしい)がそれを補ってくれたようだ。
そして、母にエリスと、千里眼である『真実の目』を持つ勇者ハークレイの娘、ルエリア女王は……レスターを救おうとするアヤに、好きなようにやらせてくれていた。
ヒューバートの助言でセルテステの洞窟、最奥にある聖域……地底湖で、アヤはハークレイやヒューバートと同じく、不思議な能力を身に着けた可能性がある。
まだそれが発現していないので、ただ一時的に失明している状態だ。
しかし、ただ強烈な光に目を痛めただけで、能力が備わっていないことだって考慮している。
だが、変えられる運命もあるのだという言葉を信じ、己の身が傷つく覚悟も、これくらいのことで揺るいだりはしなかった。
アヤは身体の位置を身じろぎして変え、再びぼんやりとこの世界のことを想う。
この世界は、書籍どおりのドキドキと心踊るような楽しいものではなく、国の敵は魔族だけではないことも知った。
鋼鉄を加工するという技術を誇る、アルガレス帝国にも狙われているらしい。標的はリスピアだけではないとのことだが、緊迫した国家情勢のようだ。
(……もし、潜伏しているゴヴァンとクレイグが、アルガレスに行ってしまったら……?)そうだ。
潜伏しているといっても、きっと打開策を練っているはずだ。
そうでもなければ、夜襲など起こるはずも――と考えたアヤは勢い良く身を起こし、後方のレスターも素早くそれを目で追って、腰を浮かせようと足に力を入れた。
(あ、でも、そうしたらクーデターじゃなくなるし、来たのは魔族だった。あの数日後にアルガレスが攻めてきた様子はなかったよね……)はたと気づいたアヤは、再びふにゃりと椅子に身を預け、レスターは中腰の体勢でアヤと周囲を伺ったが、小さくリネットの鼻歌が聞こえる以外何事もなかったと知ると力を抜いた。
そのとき、アヤはレスターの方を向いて、情勢について質問がありますと切り出した。
「アルガレス帝国は、中立以外多数の国を敵と認定しているようですけど……リスピア王国はどこと友好国で、どこが敵国扱いなのでしょう?」突然そんな事を言うものだから、アヤが見えていないにしろ、レスターは思わず訝しげに眉を寄せて口もへの字にすると『どうしてそんな事を尋ねる必要があるのですか』と質問する。
「え、ええと、その……知りたいからです」レスターからの返事がないので、アヤはどう取り繕うか必死に考えていると、
「……リスピアとの友好国に、クライヴェルグ公国とブレゼシュタット王国があります。アルガレスは……、ここ十年ほどですっかり変わりました」重い声で、そうレスターは答えた。
クライヴェルグなども、アルガレスとは敵対しているのかとも尋ねると、さすがに『そんな事を聞いてどうするつもりです』とレスターは思っていたことを口に出す。
「今日もそうです。姫は国の情報を集めて一体、何を探して歩き回っているのですか……?」レスターが不審に感じるのも無理はない。だが、アヤはごめんなさい、言えませんとしか話してくれない。
「でも、信じてください。リスピアの情報をどうこうして持ちだそうとか、売ろうとか転用しようとかそういった思惑ではないです。私が純粋に知りたいだけです」椅子の背もたれ越しに話しかけてくるアヤ。
陽の光が照らしても黒い、その瞳と髪を持つ姫が至極真面目な顔で教えてくれと問うている。
しかし、レスターは申し訳ないと言って、視線をそらす。
「わたしや国家に仕える騎士たちには守秘義務というものもあります。アヤははっとした顔をし、指摘されてようやくレティシスの事を思い出した。
エルティア戦記では主人公のレティシス。
そんな読者に最も親しみを持たれたであろう男が、ここリスピアの牢獄に囚われている、ということを失念していた――……!