【異世界の姫君/10話】

ぴくん、と指先が動き、それが合図になったかのように、意識がゆるゆると表面に浮いてくる。

薄く目を開いた。

きちんと目を覚ますため数回瞼を開こうとして、結果抗いがたい眠気を少し追いやることしか出来なかった。

あまり良く働かない、起き抜けの頭で今は何時だろうと考える。

確認するため、いつも枕元に置いてある携帯電話を掴もうとモソモソ手探りしている最中、知らない匂いと肌触りに気が付き、その手が止まる。

ここは自分の部屋ではないし、夢でもない、ということ。

眠った後も、元いた世界に帰ること無く――現実こうしてリスピアに滞在しているのだ。

まだ重い目を擦りながら、携帯ではなく枕元に置いてあった本をもう一度開く。

ゆっくり最初のページをめくるが白紙。

途中も白紙。

最後まで―― 一文字も記されていない。

どうして、この本から文字が抜け落ちてしまったの?

誰も答えることが出来ぬであろう問いを、心の内で発する。

本の中――『内』の世界に来てしまったから分からないだけで、本当はきちんと書いてあるのだろうか。

暫しの間を置き、アヤは身を起こすと、腕を上げて思い切り伸びをした。

考えていても仕方がない。何せ、時計も携帯もない今の状態では、正確な時間すら分かっていないのだから。

外の陽射しを和らげてベッドへ送っていた薄布のキャノピーを開け、サイドテーブルに置かれた金の呼び鈴をつまみ上げて鳴らす。

高い鈴の音が部屋に反響し、寝室の扉が三度ノックされた。

「リネットです」
「どうぞ」

扉が開き、見慣れた少女……リネットが一礼し、再びあの宝珠を取り出すと結界を解除して入ってくる。

「お目覚めですね。お身体の加減はいかがですか?」
「少し眠ったら、だいぶ軽くなりました」
「それはようございました」
「……あ、今何時ですか?」
「時刻は十一時を少し過ぎたところです」

リネットはベッドの上に正座しているアヤと会話を交わしながら、窓枠にも宝珠を押し当てつつ肩越しに振り返った。

「アヤ様はだいたい、一時間半ほどお眠りになられていましたよ」

そうですかとアヤは柔らかく答えつつ、時間の単位は共通なのかどうか、やや不安を抱く。

暦と月は呼び方が違っているため、ここがアヤの住んでいる現代世界において何月相当にあたるのか正確には分からないからだ。

「ちょっとお聞きしたいのですけど、一日って、何時間で区切られているんですか?」
「え? 二十四時間、です……」
「……一時間は何分で、一分は何秒ですか?」
「あの……? アヤ様?」

流石にリネットも返答に困っていた。

分からないからではなく、アヤの記憶がどこか変になってしまったのではないかと思ったのだ。

しかし、尋ねてくるアヤの様子は何もおかしいところがないため、純粋に疑問を投げかけたのだと一応、理解することに――した。

「一分は六十秒。
六十分で一時間、二十四時間で一日ですよ。
一ヶ月は三十日で、三百日で一年です。
――そういえば、時計はこの部屋にありませんでしたね。後でお持ちします」
「ありがとう。時間が分からないと不便ですから……あれば凄く助かります」

どうやらこの世界で十ヶ月が一年という以外、時間の感覚はアヤの世界と同じようだ。

礼を言って微笑んだアヤはベッドから出ようと床に足をつける。

床のひんやりと冷たい感覚が足指より伝わって、起き抜けに僅かな肌寒さを覚えた。

リネットがまだ湯気が立ち上る、温かいタオルを差し出す。

濡れたタオルと一緒に、数種類のハーブを配合し蒸気で温めたもの。

これで顔を拭くとさっぱりするのだという。

熱すぎたりはしないか気にかけつつ、恐る恐る受け取るが、そんなに熱くない。

ハーブの爽やかな良い香りが、清々しい気分にしてくれる。

「お召変えを行ったら、お食事を持って参りますね」

リネットはクローゼットの扉を開き、アヤに似合いそうな服を吟味している。

肌触りと通気性の良さそうな青いドレスを優しく取り出すと、アヤの側へ持ってきた。

「先ほど通達があり、姫君は一日二回、朝と夜に謁見の間へ赴いていただき、陛下へご挨拶と報告をすることになりました」

アヤは食事を摂りながら、部屋に入ることを許可されたレスターから口頭で説明を受けた。

はじめは、何やらびっしりとたくさん書きこまれている紙を渡されたのだが、アヤにはこちらの文字が記号のようにしか見えず――読めない事が分かったため、こうしてレスターが代わりに読み上げている。

