水が滴り落ちる、頭のホワイトブリムを外したリネットが見たものは……
「リネット殿……今しがた、何やらすごい音が聞こえたのですが」先ほどの水音に反応したレスターが、真面目くさった顔をして戸口からこちらを伺っていた。
驚きに身をすくませ、数秒後、はっとしたリネットが動き出す。頭を左右にブンブン振り、水滴を飛ばしながら否定した。
「だ、大丈夫です。お風呂場で湯をかぶっただけですので!」要らないところで耳が良い男だ。しかし、実際落ちただけだし、アヤも怪我をしていないので大丈夫だと答えた途端……。
『きゃあっ!』浴室で、アヤの悲鳴と べしゃ、という音がした。
あれは転んだに違いない。
リネットが『ちょっとごめんなさい』と戻ろうとした時……
「姫?!」既に室内へ駆け込んできていたレスターは、リネットを追い抜こうとしているところであった。
「わーー! レスター様! 部屋に入って来ないでください! そこから先は絶対ダメですよっ!」驚いたリネットが止めるのも聞かず、アヤの方へ行こうとしている。
必死にリネットがマントを引っ張って、これ以上の大惨事を回避すべく抵抗していた。
「リネット殿、ちょっと何を……切れてしまうので強く引っ張らないでください」様子を見るだけですと言っているが、本当にこの男は状況が分かっていないのだろうか。
「ヒューバート様ぁー! いらっしゃってたら助けて下さい!!」大型犬の散歩のように、ずるずる引っ張られるリネットは半泣きでヒューバートを呼ぶ。
「やあリネット、ただいま……」丁度室内に入ってきて、リネットの声ににこやかな顔で応じたヒューバートも、この状況に動きと言葉を止めた。
次の瞬間、リネットの前を黒い影が疾走する。
浴室の扉に手をかけて、アヤのいる方に向こうとしたレスター。
そこは確かにアヤがいて――なんだか両手をついているところまでは分かったのだが、ヒューバートのマントがレスターの視界を覆った瞬間、脇腹に激しい打撃が襲ってきて、居間の方へ投げ飛ばされた。
「ま、っ、たく……。ずぶ濡れなリネットの姿を見て、姫は御入浴中だと分からないの? 次やったら、本当に病院で一ヶ月ほど寝てもらうよ」さっきよりも入院期間は増えているし、ヒューバートの眼は笑っていなかった。
彼自身、相手の心が見えるという能力だけは極力普段使わないようにしているのだが、今回は本当にレスターは分かっていなかったらしく、言われた銀の騎士は顔を青くしたり赤くしたりしている。
幸か不幸か、見たのはほんの一瞬だったため、アヤが服を着ていたかどうか判断するまでには至らなかったようだ。申し訳ありませんと謝罪しているが、そういう鈍さは要らないんだよとダメ押し的にヒューバートの剣の鞘で頭を叩かれた。
慌ててリネットがバスタオルを持って浴室に飛び込むと、アヤは自らの身体を抱きしめるようにしたままへたり込んでおり、人の気配を感じて身を縮こませた。
「……誰、ですか?」アヤは身を固くしつつ緊張の面持ちで、入ってきたリネットに問う。
「ごめんなさい、アヤ様! わたしです……。リネットだと分かると、アヤはほっとして脱力する。
「ああ、よかった……! ヒューバート様やレスター様の声も聞こえたから、どうしようかと……!」アヤの知らぬところで、今日のヒューバートは大活躍である。
『あーあ、アヤ様……びしょびしょですね』浴室からそんな妖しくも楽しげな会話が聞こえてきたため、レスターはこほんと咳払いをし『聞こえてますよ』と忠告するのだが、浴室の奥からはきゃっきゃと楽しそうな声が聞こえてくる。
「僕らはお邪魔のようだし、ちょっと外に出ていようか……」ヒューバートは感覚強化の魔法を使用し、外に出ると眼を閉じた。
こうして聴力や気配感知などを高め、不測の事態に備えているのだ。
――そうして、十五分ほど経った頃。ようやく部屋の扉が開けられる。
包帯を外したアヤは赤いドレスに着替えており、入り口を向いたまま椅子に腰掛けていて、複数の足音が聞こえると席を立った。
「――……戻りました」レスターがアヤの側へ歩み寄り、片膝をついて座ると頭を垂れる。
声の聞こえたほうへ、ゆっくりと顔を向けたアヤ。
「……お帰りなさい、でいいのでしょうか? あの……まだ、怒ってますか?」一体、今レスターはどんな顔をしているのだろう? そう思うと……嫌われていないかと不安になった。
離宮に着く前、レスターが言った事をまだ気にしているようだ。
レスターは申し訳なさに目を閉じ、怒っていませんと口にする。
「こちらの方こそ、姫の気持ちを蔑ろにして酷いことをしてしまいました。許しを請うなどは致しません。言いよどむレスターの後方では、リネットが手に汗握って『頑張れ!』と心のなかで応援している。
アヤのほうにも何かを言わんとする緊張した雰囲気が伝わっているようで、見えない眼を彼に向けたまま微動だにせず、耳をすませている。
「姫、わたしは……護衛というだけでなく、人間として――」いざ! というところで、イネスが上機嫌な顔をして入ってきた。
カラカラとワゴンの車輪が音を立て、上段には剥き終えたマルーと、葡萄やリンゴが添えられている銀の皿がある。
「…………」文句を言いたげなリネットの視線に首を傾げ、イネスはアヤの前に大皿を置いた。
そしてイネスが足元に視線を向ければ、そこにはレスターがいるではないか。
「何してんの、お前」不思議そうな顔で尋ねるイネスへ、今すぐにでも噛み付きそうな顔のまま一瞥するレスター。
「あ……マルー、剥いて下さってありがとうございます」そうして、自分のせいですっかり雰囲気が変わってしまったことも気づかないまま、ワゴンの下段からもう一つ銀の皿を出して――テーブルに置く。
「パンベアルです」イネスがどうぞというのだが、パンベアルとは何なのだろう……? その疑問を読み取ったヒューバートが、造形と内容を説明し始めた。
「パンベアルをご存知ないようですね……パンを切り、内側にバターを塗るんです。そこへ卵や野菜など、好きな食べ物をパンで挟んだものをそう呼んでいます。今日の具は卵とハム、チーズですねと教えてくれた。
そうしてようやく、アヤもああ、と嬉しそうな声を出す。
「私達では『サンドイッチ』と呼ぶ食べ物のことですね!」覚えておこうとリネットは軽く頷いて、お茶の準備をしようとするのだが、イネスにやんわり止められた。
「お茶はわたくしめにお任せ下さい。リネットさんは、姫のお側についていてあげて」言われたリネットはありがとうございますと微笑んで、アヤとヒューバートの間に座る。
「いただきます……」リネットが手を差し伸べつつ、アヤがパンベアルを頬張るのを、微笑ましく見つめているレスター。
ヒューバートは山と積まれたマルーを次々に口へ運んでいった。
遅くなっていた昼食は、こうして穏やかな雰囲気の中、ゆっくりと過ぎていったのだった。