クレイグとゴヴァンはまだ潜伏しており、レスターも健在。
リスピア王国には、今のところ大きな問題はないようだ。
しかし、この世界にやって来てしまったアヤには、帰る方法が見つからない。
半ば途方に暮れながらも、握って離さない本に視線を落とす。来た時と同じように強く念じれば、帰れるのだろうか……?
「帰る方法が分からぬのなら、考えていても仕方あるまいよ。ルエリアはそう言って椅子から綺麗な動作で立ち上がると、渡り廊下の方へ向かっていく。
庭園から廊下に入る場所に、木製の丸テーブルがあった。
机上には金色の小さな呼び鈴が置いてあり、ルエリアはそれを細い指先でつまみ上げ、短く振る。
チリ――ン……。
高い音が廊下に響き、余韻を残しながら長い長い廊下に吸い込まれるように消えてゆく。
それが消え、数秒経った頃。
小さくパタパタと駆けてくる音が廊下の奥から聞こえた。
次いで、現れた人影。
「お、お呼びでしょうか!」枯茶の髪を首の辺りでまっすぐ切りそろえて、後頭部に黒のリボンをつけているメイドらしき少女がこちらへ走ってきた。
アヤよりは年齢が下のように見受けられたが、このメイドに関する事は何も知らない。
この本に載っていないことは大きな行事であろうとも、アヤには何一つ知る事は出来なかったのだ。
「ああ。そんなに急いで走ってこなくても良いぞ。ルエリアは後ろを振り向かぬまま、扇を肩越しにアヤへと向けて指す。
娘? と、怪訝そうに思ったのだろう。メイドは上半身をそっと傾け、ルエリアの後方を窺い見る。
呆然とこちらを見つめている黒髪黒目の娘……アヤと目が合った。
ハッとしたメイドは、すぐに姿勢を正し――思わず、ほぅっと息をついた。
「なんとお綺麗な……あ、いえ、ルエリア様はいつも非常にお綺麗です!」どこかうっとりとした声でメイドはルエリアと会話しているのだが、アヤは当惑するばかりであった。
はつらつとした喋り方。顔立ちも幼さが残るが、肌もきめ細かい。
髪は丁寧に梳っているのだろう。
切れ毛もなく、陽光に輝いている。
先程もルエリアは自分を褒めてくれたが、このメイドやルエリアのほうが、自分よりもずっとずっと、比べ物にならぬほど綺麗だと思うから褒められた事を不思議に思うばかり。
「流石に褒められるのは慣れているようだな」ルエリアがアヤに振ると、彼女は慌てつつ、違いますと両掌を振って答えた。
「綺麗って言われるのは当然嬉しいですが、彼女のほうが私より美人ですよ。私なんか平凡な顔ですし、金髪とかじゃなくて黒いですし……最近髪も切りに行ってないから、切れ毛なんかもあるので……」そう言われたメイドの少女は逆に驚いて、次にしょんぼりするように肩を落とした。
「アヤ、お前の国は黒髪黒目が普通なのか? 羨ましい国だな。至極丁寧なルエリアの解説。
そういえば、この物語に黒髪、または黒眼という人物は一人も出てこなかった。
しかし、顔の造形ではなく色で決まってしまうのは有難いのか悲しいのか。
「ごめんなさい。そういう色のこと、全然私は知らなかったです。少し乱暴にルエリアはアヤの顎を掴んで上に向かせ、まじまじと見つめてくる。
間近で美しい女性に穴が開くほど見つめられ、アヤは同性であるにも関わらず、心音が速くなるのを感じる。
「……きちんと整っているぞ。左右の顔対比も大きく違っておらず、眼もつぶれていないし、鼻も曲がっておらん。美しいではないか」アヤの言葉にメイドは絶句するように口元に両手を当てて目を丸くし、ルエリアも眉をつり上げたが、すぐに元の表情へと戻る。
「……おまえの住む場所では、それが当たり前のようなもの、か……。とても理想的で幸せな国だ。ずきん、と、アヤの心に見えないものが差し込まれたような痛みが走る。
そんなアヤを残し、ルエリアはメイドに二言三言告げて、あとは任せたと一人白い廊下を歩いていった。
メイドは恭しくルエリアに向かって頭を下げている。
女王の姿が見えなくなると姿勢を戻し、気まずそうな顔をしているアヤに向き直ってご案内いたしますと告げた。
それに何とか頷きを返し、歩きながらもアヤは自分の無知さを悔やんで、本を握り締める。
『この国は戦地。苦しむものも多勢いるのだ』ルエリアの言葉が頭を巡る。
そうだ、この国は戦の真っ只中。
日に日に犠牲は増え、悲しみと復讐の更なる負の連鎖が待っている。
自らの粗忽さに足を止め、目を瞑る。目頭が熱くて泣きたくなった。
――なんて、なんて私は愚か。無知だったとはいえ、とても酷い事を言ってしまった。
「ど、どうかなさいましたか?!」メイドが怪訝そうに振り返り……アヤの様子がおかしい事に気づいて駆け寄ると、肩に手を置いて異国の女性、アヤの顔を覗き込んだ。
メイドの声は早口で、戸惑っているのが伺える。
「ごめんなさい。私は軽率でした。この国の状況も、ルエリア様やあなたたちの辛さを考えもせず、自分の中の常識で話をしてしまって……」メイドはアヤの言葉に耳を傾け、何かを言おうとしては口を閉ざすのを繰り返し……首を横に振る。
「わ、わたし……ごめんなさい。どうお答えしていいか……私に? という表情で相手を見やると、メイド少女のほうも泣き出しそうである。
「お美しくて、なおかつ幸せな国にお生まれのようでしたから羨ましくて。メイドの少女はごめんなさいと謝りながら涙を零してしまった。
アヤはそれを見つめ、胸が締め付けられるほどの辛さを味わう。
その少女に手を伸ばし、涙をぬぐってぎゅぅと抱きしめてやりたかった。
だが、それをしてはいけないと思い留まる。
『エルティア戦記』は主人公レティシスを軸にして語られている。
読みやすい文体だったし、何よりアヤはこの本が大好きだったから何度も読んでいる。
世界背景も大体は覚えてしまうほどに。
だが、登場人物や背景が分かったとしても、上辺を撫でただけに等しいことだと理解した。
(私が読んだ書物での創られたリスピア王国。そして私が実際にいる、現実としてのリスピア王国。目の前のメイドの少女の涙は、書物に記せば数文字、あるいは数行かからずの間で済まされていただろう。
何一つ現状の姿を知らぬままでは、彼女の気持ちを上澄みにも理解できない。
辛いとか悲しいとか、それだけの感情なんかではないと知ったアヤは、どうすることも出来ぬまま――泣き止むまで、メイドの少女の傍らに居ることしかできない。
そして、自分もこれから知ることになるのだ。
書物で語られぬ、リスピア王国の真の姿を。
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