【異世界の姫君/8話】

「申し訳ございません、遅くなりました」

リネットが茶葉の入った四角い缶を手にして戻ってきた時には、アヤはどこかぼうっとしているように見受けられた。

レスターの方は特に変わった様子もない。

「……アヤ様?」

缶を小机にそっと置くと、アヤの側にやって来て、どうしたのですかと声を掛けるリネット。

そう尋ねても、アヤの目は感情が鈍いのか、とろんとしているままだ。

「お身体の調子が優れないのですか?」

心配するリネットだが、アヤは若干反応遅く『違うの』と返事をした。

「……少し、眠いだけです。
ずっと起きていて、眠れなかったから……今になって眠気が来たんじゃないか、と思います」

就寝前に本を読むのはアヤの日課だった。

寝る前に本を読んだりするのはよろしくないと言われるが、アヤの場合は逆に、余韻に浸って眠れるから好きだった。

まさかそのままリスピアに着くとは思っていなかったが。

「まあ、そうでしたか……たくさん寝てしまうといけませんから、二時間程度お休みになられてはいかがでしょう。そうすればお昼にも間に合います」

今、寝所しんじょの準備を致しますねと言って、働き者のリネットはくるりと寝室の方へ向き直った。

ダークグリーンのロングスカートと、ウェストで締めたエプロンドレスのリボンがリネットの腰で揺れる。

「お休みになられるのでしたら、わたしは外に出ていましょう……」

レスターが一礼すると、アヤは不思議そうな顔をする。

「え、外に出て行かれるのですか?」
「はい……姫は今からお休みになられるのでしょう?」

そうですけど、レスター様はここにいらっしゃって宜しいのでは、とアヤは当然のように口に出す。

「着替えは寝室でしますし……寝ている間、外で待っているのは色々大変なのではと思うのですけど」

つまり、アヤはここにいて良いと言っている。

それを理解したレスターは、困り果てたように額に手を置き、赤面した。

「……姫。本当に、何もこの大陸の常識をご存じないのですね。
このレスター、只今のお言葉聞かなかったことにさせて頂きます。失礼」

耳まで赤くしながら、銀の騎士は足早に部屋を出ていく。

何かまたおかしな事を言ってしまったか――と不安になった所で、リネットが薄手の寝間着を持ってきた。

「あ、レスター様は出ていかれたのですね」

それもそうですねと言いながら、リネットは仮眠前の邪魔にならぬようにとアヤの頭についたままのティアラやイヤリングを手際よく外していく。

「護衛なんだからいてもいいって言ったのですけど、出ていくって」

それを聞いた刹那。

リネットの手がビタッと止まり、顔は能面のように表情を消す。

「……アヤ様。本当にご自身がレスター様にそう仰ったのですか」

声が怖い。

ただならぬ迫力に、アヤは『また』やらかしたのだと悟る。

「はい。言いました……」
「そんなはしたない……! いけませんっ!」

リネットも顔を赤くして、ぶんぶんと頭を激しく振る。

そのせいでホワイトブリムが少しずれたが、それを直しつつ、もう一度『いけません』ときっぱり注意する。

はしたないと言われてショックを受けているアヤの表情を見て、はぁ、と大きな溜め息をつくリネット。

小柄な身体なので、身体全体で溜め息をついたようにすら見える。

「……やはり。本当に何も知らぬお方なのですね……いいですかアヤ様。
殿方が自室におられるとき、その気がない女性が寝所に入る前には必ず『寝るので出て行くように』というような旨を告げなくてはいけません。
そうしなければ、『私を好きにしてもいいですよ』という意思表示と同等なんです!」
「ひぃいい!?」

思わぬ事柄に、思わずショックで変な声を出して両頬を両手で覆うアヤ。

悲鳴をあげたいのはこちらです、とリネットも頭痛を堪えて呆れかえる。

「むしろ、独身女性と独身男性が一つのお部屋に一緒にいるのも誤解を招くのであまり良くありませんが……そこは勝手に出て行ったわたしが悪かったですね。
レスター様があらかじめ、『アヤ様は異国の方だからこの国の常識を知らない』と理解されていて助かりました……聞いたわたしでさえこんなにびっくりしたのに、アヤ様のような方から言われたなら、もっと大変でしたでしょう……」

リネットはアヤの着替えを手伝いながら、レスターに同情するような口調で戸口の向こうにいるであろう、騎士の心情を思った。

特別な間柄ではない場合、女性の身の安全(勿論貞操的な意味であるのだが)を守るのと同様、男性側にもあらぬ噂を立てられないようにという潔白を示す配慮である。

男性は部屋の女性が起きるまでこの部屋に入ることができないので、高貴な者達の間では同じ女性であるリネットのような者が側にいることが通例になっているというのも教えておいた。

「リネット、どうしよう……もう私恥ずかしくて顔を見られないかも」
「まったくです。
レスター様が節度有る方でよかったと心から思います。何かあっては、陛下にご報告も出来ませんからね……ところで、そちらの書物は……アヤ様の私物でしたでしょうか?」