「朝は本日の予定を告げるため、夜は本日の報告を行なうためです」
「では今日の夜から謁見の間に行って……今日の出来事を簡潔にお話すれば宜しいのでしょうか」

アヤの問いに、レスターもその解釈通りで大丈夫ですと首肯し――読み落としが有ったため、あ、と短い声を上げた。

「『例の本』を持ってくるよう記載されておりますが、その本というのが……記載されていませんね」
「大丈夫です……私にはわかります」

エルティア戦記の事だと即座に理解したアヤは、きゅっと唇を結んで頷いた。

それ(謁見)まで大人しくしていればいい――と思っていたのだが、

昼食後に、いかにも真面目そうな印象のある五十代前後の女性講師がやってきて、早速アヤは作法を勉強させられることになった。

恐らくこれもルエリアがつけてくれたのだろう。

今日のところは歩き方と礼の仕方……男性の騎士が護衛としてついているため、部屋に男性が居る場合気をつけるべきところを教え込まれた。

リネットは講師が来てしばらくした後、食器を下げるため戻っていった。

アヤの世話係となったため、ついでに新しいバングルやその他必要なものを整えに行ったようだから、暫くは戻ってこないだろう。

「姫さま! そこで笑顔……違います! 笑顔、え・が・おです! 違う、にやけではありません! 何度も気持ち悪い顔をしない!」

割とスパルタで、何度も失敗すると暴言が飛んだ。

見かねたレスターが姫君に失礼ですよと口添えしたが、講師は姫さまのためです、と聞く耳を持ってくれない。

アヤも『頑張ります』と熱心なので、余計な口を挟まないほうがいいようだと理解した。

自分は気を緩ませず黙って立っていようと思っていると、レスターは講師から強制的に椅子へ座るよう言われ、マナー講座の相手役にさせられた。

「あの、先生。わたしは任務中なのですが」
「わたくしだって任務中です!」

キッと睨まれ、レスターはそうですねと言葉を濁す。

どうやらレスター、こういうパワーのある相手は苦手なほうらしい。

もっとも、無理に逆らってもいい事はないのだが。

「レスターさまは笑顔がぎこちない! 貴方のお兄さんは上手ですのに!」

兄という単語が出た時、アヤは目を丸くしてレスターを見つめた。

彼はといえば渋い表情を浮かべており、じっと視線を送るアヤに気づいて、表情を元に戻すと同じように目を向けた。

「レスター様に、お兄さんがいらっしゃったなんて知りませんでした……」
「語るにも恥ずかしい愚兄です、あれは」

本当に嫌なのだろう。口調が少し荒い。

「あ……もしかして、さっきレスター様が仰った『自分ではない』っていうのは、お兄さんのことと思われて……?」
「……そういう可能性も否定できませんし、実際姫に――」
「はい無駄話はしない! 勉強中です!」

レスターの声を、講師の大声と手を叩いた音が潰す。

何が言いたいのか聞こえなかったのだが、もしかすると本当に兄弟の仲が悪いのかもしれない。

彼の気分を損ねる必要などないし、これ以上突っ込んで尋ねるのは好ましくないようだ。

そうして、夕方までスパルタ講義は続き――リネットが戻ってきた頃には、二人共椅子の背にもたれて疲れたような顔をしていた。

「なんだ、それくらいで音を上げるとは情けない。結果リネットも楽になっただろうし、おまえ自身も恥ずかしい思いをしなくて済むだろう?」

陽が落ち、再び謁見の間でルエリアに今日の報告を行ったアヤ。

膝をつき、つま先で体重を支え背筋を伸ばした姿勢で座っている。

ルエリアはマナー講座を良かった事だと当たり前のように指摘してくる。

確かにリネットやレスターの心労が減ったのはいうまでもない。

「しかし、無意識に男を誘う(すべ)は訂正しなくても良かったか。レスターもさぞ刺激的な毎日が送れただろうに」
「おたわむれを……」

同じようにアヤの横に跪いて、溜め息混じりに答えたレスター。

なぜそんな事まで知っているんだと言いたげな顔で、午前中のことを思い出したのか、頭を軽く横に数度振っていた。

「夜の誘い方も教えようか。宮殿にそういうのが上手い奴が居る」

結構です、とレスターが即答する。

「おまえではないよ、アヤに聞いている」
「姫君には尚更不要です!」

そう言いつつ、また赤くなったレスターの顔を見ながら、ルエリアはふふふと意地悪く笑った。

「ま、いい……アヤ、例の本は持って来ているな?」
「はい。こちらに……」

返事をしながら、アヤは『エルティア戦記』を掴んで胸の前に掲げてみせた。

よし、と言ってルエリアは立ち上がると、玉座の後方、右側にある白い扉へと近づく。

「アヤ、本を持って一緒に来い」
「は、はい……!」

アヤに続いてレスターも立ち上がった所で振り返り、おまえは来なくていいと告げる。

「ご苦労。休憩もなく疲れただろう。二、三時間だが暫し休息をしていて構わん。食事も摂っていないだろう。呼ぶまで自由にしていて構わない」
「……はっ」

レスターは短く返答するとルエリアとアヤへ一礼し、広間を去っていく。

ルエリアが指摘した通り、レスターは朝から食事を摂っていない。

彼自身、本日ようやくの自由行動となったのだった。


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