【異世界の姫君/31話】

白い回廊を歩きながら、アヤは今何時ですかとレスターに訊う。

しかし、時計を持たないレスターは申し訳なさそうに『時間が分からない』と答えた。

「あ、私時計持ってます。ええと……」

レスターから手を離すと、ぺたぺたと自分のジャケットを触り始めて、ポケットの在所を探っている。

やがて右手の人差指がポケットの時計に触れたため、ゴソゴソと手を入れて時計のチェーンを掴んで引っ張り出し、だいたいレスターがいるであろうほうへ差し出した。

「――午後二時十二分。体を休めるには、調度良い頃だと思います」

そう答えてアヤの掌を握ると、その上に時計をゆっくり置いて握らせた。

「そうですね。なんだかお腹も空きましたし……っと、その前に着替えたいです。洋服、借り物なのに汚してしまったかも……」

折角着替えさせてもらったのに、と残念そうに答えてアヤは一歩踏み出す。

慌ててレスターは腕を掴んで、手を貸しますと伝えた。

中庭から吹いてくる風は少々強く、木もその体をしならせ、ざあざあと大きく葉を揺らした。

「今日は天気が崩れるかもしれませんね。土砂降りになる前に帰ってきたと思えばいいのでは?」

レスターは木々や雲の流れるさまを見てそれを伝えたが、アヤにとっては『そういえば、なんとなく空気の中にしっとりとした感じがある……ような気はする』という感じだ。

目が見えない分、そういうところで変化などを感じようとしているのだが、数時間で発達するものではないため『気がする』だけで終わってしまう。

だが、風の音はまるで獣の唸り声のようで、確かに強くなっているのは分かった。

「ヒューバート様、お出かけになると仰ってましたけど……ずぶ濡れになったら大変」

びしょ濡れになって体を冷やしては風邪もひくし、何よりリネットも心配する。

「大丈夫、だと思います。ヒューバート様はその程度で弱ったりしないでしょうし、きっと備えもされている」

多少の気象予測くらいはできるだろうし、とレスターも付け加えてからアヤの表情を見た。

あまりレスターの答えに満足していないようで、可愛らしい口元は僅かに尖っている。

「……あのお方が心配ですか?」
「はい……伺いたい事、いっぱいありますし……早くお会いしたいっていうのは強くあります」

それを聞いたレスターは、僅かに表情をひきつらせる。

――早く会いたい。

アヤとヒューバートは、(レスターとイネスが叱られている時の)一度しか会っていない、はずだ。

……何せ初日にヒューバートが来た時、アヤは疲れて眠っていた。自分が居ない時に、アヤとヒューバートに何があったのだろう?

いや、そもそも、彼にはリネット殿がいるではないか――……レスターの思考は止まらず、急に会話がなくなったので、アヤは首を傾げてレスターを呼んだ。

が、レスターは生返事だ。

確かにヒューバートは容姿端麗かつ文武両道。騎士としての人気だけではなく、異性からの評価も高い。

一緒に並んで比較されてしまえば、確かに勝負にならないのも分かっているのだが――そうしてハッとしたレスターは、思わず口に手を当てた。

(まさか、アヤの好きな相手とは……ヒューバート様、なのか……?)

そういえば、アヤは自分のことも知っていたという。

では、アヤはヒューバートの事も知っていたのではないか?

「……姫。一つお伺いしたいのですが」
「はい?」

ホッとしたような表情を浮かべてアヤは聞き返す。

逆に、レスターの表情は暗かったのだが。

「姫は、以前よりヒューバート様の事を存じ上げて……?」
「以前?」
「ここに来る前のことです。ほら、わたしの事も知っていると言っていたから」

少し考えるような仕草をした後、エルティア戦記でのことを言っているのだな、とアヤは思い至ったので素直に『はい』と答えた。

「ヒューバート様の事も確かに知っていましたが、話したのはこの間が初めてです。ちょっと意地悪なところがありましたけど、親しみやすそうな方ですね」

ふふ、とアヤが楽しそうに笑う声は、レスターの心に冷たい影を落とす。

「やはり、そうなのか……」
「ヒューバート様は、リネットと一緒にいる時はとても楽しそうでした。私、ヒューバート様に特別な人がいたのも知らなかった……二人とも仲が良くて羨ましい」

