【異世界の姫君/12話】

「あの……エリス様は『エルティア戦記』という物語をお書きになっていますか?」
「いいえ、わたくしは執筆など致しません。ましてや、異界に……なぜ?」

反対に不思議そうな顔で尋ねるエリス。詳しく説明できないアヤはそれだけで困ってしまう。

「あなたの真名で、リスピアに起こる出来事が書かれていたらしい。これは偶然とは思えぬゆえ、理由を聞こうとあなたを呼んだのだ」

アヤの代わりにルエリアが答えた。もはやルエリアのほうが事情を細かく把握しているようにも感じる。

「わたくしの真名で……? そしてこの国が? それはありえぬことです。
わたくしには予知の能力はありません。例えこの国に星読みの者がいたとしても、わたくしの真名を知るはずがない。その不可思議な書物とは……あなたが手にしているそれでしょうか?」

女神の視線の先には、アヤが胸に抱えた書物がある。アヤは頷き、それを恭しく差し出した。

エリスは両手で本を上下から挟むように持つと、目を閉じて何か呟く。風もないのにエリスの長い髪が、毛先をふわりと躍らせるように浮き上らせた。

人造物(アーティファクト)の歴史をたどっている」

エリスがしている事をルエリアが補足するかのように教えてくれたが、アーティファクトとか、クリーチャーとか何がどう違うのだろう。そう悩んだアヤだが、ルエリアがそれを理解し口を開いた途端。

青白い炎が虚空より現われて、あろう事か本を舐め取るように包んでしまった。

「エリス様!」

アヤは悲鳴じみた声で叫んだが、不思議な事に、エリスには髪の毛一本灼かれる被害はない。

どうやら対象は本のみだったようだ。

エリスは何事もなかったかのような顔をして、不安そうなアヤに心配ないと告げて頷いた。

そして形跡もなく消え去った本の事を思う。

「どうやら……これは巧妙な召喚書です。代筆者が長い時間をかけて書いたものでしょう。この世界へ来る事を強く願った、波長の合う最適なものだけを喚ぶようです」

アヤだけは不思議な顔をしながら、エリスの顔を見つめる。

「代筆……? でも、エリス様の意思ではないのですよね? じゃあ誰かが名を騙って……?」
「……わたくしの真名を知り、まだこの世に生のあるものは、本当に片手で数える者だけです――が、重要な秘密を一切誰に対して漏らさなくとも『無意識』の繋がりはそれを誰かに伝えてしまう事すらあるのです」

無意識で伝える? と、ますます分からなくなってきたアヤ。

そしてまた蘊蓄(うんちく)好きのルエリアが口を開いた。

「イメージトレーニング、というのは知っているだろう? 頭で理想的な動きの練習をする、というやつだ。
安定した意識を保つと共に、実は無意識下にそれらを刷り込もうとする。無意識というものはかなり重要なもので、人の精神というのは見えないながら、意識下で全てのものが繋がっている」

精神世界の繋がりや構造というのは、良く分からないアヤだったが……イメージトレーニングの話はアスリートなどもよく実行していると聞いた事がある。

「はい……イメージトレーニングをした事はありませんが、見聞きしたことはあります。刷り込んで、恐怖心を無くしたり、他にもいい効果が期待できるとか……」

アヤが知っている限りの知識を披露すれば、よく知っていたなと言われたが、それは褒められたうちに入るかどうかは……よくわからない。

「ただ、個々の無意識の中には真実の他に思い込み、虚偽も混じる。
それらを分けられないものも多勢いるわけだ。だが、無意識の集合体はそうではない。全知にして真実のみを伝えるだけ。その本を書いたのはそういったもの。自動書記で代筆した『誰か』がいただけだろう」

しかし、隠していた真名が知られてしまうのは、エリスにとってはいけないのではないか?

