【異世界の姫君/9話】

結界を施したリネットが、そっと入り口のドアを開ける。

部屋の外では、もう平静を保っているレスターが、音に反応して此方を向いた。

「アヤ様はお休みになられました。慣れないことも多く、さぞお疲れだったんでしょうね」

リネットは顔だけ戸口に出し、レスターに中の様子を伝える。

「そうですか……」

ほっとしたような表情を浮かべたレスター。

安堵したのは姫に振り回されないからか、それとも休息をとっていることだろうか?

そう思うと、急におかしくてくすくすとリネットは笑う。

「何故笑うんです」
「だって……ふふ、聞きましたよ。室内にいてくださったのがレスター様で良かったです。
ですが、本当にアヤ様からのお誘いだったらどうされますか?」
「……な、あなたまで何を仰います!
確かにお美しい方ですが、だからといって良く知らぬ方にそのような行為など致しません!」

急に赤くなって弁明するレスターが、ますます面白い。

だが笑いすぎてアヤが眠れなくなっては困る。

リネットは手のひらで口を押さえて笑い声を小さくしたが、まだ肩がブルブル震えている。

「あら……良く知った方なら考える……という事ですか?」
「リネット殿! わたしは騎士です、断じてそのような考えは……」

なかったらどうしてそんなに赤くなるんですかと意地悪くつつけば、再びレスターが反論する。

「――賑やかなのはいい事だけど、大声はいけないと思うよ? 通路にも響くし」

耳に、静かなで男性の声が流れてきた。

煤色(すすいろ)の短く切りそろえた髪。

翡翠色をした右眼にかかる長い前髪が、彼の動きにあわせて揺れた。

浅葱色の左眼もやんわりと細められ、とても端整な顔立ちをした青年はレスターとリネットに笑いかける。

「ヒューバート様……」

レスターとリネットはこの国の騎士の最高位――神格騎士の称号を持つ、ヒューバートに深々と頭を垂れる。

黒衣の騎士は二人の前で止まり、右手を小さく上げて挨拶すると、そのまま扉を見つめた。

「ここが今城内ですごく噂に上がっていた、異国の姫君のいらっしゃる場所なの?」

ヒューバートはリネットに聞くと、彼女は少し頬を赤らめながらはい、と返事をして頷いた。

「アヤ様……凄い……ですか、やっぱり」
「うん。大臣たちも美しいと仰っていたからね。
女性たちにはいい気分じゃないかもしれないけど、独身騎士たちがそわそわしているよ」

お陰で訓練も集中しないから、厳しくしてきたと笑って答えている。

ヒューバートが厳しくしたというのだから、今頃修練場は立ち上がれぬほどきつい訓練を受けた若い騎士たちが、そこここに転がっていることだろう――とレスターは想像した。

「陛下から聞いたよ。レスターが姫の護衛だそうだね。おめでとう」

ヒューバートはレスターに笑顔を向け、大役だろうけど頑張ってねと肩を叩いた。

「お声をかけてくださり、ありがたく存じます」

小さく頭を下げると、ヒューバートは再びリネットへ顔を向ける。

その眼はとても優しく、見つめられているリネットも柔らかな笑みを浮かべた。

「皆が褒めている姫は、どのようなお方なんだろう?」
「絶世の美女、という言葉に相応しい方です。長く美しい黒髪に黒い瞳。
整ったお顔立ちで……ですが少々心配どころもあるので、目が離せません」

へぇ、とヒューバートは相槌を打つ。

「お疲れでしたので、只今はお休みになられておりますが。
先ほども、意味を知らずにレスター様へ『護衛だから中に居てもいい』と仰ったようです」

くす、とレスターを見ながら話を蒸し返すリネットに、レスターは口をへの字に曲げ、話を聞いたヒューバートも眼を丸くした。

「それは……なんとも苦悶する状況だったね、レスター?」
「……ですからそのような状況でも、わたしは自分が愛した方でなければ、と――」
「愛した方でしたら遠慮ないわけですね?」