でもリネットと仲が良くて嬉しいな、と恥ずかしそうに答えたアヤに、レスターは、ぐっと拳を握る。

「私も、仲良くしたい人がいますし……」
「……数日で、仲良くなれるとは思わないが」

レスターの不機嫌そうな声は、アヤの耳に恐ろしい響きをもたらした。

呆然としているアヤに、レスターは苦しそうな顔のまま告げる。

「誰の事を仰ってるかは分かりかねますが、人の心がいくら移ろいやすくとも、仲良くなんて……そんなに簡単じゃないでしょう……」

レスターがはっと気づいた時には、包帯を巻いていても分かるくらい、アヤはとても悲しそうな様子だった。

「……そう、思われますか? 仲良くしたいって思っちゃ、だめですか?」
「思うのと事実は……とにかく、部屋に戻りましょう」

そうして、話を切り上げて目の見えないアヤの手を取ろうとした指先に軽い衝撃――バシッという音が、廊下に響く。

彼女の指に触れた途端、それを拒んだアヤはレスターが差し伸べた手を勢い良く払いのけたのだ。

苦しさに耐えるように唇を噛んでから、アヤは支えがなくとも結構です、と口にする。

「一人で、歩けます……壁伝いに行けばいいですから……レスター様はお先に休んでいてください」

目も見えないのに、いつもと変わらない速度でアヤはレスターの側を抜けていく。

手探りもせず進んでいったため、当然柱に勢い良くぶつかってよろけた。

「姫……!」

駆け寄って支えようとすると、アヤはそれを拒否するように身体を踏ん張り、首を横に振る。

「平気です!」

アヤから拒絶されているようにも聞こえて、レスターも思わず声を荒げた。

「平気じゃないでしょう! また怪我でもされたらどうするのです!」
「レスター様が痛いわけではないなら、構わないじゃないですか!」

柱に手をついて立ち上がったアヤは、通して下さいとレスターの横を抜けようとする。

「――通さない」

だが、カッとなったレスターは両手を柱について、アヤをその中に閉じ込めた。

アヤも怒っている……というか、先程の言葉に傷ついて、ちょっとヤケを起こしていたりする。

通そうとしないレスターの腕をぐっと両手で押したりするのだが、力は当然レスターのほうが強いのでビクともしない。

「もう……! 意地悪しないでください!」
「どっちが……」

アヤが、ヒューバートの事を楽しげに話すのが気に入らなかった。

レスター自身でさえ、なぜそれくらいの事を苛立たしいと思うのかわからない。

「アヤ」
「なっ、何ですか……!」

その唇が、ヒューバートの事を話したがるのなら――

右手で彼女の顎を掬うように掴んで上を向かせると、アヤが再び何かを言う前に。

――喋らせない。

レスターはアヤの唇に、己の唇を重ねる。

びくりと震えたアヤの身体を空いている手で抱き寄せて、顎を掴んだ手は頬に移動させて……もう一度深く口付けた。

「ん……っ」

アヤの唇は柔らかくて、レスターの意識も蕩けてしまいそうだった。

抵抗が無いのに気づいてから、レスターはゆっくりと唇を離す。

「アヤは……ひどく意地悪だ」
「……意地悪なんかしていません……」
「していないと思うならそれでいい。それなら、わたしはキスしたことを謝ったりもしない」
「…………」

アヤは自身の唇に指で触れ、その感触と行為がウソでないことを再確認したのだろう。

顔はじわじわと赤く染まっていき、何も言えないまま俯いてしまう。

一方、勢いのままキスをしてしまったレスターは、そんなじっと彼女を見つめているうちに……冷や汗が流れ落ちるのを感じた。

――取り返しのつかないことを、してしまった……

徐々に怒りが収まり、さぁっと血の気が引いていく。

ルエリアに誓いを立てたばかりだったというのに、だ。

自分は皆が言うようにバカなのか。

今までこんなことは一度も無かった。なのに、アヤが関わると心が乱される。止めようと思っても……止められない。

アヤの想い人ヒューバート――これは勝手なレスターの思い込みだったりするわけだが――に嫉妬し、強引にキスをしてしまった。

今更どうしようと考えあぐねたところで、行なってしまったことはどうにもならない。

しかも謝らないとまで言い切ってしまっている。

「か、身体が冷えるから、早く部屋に戻っ――」

もうアヤには嫌われてしまっただろうと思いつつ、非常に大人しくなってしまった姫君の腕を取ってくるりと方向転換をした――

その先で、乾いた衣服を抱えたリネットが、顔を赤らめたままじっと二人を見つめていた……。

「うわああぁ!? リネット殿!」
「えっ、リネット……!?」

レスターの尋常ではない驚き方に、アヤも跳ね上がらんばかりに驚いている。

「いえっ、あの、お二人の言い争う声が聞こえたので、急いで駆けつけたのですけどっ……! 止めようとしたら……そんな……」

キャー、とか言いながら照れまくるリネットだが、それはアヤとレスターが行いたいところだった。

――見られた。だいたい一部始終見られた。

しかもキスしてたところまで。

アヤはまた恥ずかしくて逃げたい気分になっており、レスターはイネスの耳に入らないことを願うばかりだ。

「リネット殿、これは――」
「勿論誰にもいいません! すごく言いたいけど……」
「特にヒューバート様にはご内密に! いや、あなたにそんなことを言うのは気が引けますが!」
「あっ、保身に走りましたね! んー、まあ、いいでしょう。でもなぜか、ヒューバート様っていろいろな事すぐ分かっちゃうんですよねえ。気をつけてくださいね」

口止めされたけど言いたい。

その心の声がニタニタ笑いとなって、リネットの表面に浮き出てきた。

悪い癖だ。

「……ところでレスター様」

こほん、と咳払いしたリネットは、チラチラとアヤの顔を見ている。

当然、アヤは気づかない。

「ファーストキスで、目隠しプレイとかマニアックなものは、いかがなものかと思うんですけど……」
「ッ……それは誤解だ!! ア、アヤは一時的に視力を失ってしまったから! ああして余分な刺激を抑えているのです!」

顔を真っ赤にしてレスターは否定する。

「へー。よぶんなしげき。はあ。そうですか、失明ですか」

とにこやかに答えて、ニタニタ笑いもそのままに固まり……さあっと青ざめた。

「……いやああぁぁあー! アヤ様ぁぁっ! 失明されたってどういうことなんですかあああー!?」

どさどさと乾かしたばかりの衣服を床に落とし、宮殿にまで聞こえそうなほど大きな悲鳴を上げた。


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