当然の疑問をぶつけてみると、エリスは首肯する。

「本来であれば、想像神以外でわたくしが全てを捧げても良いと思える者にだけ与えるのですから、大変由々しき事態です。しかし、その本があったのは異世界。そこまで遠い世界では、わたくしの力も全くといって良い程効果はありません」

公開されていたのが異世界という不幸中の幸いだったろう。

「しかし、よりによって召喚書とはな。歴史的にも学術的にも価値のある逸品だったという代物……母の名を知られては困るが、失ったのは実に惜しいな」

そして、ルエリアはあの本が消失したことに落胆していた。

大事なものを無くしてしまったのはアヤも同じであるが、彼女は先ほどの話に引っかかりを覚えた。

「……待ってください。
ええと……無意識というのが、色々嘘や本当のことも混じっていて、無意識の集合体というものは真実のみを教えてくれると仰ってましたよね……」

エリスとルエリア双方の表情を伺い、アヤはこれから言うことを恐れたのか、胸に軽く手を添える。

「じゃあ……やっぱり夜襲やレスター様のことは……予定された真実なんですか?」

アヤの声は若干震えている。ルエリアの表情が引き締まり、女王としての顔でアヤへ言い放つ。

「アヤ……冷たいことを言うようだが、仮にあの書物が真実を記す書だとして。レスターが国の防衛を第一に考えた行動を取っていたならば、その運命を止めることは出来ぬだろう。
レスターは騎士としてここにいる。主である余を護る事など今更言うまでも無いが、国と民を護る責務もあるのだ。この国で重要なのはレスターだけではない。全ての命は尊い。
余も、おまえも、レスターも、貴族も庶民も……そして物乞いも。身分や立場の優劣は存在しても、命の価値に優劣があってはならない」

アヤは眼を見開いて、息を呑む。

そこにある真実は、今迄体験した事がないほどの残酷さと冷静さ。

「では、わかっていても……何もできないというのですか?
国を護って死ぬ事と、飢え死にする事は同じなのですか? 一人が死ぬことで、代わりに誰か一人が生きていけるというのですか!」

そう訴えてみたものの、アヤの意見など、ルエリアの眉ひとつ動かすものにはならなかった。

「死は平等だ。理由と、いつ訪れるかが違うのみ。
食い物がなければ餓死。仮に自分の身体を食って生き延びようとしてもいずれやってくるのはショック死、失血死、病死。発狂だろうが衝動的だろうが命を絶てば自殺。国に攻めてきたものと戦っても刺殺、斬殺、轢死、爆死……この世に、髪一本の先、どこにでも存在するのだ。おまえはどう思う? 今死ぬのも一年後に死ぬのも、結局いずれやってくる。結果は同じではないか?
生きていることは奇跡だと、五体満足、衣食住足り得る毎日は素晴らしいと思わぬのか、アヤ?」

これ以上感情が溢れないよう堪えるアヤに、ルエリアは彼女へこちらの現実を突きつける。

「一人が死ぬことで、誰か一人が生きていけるというのか、そう聞いたな。
そうだ。一人の犠牲で、大勢の……数え切れぬ何者かの命が助かる事もあるのだ。
アヤ、おまえは強い思いを抱いて、この世界に喚ばれたのだろう。いったい何を思ってここへ来た?
心優しいおまえは、人の死を厭うが……では問おう。レスターをどうしたい?」

どくり、と。

アヤの心臓はひときわ強く脈打った。

開けてはいけないものを開けて見てしまった時のように、震えが止まらない。

「――……私、は……」
「申せ」

ルエリアの有無を言わさぬ強い言葉。だが、アヤは言葉が出せなかった。

否、出せないのではなく、出したくないのだ。

自分が何を思ってここに来たのか。

そして、この瞬間まで大きくは変わっていなかったから。

それがさらけ出されてしまう。

それを言ってしまえば、自分の感情を受け入れて、認めてしまう。

アヤの頬を一筋涙が伝い、それから堪えていた涙が溢れるのを止めることが出来ず、涙を拭いながらアヤはしゃくり上げた。

拭っても止まらない。

嗚咽も止まらない。

「泣けとは言っておらぬ! 申してみよ、おまえの内を!」

ルエリアの厳しい叱咤は、アヤの口を開かせる。

「私……私、この世界の話がっ……、未完のままじゃ、嫌で……!
リスピアがどうなるのか、続きが知りたくて……ずっと続、続きが……読みたい、って!」

――そうなのだ。

運命を容認し、レスターを見捨てるような言動をしたルエリアの考えを反対したが、アヤでさえ、『続き』を知りたいといった。つまり、エルティア戦記で読んだ後の物語――レスターが死んだ後の話だ。