アヤの傍らに、ハードカバーの本……エルティア戦記が置いてあるのを目に留めたようだ。

「そう。私が唯一持ってきた、大事な本……」

片手で適当なページをめくると、ルエリアが指摘した通り、そこにはもう何も記載されていない。

当然リネットは白紙の閉じ本を奇妙そうに見つめたが、すぐに気を取り直してアヤをそっと立たせる。

アヤを隣の寝室まで案内し、向こうまで透けてしまいそうな薄手のカーテンもついているキャノピーベッドに横たえ、胸までゆっくりケットをかけた。

「呼び鈴をサイドテーブルに置いておきます。側におりますが、何かご用があれば鳴らしてくださいませ」
「すぐにリネットが来てくれる?」

その言葉にリネットは胸が暖かくなったが、ご安心くださいと自分の右手首にはまるバングルを見せる。

「あの鈴が鳴るとわたしの腕輪が知らせるはずですので、必ず参ります」

リネットが置いた呼び鈴は少々特殊なものであり、振り鳴らせば、その場に一番近い者に知らせるように出来ている。

宮殿のメイドが全てバングルをはめているのは、いつでも迅速に対応できるようにという配慮からだ。

そして、担当を持てばまたバングルと鈴が変わる。

今度は個別に反応するようになるのだ。

後ほどリネットはメイド長にアヤの担当になれないか聞いてみよう、と思った。

生意気だと言われるかもしれないが、アヤは本当に知らない事だらけ。

ルエリアもリネットの顔は覚えているようだし、嬉しい事にアヤも自分を頼ってくれている。

何より、この常識知らずなお姫様は他のメイドの手に負えぬかもしれない。

安堵した顔でアヤはありがとう、と礼を述べるとゆっくり目を閉じる。

「おやすみなさいませ」

リネットも微笑んで一礼し、窓の側に近づいて十分に周囲へ注意を払う。

人の姿が無いのを確認した後、胸元のペンダントチェーンを引っ張る。

鎖についた薄紫に光る宝珠を掴むと、窓の四隅(よすみ)にそれを押し当て、何かの単語を唱えた。

すると瞬時に魔法の膜が窓に張りつく。

防犯の一種で、魔術の心得を持たない人でも簡単に結界が張れるというアイテムだ。

魔術師の結界と比べると弱い作りではあるが、結界が無理やり破られると、大きな音を立てるので非常に重宝している。

解除方法は術を施すときに使用したものと同一の宝玉で、作成時と同じ手順を踏むと解除される。

難を言えば、庶民が買うにはかなり高価という難しい点があるくらいか。

王宮のメイドたちはこれを貸与されている形になっており、無くすと魔術師たちに文句を言われ、挙句給料より引かれるという厳しいペナルティもあるため、自分たちで紛失しないよう工夫をしている。

同様の手順を部屋の四隅にも行い、リネットはそっと部屋を後にした。

ドアの閉まる音を聞いて、アヤは閉じていた目をそっと開いた。

上半身を軽く起こし、誰も居ないことを確かめて『ああ……』と声を漏らした。

ようやくアヤ『姫』ではなく、『ただの』アヤとして一人になったため、張っていた気が緩んで、どっと疲労感が襲ってきた。

再びベッドへ身を沈ませ、枕元へ持ち込んだ本に手を伸ばす。

眠っていないので倦怠感も出ているが、眠ってしまったら、次はここではなく自分の部屋で目が覚めるような気さえする。

頭のどこかで、これは夢なんだと思っているからだ。

確かに、夢の様な体験だった。

自分が一番好きな物語に入り込み、登場人物が実在したばかりか美しいと持てはやされ、美麗なドレスを纏い……一生真面目に生きたって、体験できるような話ではない。

空から落下していた時、夢なら覚めればいいと思ったが、今は――……帰りたいとも思うし、帰りたくないとも願う。両方偽りないアヤの本心だ。

本の続きが、本当のことが知りたいと願った。

もしも、これが夢ではないのなら次に目が覚めてもここにいるはずだ。

だが、本来の時間はどれほど進んでいるのだろう?

深夜になるかならないか程度だった気がするから、まだ深夜か朝方だろうか?

自分が居ないと気づいた誰かが、心配しているかもしれない。

大騒ぎで警察とかに電話をかけられていたり、捜索願が出ているとか。

少し後ろめたい気持ちになってしまい、それを切り替えようとリスピアのことを考える。

ルエリアはとても神々しく華やかな美しさが印象的で、レスターは――素敵な人だった。

とはいえ、エルティア戦記自体に挿絵は一枚もなかったから、実際ルエリアやレスターがどうである、という描写で彼女なりの人物像を想像したに過ぎなかった。

二人共あまりに美形だったので、まっすぐ見つめられただけで胸がどきどきした。

今思い返しても同じように鼓動は速くなる。

しかし、外見でレスターを気に入ったわけではない。

ルエリアに忠誠を誓い、身命を賭して国を守った姿に心打たれたからだ。

『わたしの事が良いようにお耳に届いておいででしたら……ひょっとすると、それはわたしの事ではないのかもしれません』

せっかく勇気を振り絞って正直に『気に入っていた』と告げたのに、レスターはそれをやんわりと否定していた。それはそれでショックではあったのだが、仮にアヤが知らない男から同じ事を言われたとすれば、気持ち悪いと思うのと同様だろう。

(どうしよう。私、気持ち悪がられているんじゃ……?)

実際変な態度ばかりとっているらしいし、レスターが音を上げて担当を変えてくれというのも時間の問題かもしれない。

穴があったら入りたい――そんな気持ちになった。

色々悶々としているうちに、アヤの気持ちと反して身体は休息を強く訴える。

眠りの粉が頭上から振りかかっているかの如く、どんどん瞼は重くなる。

もしも、またここで目が覚めたら。

ふと、レスターのぎこちない笑みが浮かぶ。

あの人は、どんなふうに笑うのだろう。

どんな事を楽しむのだろう。

だって、自分は何もレスターを知らないから。

(……レスター様の、いろんな顔、見てみたいな……)

それは、なんだか素敵な楽しみのように感じたまま――ゆるゆると眠りについた。


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