レスターは肩を小刻みに震わせていたが、怒っているわけではなく――声を抑えて、笑っていた。
「……まったく、あなたは変わったお人だ。眼を潰すと聞いて思わずギョッとするアヤだが、レスターにとって『魔族』の血を引いているということが、人間と一緒に生活する中でコンプレックスに思う時期もあったのだろう。
そんな環境と日々の中で、騎士としての鑑となれるように努め、信頼される人物になろうと、真面目に生きようとしてきたようだ。
(レスター様はこんなに、楽しそうに笑う人だったんだ……)気を張っているのと違う彼の笑顔は、存外に子どもっぽいものだった。
レスターが屈託無く笑った顔は、普段とのギャップがありすぎて、不意打ち気味に見せられたアヤの鼓動を乱れさせる。
夜だというのに、彼を真っ直ぐ見ているのはなんだか眩しい。激しくなった心音を聞かれまいとするように胸を押さえ、アヤは揺れる声で、そんなに笑わなくてもいいでしょうと視線を逸らす。
ひとしきり笑った後で、レスターは息を吐いた。
そうして普段の落ち着きを取り戻した彼は、アヤに小さく頭を下げた。
「――ああ、みっともないところをお見せしてしまいまして、大変失礼を致しました……。ですが、ありがとうございます、姫。あなたのお陰で、このレスターは救われた心境です」救うという言葉も、今のアヤにはNGワードだったりするのだが……
ぎくりとする姫君の表情に気づかず、レスターは朗らかな笑みを見せている。
「……そんなこと……私はレスター様を救うだなんて……」救ってあげられる力を持っているのなら、そうしたい――と口から出そうになって、ぐっと押しとどめる。
そうしたのはルエリアとの約束もあるし、何より、有効手段が浮かばないのに軽々しく口には出せない言葉だからだ。
「そうそう……。正確には目が光るから、夜目が……というわけではありません。魔族は少しの光量でも、それを最大限に生かせるようになっているだけです」魔族という種族ひとくくりにしても、種類は多岐に及んでいる。実際に光るものも居ますが、ごく一部ですよと教えてくれた。
「目が光る魔物は、強いのですか?」聞かれたレスターは顎に手をやり、暫し考える素振りを見せた。
「わたしが戦った中では……弱くは無かった。それが群れでやって来れば、かなり手を焼きます」どうやら戦ったことがあるらしい。己の経験を交えて話してくれたレスターに、アヤは思わず心配そうな顔を向けた。
「魔族と戦うことに葛藤は無かったのですか?」レスターの真摯な瞳と言葉は、嘘を言っていないとアヤにも判る。
「しかし、姫は『何も知らない』と仰っても……時折ハッとする事をご指摘になられます。ですが姫の認識には、やはり少々の誤解がありますね。そうしてレスターはカンテラの明かりを消し、マントを頭から被って光の侵入を防ぐと、アヤを呼んだ。
マントをすっぽり被るレスターは、お世辞にもかっこ良くはない。
しかし、何か見せたいのだろう。手招きしている。
ちょっとためらって、アヤはマントをそっとたくし上げてるとそこに頭を入れた。
そこには、レスターの顔があるはずなのだが……暗くて見えない。
「この通り目も光りませんし、わたしでさえ何も見えません」ああ、ここです、と、言ったレスターはパサパサと外から位置を教えるためマントを軽く叩いた。本人達は気づかないが、明らかに二人とも間抜けな事をしている。
「どこ?」音はするが、気配はよくわからない。
「我々はマントを被っているので見えないだけで、多分すぐ近くです」そう言われたアヤはもう少しだけ、顔の位置を前に出してみる。
こつ、と鼻の頭が触れ合って、互いの息が唇をかすめた。
「…………」二人は、想定していたよりも近い距離にいた事にようやく気づく。
どちらともそのまま動きを止めるが、レスターもアヤも、身を引こうとはしなかった。
恥ずかしいと思う気持ちもあるが、それ以上にこの距離感が――嫌ではなかったのだ。
「――……姫」レスターが緊張しながらアヤをそっと呼ぶ。
「……はい」アヤも囁くように声を抑えて返事をすると、レスターの様子が先ほどとは違うことも伝わってくる。
レスターだけではなく、アヤ自身も何か……どきどきする心のざわめきを感じているのがわかった。
多分、レスターもアヤと同じものを感じているのだろう。
レスターの手が、マントを滑り落ちてアヤの手に触れ、躊躇いがちに握る。
そして、アヤも抵抗すること無くゆっくり握り返した。
息を飲み込み、レスターが僅かに身を屈める。
アヤの唇に己のそれが触れるという刹那、小さな足音を彼の耳は捉えてしまった。
弾かれたようにレスターは腕を跳ね上げてマントを大きく翻し、アヤも反射的に数歩下がって、互いの顔を瞳に焼き付けるように見つめ合う。
レスターが取り落としたカンテラが大きな音を立てて床に転がっていった。
拾わなくてはと思いつつも動けず、何か言おうと思っているのに頭はうまく回らず、相手を見つめる自分の顔が火照る熱さだけを感じていた。
「――あっ、レスター様ですか!? よかった、アヤ様のお帰りが遅いので、宮殿まで迎えに行こうとしていたんです」奥からやってくる足音はリネットのものだった。
迎えに行く途中、二人にちょうど会えたことを喜んでいるが、その二人が何故か驚いた顔をしているので、意味も分からず小首を傾げる。
「……? カンテラ、拾わないのですか?」油の切れたブリキ人形のような硬くぎこちない動きで、床に落ちたカンテラを拾い起こすレスター。
リネットはアヤに新しくなったバングルの事を話しており、アヤは頬に片手を当て、赤くなった顔を隠しながらも朗らかに微笑んでいた。
行きますよと声をかけて、レスターは二人の前を歩く。
(わたしはなんという事を……)あともう少しリネットが来る気配を感知するのが遅ければ、自分は大変なことをしてしまうところだった。
しかも、ちょうどリネットに目撃されていただろう。
未遂に終わってよかった。
と胸を撫で下ろす反面、アヤはどんな顔をして、受け入れようとしていたのだろうか――とも気になった。
しかもなぜ、マントを被ったままにしていたのだろう。もう少しやりようがなかったのだろうか。
そういうくだらないことにまで後悔の念が混じる。
レスターもあの瞬間、アヤにこんな事をしてはいけない、という冷静な判断が出来ない状況だったのだ。
というよりも、キスしたかっ――。
「違う! 違うッ……!」問題はそこではなく、どうして初めて出会ったアヤに対してそういう気分になってしまったのかと自問自答しているレスター。
しかしリネットとアヤは、突然レスターが苦悶し始めたことに驚きを隠せない。
「どっ、どうしたんですかレスター様!? 何と戦っているんです!?」別にレスターは腹が減りすぎておかしくなっているわけではなかったが、リネットに事情がわかるはずもない。唯一察してやれるはずのアヤは、先にこの伝言内容を思い出してしまったため、そこまで気が回らないようだった……。