それを突きつけられ、アヤはその場に立っていられなくてへたり込む。

自分が一番人の死に尊さを感じていないと悟り、レスターの顔が脳裏に浮かぶ。

「私、レスター様を……! ルエリア様をなじるだけで……何も……! 私は何にも出来ないんです!!」

綺麗事だけで、生きている世界とは違う。本当にここには人の生死がある。

アヤがレスターは死んでも構わない、と思っているわけではない。

思っていないが、ここに来て自分が何をしたいか、とは考えていなかった。

もうおやめなさいとエリスは言い、震えるアヤの肩へ手を置いた。

その手は温かくて、優しい。

ぬくもりが切なくて涙で濡れた顔を上げれば、エリスもまた悲しそうな顔をしたままアヤを見つめていた。

「……ルエリア、真実といえど言い過ぎです。アヤ、あなたは……もっと広い視野を持ってください。
いずれルエリアが女王として言わんとした事もわかりましょう……元の世界に戻れないのですから、学ぶ時間はとても長くあります」

アヤは意外そうな顔をしたが、涙は止まらない。

泣きながらどういうことかと再び尋ねれば、エリスとルエリアもばつが悪そうな顔をした。

「先程書物が発火して消失しましたね。あの本はあなたと元の世界を繋ぐ媒介となっていたのだと思います。
それが消えてしまったら、戻ることが出来ない、という事です」

エリスが故意に消した訳ではない。本当に、本が自ら記録を、存在を隠すかのように燃えたのだ。

「己が抱いていた本心もようやく分かったようだしな。戻れないというところのみでは同情する。生き方はおいおい考えれば良い」

戻れない、とアヤは涙を拭って呟いたが、戻れない事に関しては甚大なショックといえるようなものもなかった。今起きてしまった事柄のほうが衝撃的であったにせよ、自分の世界で、取り巻く環境で重要だったのは生活できるだけの資金と住む所と職場や学び舎で、他に小さいものをあげていけば多々あるだろうが、浮かぶものは特にない。ただ、行方不明になったら両親や友人は悲しむだろう。

携帯の支払いが督促されるとか、捜索願が出されるだろうとか、学校は卒業できそうにないなという……心配事はそれくらいだ。

リスピアの状況と比べるとなんとアヤの理由は程度が低くて悲しいものか。

いいや、『幸せなもの』なのだろう。

言葉も無く、力なく俯くアヤの頭上に、エリスはそっと手をかざした。

「アヤ……仮に再び異界の扉を開こうとも、次元の回廊は常に歪みを産んでいます。あなたのいた世界、住んでいた場所にきちんと元通り戻す事は我々神とて不可能です。知らぬ次元の世界に飛ばされれば、こちらからその次元の世界へ再び干渉は出来ないでしょう。
非力なわたくしには、あなたに加護を与える程度の事しか出来ません……」

きらきらと、エリスの掌から光があふれる。

それは彼女自身が纏うものと同じ光で、アヤにもそれを降らせてくれたようだ。

「異界の扉は開くだけ。行き先は誰にもわかりはしない。簡潔に言えば、おまえもこの次元の世界真理に選ばれた、それだけだ」

言っている意味が良くわからない。

真理だとか次元の回廊だとか。

ただ、エリスの身体を包む光は一片の希望のように、アヤの心へと染みていく。

「アヤ、あなたに月の女神エリスの加護を与えましょう。あなたの助けになりますように」

沢山の事柄がありすぎて混乱していた頭はそのままだったが、エリスの慈愛だけは深く感じ取れた。


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