やたらそこを強調したがるリネットに、レスターは『その話を引っ張るのはやめろ』といいたげな視線を向けた。

「そういえばレスターは浮いた話がないね」

ヒューバートが自身の知る限りでレスターの噂などを思い返してみたが、そういう話は全くといっていいほど無かった。

「わたしには……必要ありません。相手を不幸にさせてしまうだけですから」

そう言って押し黙るレスター。

ヒューバートはそんな彼の顔を見つめて、心配しなくていいんじゃない? と笑った。

「君の努力は現在に至る。みんなレスターの事を認めているよ」

リネットではなく、扉の向こうを見つめるヒューバート。

(くだん)の姫様は、君を怖がった?」
「……いいえ」

それどころか、一方的に気に入っていたと。

会えて嬉しいとも言っていた。

「きっと、わたしの事を良く知っていらっしゃらないからでしょう。
お解りになれば、きっとその心は変わります」

ヒューバートは、そう呟いたレスターの表情をじっと見ている。

しかし、赤い瞳はその心の中を表情に映して見せてはくれないようだった。

無関心ということではなく……感情そのものを消してしまったかのような表情を、たまにこの男はするのだ。

「レスター。無意識は現実を引っ張ってしまうこともあるよ。
そうならないように気をつけて」

忠告のように言い聞かせると、ヒューバートは懐から折りたたんだ紙を取り出し、リネットに陛下からの通達があると本題を口にした。

「リネット、陛下から直々にアヤ様の専属メイドとなるように……との仰せだよ」
「えっ……! 本当ですか!? わたし、メイド長様に叱られるのを覚悟で、姫の身の回りの御世話をさせて頂く許可をと思っていたので……しかも陛下から直接お声がかかるだなんて、嬉しい……!
このお手紙大事にします!」

本当に嬉しそうなリネットの頬を愛しそうにそっと撫で、ヒューバートも一緒に微笑む。

「実は用件はそれだけなんだけど、ちょっと長居しちゃったな。すぐ戻らなくちゃ……」

ヒューバートはそうして扉を見つめ、黒髪の異邦人、と感慨深げに呟いた。

それじゃあ、と小さく手を降るヒューバートを、左手を胸に添えて見送るレスター。

リネットもありがとうございましたと感謝を述べて深く頭を垂れた。

そして、両手に握った紙を嬉しそうに見つめる。

「よしっ、姫の御世話も頑張らなくっちゃ。ではレスター様。また後ほど」
『姫の専属メイド』へとクラスアップしたリネットは、レスターへにっこりと微笑むと、音を立てないように扉をそーっと閉める。

再び一人になったレスターは扉の前へと戻り、先程と同じく姿勢を正す。

長い通路に、中庭から入ってきた風が吹き込んでそよそよと抜ける。

通りすがりに花の香を残し、レスターの前髪を揺らしていった。

レスターはあまり花の種類などを多く知らないが、鼻腔に残る芳香は彼の知る花のものだと合致し、それ自体も確か中庭にある花だったと思い至る。

離宮は美しい作りだが、あまり生活感がない。

姫も数日滞在するのだというし、もう少し何か気を紛らわせてさしあげるものが欲しい。などとふと思った。

(花、か……)

宮殿内の全てはルエリアの物なので、許可無く摘みとることは許されない。

城下の花屋で売っていればそれを一束買うのもいいかもしれない――そう思った所で、レスターはハッと気づく。

(わたしは何を考えているんだ。買った所で渡す気なのか)

大体、貰ったって困るだろう。

そう一度は強く否定したが、姫は花を好きなのだろうか、とか、どんな暮らしをされていたのだろう、と新たな疑問も浮かんでくる。

『どうしていいか、落ち着かなくて』

ふと、アヤが言ったことを思い出す。

落ち着かないのは、自分も同じだったようだ。

自分も姫のことを言えないなとも思い、眉根を寄せてため息をつく。

レスターは今度こそ任務に集中するべく頭を軽く振り、足を肩幅に開いて呼吸を整えると、意識を切り替えるように通路の向こうを見つめた。


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